匠雅音の家族についてのブックレビュー   怪しいPTSD−偽りの記憶事件:「危ない精神分析」を改題|矢幡洋

怪しいPTSD
偽りの記憶事件−「危ない精神分析」を改題
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著者:矢幡洋(やはた よう)  中公文庫 2010(2003年) ¥743−

著者の略歴− 1958年東京都に生まれる。京都大学文学部卒業。精神病院の相談室長などを経て、現在、矢幡心理教育研究所所長、臨床心理士、作家。著書に『立ち直るための心理療法』『アイドル政治家症候群』『自分で決められない人たち』『働こうとしない人たち』『あなたの話はなぜまわりくどいか』『パーソナリティ障害』『もしかして自閉症?』『無差別殺人と妄想性パーソナリティ障害』などがある。
 ジュディス・ハーマンの「心的外傷と回復」は、我が国でも絶賛の嵐で迎えられた。
そのテーマはPTSDだというのだが、筆者はジュディス・ハーマンの<記憶回復療法>を批判している。
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怪しいPTSD

 絶賛されている本や著者を批判するのは、それだけで勇気がいることだ。
有力な人物がその業界を牛耳っていると、その人物に反対の意見を言うことが難しい。
もし、反対の意見を言ったり批判したりしたら、一生その分野から干されてしまうかも知れない。
そのために、お利口な人は、あからさまな批判はしないものだ。

 「心的外傷と回復」は中井久夫によって翻訳され、みすず書房から出版されている。
しかも、森岡正博らが絶賛していれば、若手が批判的な言辞を弄することは難しいだろう。
筆者はPTSDそのものに反対しているのではない。
外傷性ストレス障害と訳されるPTSDという概念については、その有効性を肯定している。

 ジュディス・ハーマンらが推進した<記憶回復療法>を批判しているのだ。
忘れている幼児期の虐待が、潜在化して現在の成人に影響を与え、成人の行動を規制していることがある。
記憶のない行為が、成人の人格を歪めている。
その原因は、かつて受けた虐待だ、とジュディス・ハーマンは言った。
記憶を呼び起こし、虐待した親に復讐しようと、多くの訴訟をおこさせた。
その指導的な役割をはたしたのが、ジュディス・ハーマンである。

 暴力の犠牲者は、つねに女性と子供である。
強姦された女性の痛みは、男性には分からない。
なぜかフェミニズムは、性的な虐待を好んで取り上げる。
PTSDの援用は、フェミニズムの主張と同調し、女性の異議申し立てに有効だった。
同時に、戦争からの帰還兵のあいだにも、PTSDがいうのと同様の行動が見られた。
そのため、PTSDは市民権を獲得していった。

 フェミニズムは性の商品化に反対したが、フェミニズムはPTSDを援用することにおいて、心を商品化した。
このあたりは、当サイトがジュディス・ハーマンの「心的外傷と回復」の書評で言ったことだ。
また、PTSDが普及したのは、幼児虐待にきわめて敏感で、かつ厳しいアメリカ社会特有の背景もあった。

 筆者は、セラピーによって、忘却されていた外傷性記憶がよみがえるのか、と問う。
しかも、忘れていた重篤な外傷を、セラピーによって思いださせて、それによって現在の問題が解決するのか、と問う。
万が一に外傷性記憶が思い出せるとして、思いだしてしまえば、かえって状況は悪くなるだけではないか、という。

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 <記憶回復療法>で治療を受けた、アメリカでの状況は、惨憺たるものだった。
虐待された記憶を思いだして、虐待した人を告発し始めたのだ。
虐待した人とは、父親だったのだ。
しかも、虐待されたのは娘だった。
母親は父親の強姦を、座視したと告発された。

 娘が父親に強姦されていた。1990年代には、こんな話がマスコミを席巻した。
「心的外傷と回復」は上手く書かれている。
しかし、類書であるアリス・ミラー「闇からの目覚め」では、2歳の女の子を父親が性的な慰め物にしたという。
このあたりで、眉唾になってくるだろう。

 筆者は、ジュディス・ハーマンの「心的外傷と回復」を世紀の偽書であり、ハーマン一派をマインド・ハッカーと呼ぶ。
「心的外傷と回復」の評価は、各自読んでいただくとして、筆者の指摘には傾聴すべきことがある。

