匠雅音の家族についてのブックレビュー   家族を中心とした人間関係|中根千枝

家族を中心とした人間関係 お奨度:

著者:中根千枝(なかね ちえ)  講談社学術文庫 1977年 ¥540−

著者の略歴−1926年東京生まれ。東京大学文学部東洋史学科卒業。ロンドン大学で社会人類学を専攻。東京大学教授を経て、現在東京大学名誉教授。国際人類学民族学会副会長。専門はアジアを対象とする社会人類学。著書に『家族の構造』『タテ社会の人間関係』『未開の顔・文明の顔』などがある。
 タテ社会論で有名な筆者には、「家族の構造」という専門著書がある。
すでに本サイトでも取り上げていると思っていた。
しかし、間抜けなことに、いまだ取り上げておらず、取り急ぎ文庫版の本書を取り上げる。
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家族を中心とした人間関係

 社会人類学を専門とする筆者は、インドやアジアの現地調査をやってきた。
その過程で、家族は避けて通れない問題で、家族の形を論じてきた。
筆者は小家族が普遍的だという。
そして、母子プラス一男性が原型だという。
かつては大家族が最初で、それが徐々に小さくなって、核家族になったといわれるが、それは誤りだという。それはそうだと思う。

 人類の最初は、狩猟採集によって生活したはずだから、移動に適した小家族だったろう。
そして、寿命は30歳くらいといわれるから、孫の顔を見るまでもなく、死んでしまうのが常だった。
とすれば、大家族にはなりにくかっただろう。

 生物学的に考えると、人間は一人前になるまで、長い期間保護を必要とする動物だということに思いつきます。そして、多くの動物がそうであるように、つねにそばにいる母親を必要とします。しかし、この母親と子供の単位に一人の男性、つまり夫(父)がきまっているのは、人間の社会の特色です。どんなに原始的な社会でも、それぞれ父親が定着しています。母親と子供からなる単位がより安全に、つつがなく生活するためには、一人の男性の経済的援助と保護を必要とします。P23

 その男性は必ずしも、父親である必要はなかったかも知れないが、一夫一婦制が常であったという。
筆者は一夫一婦制が基本だという認識から、子供が親と分離していく過程を、いくつかに分類し、大家族を例外と位置づける。
我が国には大家族が存在しなかったという。

 筆者のいう大家族とは、叔父や叔母、兄弟などが同居するインドや中国のものをいう。
この大家族は、我が国にはほとんどなかったと言われる。
しかし、筆者のいう大家族と、我が国でいう大家族とはちょっと違う。
我が国でいう大家族とは、三世代同居の直系家族のことである。
筆者のいう大家族は、拡大家族というべきだろう。

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 三世代同居の直系家族であっても、その実現はそれほど容易いことではない。
なによりも寿命が短かった。
そして、我が国の耕作地は、それほど広くはなかった。
農業が主な産業であれば、土地の広さが適正人口を決めたのであり、人間の都合で家族形態が作られたのではない。
産業が家族の形を決めたのだ。

 インドや中国の大家族制をとる地域でも、すべてが大家族ではないという。
もちろん大家族制だから、大家族以外にないかというとそんなことはない。
大家族制の地方というのは、大家族制を好ましいと考える家族観が支配している地域である。
筆者は、歴史的な事実と、家族観とを時々ごっちゃにしている。
しかも、家族と種族保存とをも混同している。

 筆者によれば、家族とは種族保存のための、血縁の集団に過ぎない。
そのため、使用人や奉公人を除外して考えている。
筆者の問題関心から言えば、除外は適切だろう。
しかし、血縁と生存は必ずしも一致しない。
家族を血縁集団としてみると、落ちてしまうものがあまりにも大きすぎる。
たとえば、「武家の女性」が描くような、妾の存在など、筆者の論では射程に入らない。

 前半の原理論とも言うべき部分は、フィールドワークの成果が反映されているので、それなりに説得力がある。
しかし、中盤から後編にかけては、恣意的な事実を挟み込んでおり、原理論から飛躍しすぎている。
とりわけ第四章になると、家族(ウチ)とソトの関係として、会社や学校を家族になぞらえて説明している。
何気なく読んでいると、きわめて落ち着きやすいので、このまま信じ込んでしまいそうである。

