著者の略歴− 1941年生まれ。現在、パリ第X大学の教授(歴史学)。社会通念が歴史的にいかに形成されてきたかを、具体的に身体を通して明らかにしている。既訳書に「清潔になる<私>−身体管理の文化誌」(見市雅俊ほか訳。1994年、同文舘刊)。他に「教育権の歴史」(1978年)、「スポーツ文化の歴史」(1985年)、「健康と不健康」(1993年)ほか。 社会事象を歴史に遡るとき、多くは一本調子な記述になりがちである。 たとえば、学校はギリシャのエスコールに始まるとか、 江戸時代の藩校や寺子屋が起源だといいたがる。 学校という歴史的事実に注目するあまり、歴史は常に均質だったと見なされている。 だから学校という事象が昔から変わらないように記述され、学校の一貫性を述べてしまうのである。 しかし、今日の学校を支える理念は江戸時代の藩校とは、明らかに違うものだ。 ギリシャ時代のそれとはまったく違うと言ってもいい。
勃起した男性器の女性器への挿入によって、種が保存されてきた以上、性交は不断におこなわれてきた。 人間の肉体構造は変わらないので、性交のおこなわれ方が変わるはずがない。 しかし、性交は秘められておこなわれてきたから、性交が両者の同意のもとだったか否かは、当事者でなければ理解のしようがない。 そうしたなかで、当事者の性的な関係の作り方に対する、意識のありようはまったくと言っていいほど変わった。 強姦も同様である。 力の強い者が弱い者を、何らかの力を用いて、性的な関係を強制する事件は大昔からあった。 強姦がなかったとは考えられない。強姦に対する認識が変わったのである。 本書が優れているのは、性的な関係を歴史基軸のなかに置くとき、性的なものを見る社会の視線の変化ととらえていることである。 性的な関係は性交に限らないが、便宜上性交という言葉を使うと、事実としての性交と強姦の違いはない。 両者が進んでおこなっている性交と、脅迫や迎合によっておこなわれている性交は、外見上ではそれほどの違いを見せない。 凸型が凹型に挿入される事実は、事実でしかない。 その結果、子孫の誕生につながることも同じである。 しかし、当事者の心的な状況は、まったく違う。 すすんで行われる性交は悦びであるが、強姦は苦痛以外の何ものでもない。 人間の意識を決めるのは、時代性や社会性である。 本書は事実の同一さに目を向けず、事実を見る社会の目の変遷を克明に追っている。 本書は旧体制下の暴力から話を始める。 その時代の暴力は、身分と不可分だったのだ。 暴力と強姦は、当事者の社会的身分が重視されるという点がまったく共通していた。マザリヌ街の事件では、マリ・アンヌ・エベは貧しい孤児だった。家族的・社会的な支援がないという事実は裁判官の注意を増す方向には働かず、一方、商人の息子であるグリュッスの裕福さは裁判官の寛容を引き出す下地となった。こうした形で罪が軽くなることについては犯罪理論によってほぼ理論化され、正確な様式で書き表わされて法と同等に適用されている。(中略)それは多かれ少なかれ厳密に(被害者の)身分に従って罰せられる。 それと対照的に、加害者が貧しければ罪は重くなる。まったく同じように社会的地位から自動的に生じる結果である。P28 女性は男性の所有物であり、女性には人権がないと考えられていた長い長い時代、女性は主体になり得なかった。 だから、今日のような女性への犯罪という強姦観念が、成り立たなかったことは想像がつく。 そのうえ、当時は人間の命よりも、財産のほうに価値があった。 財産所有の秩序に反する行為は、殺人よりも重罪だった。 この時代、だから強姦は、男性の所有する女性という財産への破壊行為とみなされた。 処女である財産を処女でなくした、つまり強姦は男性の財産への侵略だった。 つまり所有権の侵害の限りで、強姦は犯罪とされたのである。 それは同時に当該社会が、肉体労働に基礎をおいていたことの証でもあった。 動力源として人間の肉体しか頼れなかった時代、屈強な肉体には信がおかれざるをえなかった。 屈強な肉体が労働し、社会を支えていた。 男性の勃起を支えていたのも、屈強な肉体の賛美があったからである。 暴力とは、肉体的腕力の別表現である。 屈強な肉体の賛美とは、暴力の必然性を内包したものだった。 肉体労働と暴力は、盾の裏表だったのである。 以上の理由から、強姦は犯罪として取り上げる必然性をもたなかった。 フランス革命は個人という概念を自覚させた。 18世紀後半に刑罰の新たな見直しがはじまり、まず最初に、司法による暴力的な刑罰が変化した。司法の儀式である絞首台や足枷、苦痛と血の見せ物が世紀末にはだんだん受け入れられなくなった。(中略)処刑人の暴力に敏感になったことは、言うまでもなく、犯罪者の暴力に対してはさらに敏感になっていることを示す。P96 この時代には、フィリップ・アリエスも言うように、子供への視線の変化もあった。 筆者は子供への性的暴力と、女性へのそれを同じ次元で語る。 ともに主体になりえなかったのだから、歴史を振りかえれば当然の視点である。 本書はフランスを分析の対象にしているが、C・ディケンズの「オリヴァー・ツウィスト」が同じ時代のイギリスの状態を描いている。 「半人前の大人」と考えられていた子どもが、大人とはまったく違う存在として、保護と教育の対象となりはじめた。P94 近代が本格的に始まると、現在の我々の感覚に近づき始めた。 しかし、近代の市民革命は、男性だけを神から解放し、女性を自由人とはしなかった。 