 ハーマンらの主張がとにかく「ある体験の記憶は意識から遠ざけられ、相当の年月を経た後でそのまま取り戻すことができる」という大筋において、フロイト理論のアウトラインに忠実であることは明白である。そしてこの通常の記憶とは異なる記憶体験のために、心の中にもう一つの別の部屋がある、というフィクションが、フロイト理論の無意識仮説に相当するものである。無意識という仮説的存在は、「ある種の記憶が意識にのぼって来ないようにするには、心の中に別種類の保存庫があるはずだ」という説明を正当化するために必要なものだつたのだ。
 だが、認知心理学は、一般的な記憶のメカニズムとは「時間がたつにつれてしだいに忘却され、また、再現される際には必ず再構成が含まれる」というものであり、別種のメカニズムに従う記憶が存在するという証拠はない、と結論した。するとフロイト理論の根幹である「超自我の監視によって、ある心的要素は意識へと浮上することができず、無意識の領域に貯蔵される。抵抗が軽減すれば、それは意識の方に浮かび上がり意識化することができるようになる」という話の道筋が最初から成立しないことになる。P171


 マルクスが死んでいるにもかかわらず、我が国ではまだフロイトが生きていると思っていたが、じつはアメリカでもフロイトは生きていたのだ。
当サイトは、H・J・アイゼンクの「精神分析に別れを告げよう」を支持し、:フロイトに否定的である。
しかし、ますます心の時代になるだろうから、フロイトが生き返る可能性はあるだろう。

 カウンセリングは状況を変えることなく、本人の心の持ちかただけで、治療と考えるシステムに問題がある。

 問題をもっぱら「心の病」という心理学的な文脈によって説明しようとする今日の強い傾向が、それ以外の事実を隠ペいしかねない、という危険性を端的に表している。ことに、問題を個人の心の領域に押し込めることが、アメリカ軍のみならず為政者にとって実に都合のよい隠れ蓑となることに私たちはもっと警戒するべきである。
 今日の「何でもかんでも心の問題」「何でもかんでもPTSD」というような風潮の下にあっては、たとえば政府のお偉方が震災被災地に視察に行って、政府の仮住居建設が遅れているために外で膝を抱えている老人が寒さで震えているのを見て、「あのお年寄りは震えているぞ。PTSDだ。カウンセラーを派遣しろ」とどなり、仮住居建設の方はほったらかしにしておく、ということすら起こりうるのである。P206


 心を治療の対象にするのは、きわめて難しい。
心はかつて神が扱う領域だった。心は、宗教とか信心といった形であつかわれ、人間は他人の心に入ることはなかった。
しかし、神が死んだいま、カウンセラーが神の代わりに、他人の心を扱う。

