著者の略歴−1837〜1916。イギリスの外交官・著述家。公使館書記官として1866〜70年の間日本に滞在し,明治維新後の新政府との外交交渉に尽力した。「昔の日本の物語」「ガーター勲章使節団日記」邦訳名「英国貴族の見た明治日本」など,日本に関する著作が多数ある。 ある社会に生活している人は、その社会が所与として与えられている。 だから、その社会の価値観を疑うことは少ない。 ましてや日常の習慣に、違和感をもつことはない。 そのため、同国人の書いたものには、驚きが少ない。 そういう意味で、明治以前に来日した外国人たちが、書き残したものは、わが国の日常をくっきりと浮かび上がらせてくれる。 古くはルイス・フロイスの「フロイス日本」などが、生活誌を知る上で有名である。
本書に限らず、明治期に来日した外国人の記録は、たくさん上梓されている。 私はそうした書物を、好んで読んできた。 なかでも、オールコック「大君の都:幕末日本滞在記」やアーネスト・サトウ「一外交官の見た明治維新」などは、明治維新を考える上では必読文献だろうと思う。 本書もまた同様に、重要な文献であり、かつ生活誌を知る上でも有用である。 まだ江戸さめやらぬわが国で、西洋人が生活するのは大変だったろう。 習慣が違うことはもちろん、数少ない外国人は常に監視されていた。 物見高い見物人がいたというのではない。 いまでもある国へ行くと、外国人は監視されているのは事実である。 外国人と当該国の利害は、必ずしも一致しないからだ。 そこでは外国人に対する敵意が、存在すると言っても良い。 我々が日本との交際を始めた初期の頃の生活の状況を、今日では理解することが難しいであろう。ほとんど4年の間、書類を書く時は必ず机の上にピストルを置いておく習慣であったし、寝室に入る時は手もとにスペンサー銃と銃剣を必ず置いていたのである。現在では誰もが、京都や江戸の通りをしゃれた藤のステッキを振りながら、ロンドンのリージェント・ストリートか、ピカデリーを歩くのと同じように、全く安心して散歩できるのであるから、帯刀が法律で禁止された幸運を感謝しなくてはならない。P49 外交官とは因果な職業である。 こうしたなかでも、日本人の生活の中へ入っていかなければならない。 建物の不便さに加えて、身辺を絶えず監視されている気分と別手組の詮索好きな警戒の目に、まるで囚われの身であるかのように感じられたので、サトウと私は、公使に近くの小さい寺に移る許可を求めた。公使は我々の考えに喜んですぐ賛成したが、それは彼が現在の自由を束縛された状態では、日本と本当の意味の友誼を結ぶにはきわめて不都合であり、それから抜け出すためにはあらゆる手段を尽くすのが当然のことと思っていたからである。そこで、サトウと私は、門良院という寺の一部を借りることになった。それは公使館から数百ヤード離れた丘の上に建っている小さな気持ちのよい寺で、眼下に江戸湾の美しい景色が広がっていた。我々は、この大きな町で、定められた区域外に住む最初の外国人であった。P33
何をどう感じるかは、文化の産物である。 外国人が襲撃された備前事件にたいして、天皇は関係者の処刑を命じた。 パークス公使とオランダのファン・ポルスブルック総領事は、議論を戦わせ、実際に罪人に有利になるような投票をしたのである。しかし、2人は少数派であって、多数決で天皇の命令は履行されるべきであると決定した。これについて当時、私は賢明な措置だと思っていたし、現在も、その考えは変わらない。寛大な処置を嘆願する日本側の態度は熱意に欠けていた。天皇の閣僚として錚々たる者も含めて、政府高官としばしば話をしたが、彼らは外国代表団のとった措置を支持していた。彼らの見解も私と同様で、慈悲深い処置はかえって卑怯だと誤解を受けるということであった。P124 そして、堺事件にたいしては、大量20人の処刑が決定される。 しかし、実際に処刑がおこなわれると、次のようになる。 殺人の罪を犯した20人の兵士の腹切りは、3月16日執行されることに決まった。それは最初、事件の現場である堺の波止場で行われる予定であったが、場所が変更されて、1マイルほど内陸にある寺の境内で行われることになった。デュ・プチ・トウアール艦長と約20人のフランス水兵が、この恐ろしい処刑の立会人となることになった。 最初の罪人は力いっぱい短剣で腹を突き刺したので、はらわたがはみ出した。彼はそれを手につかんで掲げ、神の国の聖なる土地を汚した忌むべき外国人に対する憎悪と復響の歌を歌い始め、その恐ろしい歌は彼が死ぬまで続いた。次の者も彼の例にならい、ぞっとするような場面が続く中を、11人日の処刑が終わったところで−これは殺されたフランス人の数であったが−フランス人たちは耐え切れなくなって、デュ・プチ・トゥアール艦長が残り9名を助命するように頼んだ。彼は、この場面を私に説明してくれたが、それは血も凍るような恐ろしさであった。彼はたいへん勇敢な男であったが、そのことを考えるだけで気分が悪くなり、その話を私に語る時、彼の声はたどたどしく震えていた。P154 外国人であるフランス人には、切腹に立ち会うことは耐えられなかっただろうが、当時の日本人には耐えられたのである。 ここでは死に方に対する価値観の違いがはっきりとみてとれる。 もちろん現在の日本人なら、当時のフランス人と同じように耐えられないだろう。 それにしても、わが国では歴史上の人物を、悪し様に言ってきたように思う。 たとえば、伊藤博文は女狂いだったから朝鮮で暗殺されるのも当然だったとか、帝国主義を作った明治の元勲たちは、人物が卑しいといってきた。 自国の歴史上の人物を悪く言うのは、どんなものだろうか。 その後の昭和の歴史が戦争へだったから、すべての近代史が悪なるものとなったが、人物評価はもう少し別の角度から、行っても良いように思う。 本書では、伊藤博文にかぎらず、明治の元勲たちの多くは立派な人物として描かれている。 母親が父親の悪口を言って子供を育てれば、子供は父親を尊敬しなくなる。 歴史を悪し様に言うと、未来から復讐を受ける。 わが国の教育の結果にも、同様なことがおきているのではないだろうか。 (2002.9.20)
参考: 氏家幹人「江戸の少年」平凡社、1994 田中優子「張形 江戸をんなの性」河出書房新社、1999 イザベラ・バード「日本奥地紀行」平凡社、2000 M・ハリス「ヒトはなぜヒトを食べたか」ハヤカワ文庫、1997 早川聞多「浮世絵春画と男色」河出書房新社、1998 氏家幹人「大江戸残酷物語」洋泉社、2002 福田和彦「閨の睦言」現代書林、183 田中優子「張形−江戸をんなの性」河出書房新社、1999年 佐藤常雄「貧農史観を見直す」講談社現代新書、1995 高木侃「三くだり半と縁切寺」講談社現代新書、1992年 生出泰一「みちのくよばい物語」光文社、2002 瀬川清子「若者と娘をめぐる民俗」未来社、1972年 速水融「歴史人口学で見た日本」文春新書、2001 佐藤常雄「貧農史観を見直す」講談社現代新書、1995 氏家幹人「大江戸残酷物語」洋泉社、2002 白倉敬彦「江戸の春画」洋泉社、2002 成松佐恵子「庄屋日記にみる江戸の世相と暮らし」ミネルヴァ書房、2000 山本昌代「江戸役者異聞」河出文庫、1993
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