匠雅音の家族についてのブックレビュー     近代科学を超えて|村上陽一郎

近代科学を超えて お奨度:

著者:村上陽一郎(むらかみ よういちろう)
 講談社学術文庫、1986   ¥760−

著者の略歴−1936年東京生まれ。東京大学教養学部教養学科(科学史料学哲学分科)卒。東京大学先端科学技術研究センター教授を経て,現在,国際基督教大学教授。主な著書に「日本近代科学の歩み」「近代科学と聖俗革命」「科学と日常性の文脈」「時間の科学」など。学術文庫に「科学史の逆遠近法」「宇宙像の変遷」「ハイゼンベルク」「科学的発見のパターン」(訳)がある。
 文庫になったのは1986年だが、本書に収録された文章が発表されたのは、1970年代のはじめである。
学生運動の熱気がさめやらぬ70年代には、学問の専門性や個別性をどう克服するかが、大きな話題になっていた。
また反科学=反近代の動きも、台頭しはじめていた。
そうした時代背景のなかで、近代科学=近代への思い入れと、その延命をはかって、本書は書かれたものと思われる。
トマス・クーンのパラダイム論からの引用が目立つが、現在読んでも古びてはおらず、多くの版を重ねていることも肯ける。
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 科学もしくは学問的な精緻さというと、データという事実を積み重ねることだと思われがちである。
すくなくとも、データに基づかない理論は、空論として退けられてしまう。
また学生たちがおこなう実験では、事実をよく観察して結果を導きだすことが要求される。
そこで、科学はデータの積み重ねによって、発展してきたと勘違いされる。

 しかし、科学の発展は事実に基づいて進むものではない。
おおくの事実を積み重ねると、そこから新たな理論が現れるのではない。
何らかの理論的な枠組みに基づいて、人間の認識はおこなわれる。
だから、科学上の大発見は、認識構造の組み替えと言うことになる。

 科学者の「広義の創造性」は、結局、これまで知られていた「事実」を、別の「意味空間」−その最も具体的に成文化されたものが、ここに言う「理論系」である−のなかに位置づけることに他ならない。
 「ヘウレーカ」(判ったぞ!)という叫びは、決して単に新しい「事実」を発見した叫びではない。今までに蓄積された「事実」群が、これまでとはまったく違った「有型性」を形造ったときにこそ発せられる叫びである。

 上記の言葉は、正鵠を得ている。
データを集めることが発見を生むのではなく、データの読み替えが発明や発見につながるのだ。
社会学においても同様である。
世の識者たちは、家族のあり方が多様化した、という。
多様とは、さまざまということである。
多様化と言っただけでは、何も言ってないに等しい。
家族は多様化したのではなく、単家族化しはじめた、と私は理論化した。
「単家族」という概念を発見したときは、家族の変化に法則性が提出できた、まさにわかったぞだった。

 平常の研究は、データの収集と積み重ねだろう。
データが不要だと言っているのではない。
理論はデータの上に成り立つ。
しかし、重大な転機における新たな理論というのは、データ=事実を見る目の組み替えである。
それは本書で何度も強調される。

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 プトレマイオスとコペルニクスでは、決定的な転換があったとされる。
が、実はプトレマイオスの円を使った説明でも天体の運動は説明できた。
地動説でも、論理的な破綻はなかった。
しかし、コペルニクスだった。ここには、事実=データの違いがあるのではなく、理論の違いがあるだけである。

 近代以降、科学は発展してきたが、公害の発生など、同時にその歪みも生まれてきた。
そこで、科学そのものを否定するような動きが生まれてきた。
1970年代以降、反近代というか反科学といった、動きも台頭してきた。
筆者はそれに対しては、反対の立場をとる。

 今日わが国に流行としてびまんしている反進歩の思想は、経済規模の拡大を進歩と混同したうえでの、きわめて皮相な性格のものである感を免れない。今日のわれわれにとって最も急務なことは、われわれの未来をわれわれが制御する、という強い意志と実行力であり、またそれらを支えるために、未来への「進歩」を自らのうちに再確認することではなかろうか。P162

まったく同感である。技術は技術によってしか解決できない。
公害がいかにひどくても、その公害を解消させるのは、公害を生みだした科学である。
公害撲滅のために政府の動きが鈍いのは事実だが、それと科学そのものとは別問題である。

 現在の現象的な公害の解決には、私はそれほど悲観してはいない。新しい問題の発生は、あらゆる「発展」につきものであり、それが大企業のエゴイズムやその大企業優先の政策しかとれない政府に直接の責任があるのであれ、そういう公害現象を、料学技術の準拠枠のなかで解決することは不可能であるはずはない。いや、それ以外に何の手段があるというのか。P178