 フェミニズムは意識変革を訴えたが、直接、意識にうったえて意識を変えようとするのは、ファッシズムである。
戦前の天皇制も、意識改革を訴えた。
意識を扱うのには、細心の注意が必要である。
しかし、情報社会とは肉体が無化し、頭脳が優位する。
だから、これからも心を扱うのが、ますます盛んになるだろう。   (2010.1.27) 
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参考:
H・J・アイゼンク「精神分析に別れを告げよう:フロイト帝国の衰退と没落」批評社、1988
J・S・ミル「女性の解放」岩波文庫、1957
赤松啓介「夜這いの民俗学」明石書店、1984
リチャード・ランガズ、デイル・ピーターソン「男の凶暴性はどこからきたか」三田出版会、1998
M・ハリス「ヒトはなぜヒトを食べたか 生態人類学から見た文化の起源」ハヤカワ文庫、1997
杉山幸丸「子殺しの行動学:霊長類社会の維持機構をさぐる」北斗出版、1980
エドワード・ショーター「近代家族の形成」昭和堂、1987
フィリップ・アリエス「子供の誕生」みすず書房、1980
J・F・グブリアム、J・A・ホルスタイン「家族とは何か その言説と現実」新曜社、1997
磯野誠一、磯野富士子「家族制度:淳風美俗を中心として」岩波新書、1958
黒沢隆「個室群住居:崩壊する近代家族と建築的課題」住まいの図書館出版局、1997
アラン・ブルーム「アメリカン・マインドの終焉」みすず書房、
I・ウォーラーステイン「新しい学 21世紀の脱=社会科学」藤原書店、2001
レマルク「西部戦線異常なし」新潮文庫、1955
田川建三「イエスという男 逆説的反抗者の生と死」三一書房、1980
ヘンリー・D・ソロー「森の生活」JICC出版局、1981
野村雅一「身ぶりとしぐさの人類学」中公新書、1996
永井荷風「墨東綺譚」新潮文庫、1993
エドワード・S・モース「日本人の住まい」八坂書房、2000
福岡賢正「隠された風景」南方新社、2005
イリヤ・プリゴジン「確実性の終焉」みすず書房、1997
エドワード・T・ホール「かくれた次元」みすず書房、1970
オットー・マイヤー「時計じかけのヨーロッパ」平凡社、1997
ロバート・レヴィーン「あなたはどれだけ待てますか」草思社、2002
宮本常一「庶民の発見」講談社学術文庫、1987
青木英夫「下着の文化史」雄山閣出版、2000
瀬川清子「食生活の歴史」講談社、2001
李家正文「住まいと厠」鹿島出版会、1983
ニコル・ゴンティエ「中世都市と暴力」白水社、1999
ペッカ・ヒマネン「リナックスの革命」河出書房新社、2001
匠雅音「家考」学文社
M・ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」岩波文庫、1989
アンソニー・ギデンズ「国民国家と暴力」而立書房、1999
江藤淳「成熟と喪失:母の崩壊」河出書房、1967
桜井哲夫「近代の意味:制度としての学校・工場」日本放送協会、1984
G・エスピン=アンデルセン「福祉国家の可能性」桜井書店、2001
G・エスピン=アンデルセン「ポスト工業経済の社会的基礎」桜井書店、2000
桜井哲夫「近代の意味:制度としての学校・工場」日本放送協会、1984
ソースティン・ヴェブレン「有閑階級の理論」筑摩学芸文庫、1998
オルテガ「大衆の反逆」白水社、1975
E・フロム「自由からの逃走」創元新社、1951
アラン・ブルーム「アメリカン・マインドの終焉」みすず書房、1988
イマニュエル・ウォーラーステイン「新しい学」藤原書店、2001
ポール・ファッセル「階級「平等社会」アメリカのタブー」光文社文庫、1997
橋本治「革命的半ズボン主義宣言」冬樹社、1984
石井光太「神の棄てた裸体」新潮社 2007
梅棹忠夫「近代世界における日本文明」中央公論新社、2000
小林丈広「近代日本と公衆衛生」雄山閣出版、2001
前田愛「近代読者の成立」岩波現代文庫、2001
フランク・ウェブスター「「情報社会」を読む」青土社、2001
ジャン・ボードリヤール「消費社会の神話と構造」紀伊国屋書店、1979
エーリッヒ・フロム「自由からの逃走」創元新社、1951
ハワード・ファースト「市民トム・ペイン」晶文社、1985
成松佐恵子「庄屋日記に見る江戸の世相と暮らし」ミネルヴァ書房、2000
デビッド・ノッター「純潔の近代」慶應義塾大学出版会、2007
北見昌朗「製造業崩壊」東洋経済新報社、2006
小俣和一郎「精神病院の起源」太田出版、2000
松本昭夫「精神病棟の20年」新潮文庫、2001
斉藤茂太「精神科の待合室」中公文庫、1978
吉田おさみ「「精神障害者」の解放と連帯」新泉社、1983
古舘真「男女平等への道」明窓出版、2000
三戸祐子「定刻発車」新潮文庫、2005
ケンブリュー・マクロード「表現の自由VS知的財産権」青土社、2005
フリードリッヒ・ニーチェ「悦ばしき知識」筑摩学芸文庫、1993
リチヤード・ホガート「読み書き能力の効用」晶文社、1974
ガルブレイス「ゆたかな社会」岩波書店、1990
ヴェルナー・ゾンバルト「恋愛と贅沢と資本主義」講談社学術文庫、2000
C.ダグラス・ラミス「ラディカル デモクラシー」岩波書店、2007
オリーブ・シュライナー「アフリカ農場物語」岩波文庫、2006
エマニュエル・トッド「新ヨーロッパ大全」藤原書店、1992

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