 学校も会社もやはり「ウチ」といっているが、ここまでくると論証も何もない。
確かに一面は当たってもいるので、信じたくなるが、この切り口では週刊誌の話題づくりに過ぎない。
家族とは必ずしも血縁集団ではなく、家族観という一種の常識に支えられた、生存のための組織なのだ。
だから、大家族になったり、直系家族になったり、核家族になったりするのだ。

 一夫一婦的な核家族を家族の原型と見なすから、結婚を家族のはじまりだといえるのであり、原因と結果が転倒している。
そのために、次のような発言がでてくる。

 伝統的に日本では、家族内の力関係において、父より母(主婦)がはるかにつよいとみることができます。P115

 こう言えるなら、女性運動がおきる必要はなかったわけである。
筆者は細かい事実に欲目を配っているが、事実を論理化する位相をごちゃ混ぜにしている。
  (2010.4.20) 
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参考:
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湯沢雍彦「明治の結婚 明治の離婚」 角川選書、2005
越智道雄「孤立化する 家族」時事通信社、1998
高木侃「三くだり半 と縁切寺」講談社現代新書、1992年
岡田秀子「反結婚論」 亜紀書房、1972
大河原宏二「家族 のように暮らしたい」太田出版、2002
J・F・グブリアム、J・A・ホルスタイン「家族とは何か」新曜 社、1997
磯野誠一、磯野富士子「家族制度:淳風美俗を中心として」岩波新書、1958
エドワード・ショーター「近代家族の形成」昭和堂、1987
S・クーンツ「家族に何が起 きているか」筑摩書房、2003
賀茂美則「家族革命前 夜」集英社、2003
信田さよ子「脱常識の家族づくり」中公新書、2001
黒沢隆「個室群住居:崩壊する近代家族と建築的課題」住まいの図書館出版局、1997
E・S・モース「日本 人の住まい」八坂書房、1970
ジョージ・P・マードック「社会構造 核家族の社会人類学」新泉社、2001
S・ボネ、A・トックヴィル「不倫の歴史 夢の幻想と現実の ゆくえ」原書房、2001
石坂晴海「掟やぶりの結婚 道」講談社文庫、2002
マーサ・A・ファインマン「家族、積みすぎた方舟」 学陽書房、2003
上野千鶴子「家父長制と資本制」岩波書店、1990
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山田昌弘「家族のリ ストラクチュアリング」新曜社、1999
斉藤環「家族の痕跡」 筑摩書房、2006
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瀬川清子「婚姻覚書」 講談社、2006
香山リカ「結婚がこわい」 講談社、2005
速水由紀子「家族卒業」朝日文庫、2003
ジュディス・レヴァイン「青少年に有害」河 出書房新社、2004
川村邦光「性家族 の誕生」ちくま学芸文庫、2004
菊地正憲「なぜ、結婚できな いのか」すばる舎、2005
原田純「ねじれた家 帰 りたくない家」講談社、2003
ベティ・フリーダン「ビヨンド ジェンダー」青木書店、2003
塩倉 裕「引きこもる若者たち」 朝日文庫、2002
サビーヌ・メルシオール=ボネ「不倫の歴史」原書房、 2001
棚沢直子&草野いづみ「フ ランスには、なぜ恋愛スキャンダルがないのか」角川ソフィア文庫、1999
岩村暢子「普通の家族がい ちばん怖い」新潮社、2007
下田治美「ぼ くんち熱血母主家庭」講談社文庫、1993
高木侃「三くだり半 と縁切寺」講談社現代新書、1992
加藤秀一「<恋愛結婚>は 何をもたらしたか」ちくま新書、2004
バターソン林屋晶子「レポート国際結婚」 光文社文庫、2001
中村久瑠美「離婚バイブル」文春 文庫、2005
佐藤文明「戸籍がつく る差別」現代書館、1984
松原惇子「ひとり家族」 文春文庫、1993
森永卓郎「<非婚>のすすめ」 講談社現代新書、1997
林秀彦「非婚のすすめ」日本 実業出版、1997
伊田広行「シングル単位の社会論」 世界思想社、1998
斎藤学「「夫婦」という幻想」祥 伝社新書、2009
中根千枝「家族を中心とした人間関係」講談社学術文庫、1977
匠雅音「核家族か ら単家族へ」丸善、1997

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