だから男性優位は変わらず、強姦への見方も変わらなかった。 女性の地位の変化は遅々たるものだった。 本書は多く例を引きながら、克明にその後をたどるのである。 20世紀の中頃までは、強姦されたほうにも非があるのではないかと見なされやすかった。 加害者いわく、女性が挑発したのだ。またいわく、拒まなかった、合意だった。 本当の変化は、1970年代に入ってからだった。 情報社会化が成熟したので、肉体労働に価値をおかなくても、社会がやっていけるようになった。 だから男性の屈強な肉体を、価値として切り捨てることが可能になった。 いまや戦争すら、テレビ画面でおこなう。 暴力を排除することが、ここで初めて可能になったのである。 肉体という自然から社会的な価値を切り離し、観念という浮遊するものへと乗り移った。 ここで語るべきは、フェミニズムの登場である。 フェミニズムの登場を支えたのは、生産が肉体労働から頭脳労働へとシフトしたからである。 かつては言葉による攻撃は、暴力とはいわないで、侮蔑とか罵倒といった。 しかし、言葉による暴力とか、観念による強姦といった、矛盾した表現が登場した。 子どもへの暴力の数字や、それが引き起こした発言や行動には、性的暴力それ自体についての新しい見方が現われている。精神的な傷の深さや後遺症の時間の長さが非常に重要なものと見られていることだ。それが決定的で明らかだと主張されることが多く、時には加害者までそう思い込んでいる。「決して治らない傷なんだ、わたしは一人の人間の人生を破壊してしまった」。ある囚人は1996年に問われてこう語っている。成人の強姦について語られた論点を思い起こせば何の不思議もない。精神的苦痛が考慮され、その苦痛が幼い時期に起きれば起きるほど結果はより重大だとみなされる。驚くべきなのはむしろ、この確信が一般化されていること、この感覚が20年ほど前から一般通念にまでなっていることである。P341 個人の自立は社会的な支えを失わせ、不安定さのなかに個人を追い込んだ。 情報社会では、肉体の桎梏からは逃れたが、観念の呪縛にはまりこまざるをえない。 本書は、強姦を男性からの女性の性暴力だけに限らず、力の強い者から弱い者への強制力の発揮ととらえた。 だから、きわめて懐の深い分析が可能になった。 前近代から近代への転換、そして現代への転換と、価値観の推移を背景に強姦を通した社会論となっている。 しばらくぶりに読んだ好著である。 蛇足ながら翻訳者のあとがきでは、強姦が女性への性的暴力の問題にすり替えられてしまっている。 翻訳者なのだから、本書最も良く理解していそうなものだが、通俗的な大学フェミニズムに犯されると、翻訳の知性が曇ってしまうのだろう。 (2002.7.5) 感想・ご意見などを掲示板にどうぞ 参考: ジョン・ハワード「18世紀ヨーロッパ監獄事情」岩波文庫、1994 山本譲司「累犯障害者」新潮社、2006 足立正生「塀の中の千夜一夜」愛育社、2005 三浦和義「弁護士いらず」太田出版、2003 浅野健一「犯罪報道の犯罪」新風舎文庫、2005 山崎哲「<物語>日本近代殺人史」春秋社、2000 菊田幸一「日本の刑務所」岩波新書、2002 有村朋美「プリズン・ガール」新潮文庫、2005 佐藤清彦「にっぽん心中考」文春文庫、2001 管賀江留郎「戦前の少年犯罪」築地書館 2007 浜田 寿美男「自白の研究」三一書房、1992 小田晋「少年と犯罪」青土社、2002 鮎川潤「少年犯罪」平凡社新書、2001 流山咲子「女子刑務所にようこそ」洋泉社、2004 藤木美奈子「女子刑務所」講談社文庫、2001 ヨシダトシミ「裁判裏日記」成美堂出版 2008 小室直樹「痛快!憲法学」集英社、2001 芦部信喜「憲法判例を読む」岩波書店、1987 D・T・ジョンソン「アメリカ人のみた日本の検察制度」シュプリンガー・フェアラーク東京、2004 河合幹雄「安全神話崩壊のパラドックス」岩波書店、2004 河合幹雄「日本の殺人」ちくま新書、2009 J・S・ミル「女性の解放」岩波文庫、1957 赤松啓介「夜這いの民俗学」明石書店、1984 H・J・アイゼンク「精神分析に別れを告げよう:フロイト帝国の衰退と没落」批評社、1988 櫻田淳「『弱者救済』の幻影:福祉に構造改革を」春秋社、2002 ジョルジュ・ヴィガレロ「強姦の歴史」作品社、1999 R・ランガム他「男の凶暴性はどこからきたか」三田出版会、1998 ジェシ・グリーン「男だけの育児」飛鳥新社、2001 斉藤学「男の勘ちがい」毎日新聞社、2004 ジェド・ダイアモンド「男の更年期」新潮社、2002 ジョージ・L・モッセ「男のイメージ」作品社、2005 北尾トロ「男の隠れ家を持ってみた」新潮文庫、2008 小林信彦「<後期高齢者>の生活と意見」文春文庫、2008 橋本治「これも男の生きる道」ちくま書房、2000 鹿嶋敬「男女摩擦」岩波書店、2000 関川夏央「中年シングル生活」講談社、2001 福岡伸一「できそこないの男たち」光文社新書、2008 M・ポナール、M・シューマン「ペニスの文化史」作品社、2001 ヤコブ ラズ「ヤクザの文化人類学」岩波書店、1996 エリック・ゼムール「女になりたがる男たち」新潮新書、2008 橋本秀雄「男でも女でもない性」青弓社、1998 蔦森 樹「男でもなく女でもなく」勁草書房、1993 小林敏明「父と子の思想」ちくま新書、2009
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