 環境を守れと言う運動は、きわめて保守的な思想の表出であり、懐古的なものだ。
いったいどんな環境を守るというのか。
トンボがとんで、小川には魚がいるのが、美しい環境なのか。
砂漠や荒野そして洪水・落雷は、美しい環境ではないのか。
環境は守るものではなく、創るものである。
それには科学しか対応できない。

 近代科学は、そして近代は、近代以外の方向から否定されるのではない。
よりいっそう近代を進める形で、近代は克服されなければならない。
そう述べる筆者の立場に、私は基本的に賛成する。
しかし、著名なこの学者の文章のむこうに、参考にしたオリジナルが隠されているような気にもさせて、寂しいのも事実である。
わが国からは、パラダイムシフトはおきないのだろうか。   (2002.7.19)
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参考:
ジョン・デューイ「学校と社会」講談社学術文庫、1998
ポール・ウィリス「ハマータウンの野郎ども」ちくま学芸文庫、1996
フィリップ・アリエス「子供の誕生」みすず書房、1980
M・ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」岩波文庫、1989
アンソニー・ギデンズ「国民国家と暴力」而立書房、1999
江藤淳「成熟と喪失:母の崩壊」河出書房、1967
桜井哲夫「近代の意味:制度としての学校・工場」日本放送協会、1984
G・エスピン=アンデルセン「福祉国家の可能性」桜井書店、2001
G・エスピン=アンデルセン「ポスト工業経済の社会的基礎」桜井書店、2000
桜井哲夫「近代の意味:制度としての学校・工場」日本放送協会、1984
ソースティン・ヴェブレン「有閑階級の理論」筑摩学芸文庫、1998
オルテガ「大衆の反逆」白水社、1975
E・フロム「自由からの逃走」創元新社、1951
アラン・ブルーム「アメリカン・マインドの終焉」みすず書房、1988
イマニュエル・ウォーラーステイン「新しい学」藤原書店、2001
田川建三「イエスという男」三一書房、1980
ポール・ファッセル「階級「平等社会」アメリカのタブー」光文社文庫、1997
橋本治「革命的半ズボン主義宣言」冬樹社、1984
石井光太「神の棄てた裸体」新潮社 2007
梅棹忠夫「近代世界における日本文明」中央公論新社、2000
小林丈広「近代日本と公衆衛生」雄山閣出版、2001
前田愛「近代読者の成立」岩波現代文庫、2001
黒沢隆「個室群住居」住まいの図書館出版局、1997
フランク・ウェブスター「「情報社会」を読む」青土社、2001
ジャン・ボードリヤール「消費社会の神話と構造」紀伊国屋書店、1979
エーリッヒ・フロム「自由からの逃走」創元新社、1951
ハワード・ファースト「市民トム・ペイン」晶文社、1985
成松佐恵子「庄屋日記に見る江戸の世相と暮らし」ミネルヴァ書房、2000
デビッド・ノッター「純潔の近代」慶應義塾大学出版会、2007
北見昌朗「製造業崩壊」東洋経済新報社、2006
小俣和一郎「精神病院の起源」太田出版、2000
松本昭夫「精神病棟の20年」新潮文庫、2001
斉藤茂太「精神科の待合室」中公文庫、1978
ハンス・アイゼンク 「精神分析に別れを告げよう」批評社、1988
吉田おさみ「「精神障害者」の解放と連帯」新泉社、1983
古舘真「男女平等への道」明窓出版、2000
ジル・A・フレイザー「窒息するオフィス」岩波書店、2003
三戸祐子「定刻発車」新潮文庫、2005
ケンブリュー・マクロード「表現の自由VS知的財産権」青土社、2005
フリードリッヒ・ニーチェ「悦ばしき知識」筑摩学芸文庫、1993
ソースティン・ヴェブレン「有閑階級の理論」筑摩学芸文庫、1998
リチヤード・ホガート「読み書き能力の効用」晶文社、1974
ガルブレイス「ゆたかな社会」岩波書店、1990
ヴェルナー・ゾンバルト「恋愛と贅沢と資本主義」講談社学術文庫、2000
C.ダグラス・ラミス「ラディカル デモクラシー」岩波書店、2007
オリーブ・シュライナー「アフリカ農場物語」岩波文庫、2006
エマニュエル・トッド「新ヨーロッパ大全」藤原書店、1992


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