著者の略歴−1926年東京生まれ。東京大学文学部東洋史学科卒業。ロンドン大学で社会人類学を専攻。東京大学教授を経て、現在東京大学名誉教授。国際人類学民族学会副会長。専門はアジアを対象とする社会人類学。著書に『家族の構造』『タテ社会の人間関係』『未開の顔・文明の顔』などがある。 タテ社会論で有名な筆者には、「家族の構造」という専門著書がある。 すでに本サイトでも取り上げていると思っていた。 しかし、間抜けなことに、いまだ取り上げておらず、取り急ぎ文庫版の本書を取り上げる。
社会人類学を専門とする筆者は、インドやアジアの現地調査をやってきた。 その過程で、家族は避けて通れない問題で、家族の形を論じてきた。 筆者は小家族が普遍的だという。 そして、母子プラス一男性が原型だという。 かつては大家族が最初で、それが徐々に小さくなって、核家族になったといわれるが、それは誤りだという。それはそうだと思う。 人類の最初は、狩猟採集によって生活したはずだから、移動に適した小家族だったろう。 そして、寿命は30歳くらいといわれるから、孫の顔を見るまでもなく、死んでしまうのが常だった。 とすれば、大家族にはなりにくかっただろう。 生物学的に考えると、人間は一人前になるまで、長い期間保護を必要とする動物だということに思いつきます。そして、多くの動物がそうであるように、つねにそばにいる母親を必要とします。しかし、この母親と子供の単位に一人の男性、つまり夫(父)がきまっているのは、人間の社会の特色です。どんなに原始的な社会でも、それぞれ父親が定着しています。母親と子供からなる単位がより安全に、つつがなく生活するためには、一人の男性の経済的援助と保護を必要とします。P23 その男性は必ずしも、父親である必要はなかったかも知れないが、一夫一婦制が常であったという。 筆者は一夫一婦制が基本だという認識から、子供が親と分離していく過程を、いくつかに分類し、大家族を例外と位置づける。 我が国には大家族が存在しなかったという。 筆者のいう大家族とは、叔父や叔母、兄弟などが同居するインドや中国のものをいう。 この大家族は、我が国にはほとんどなかったと言われる。 しかし、筆者のいう大家族と、我が国でいう大家族とはちょっと違う。 我が国でいう大家族とは、三世代同居の直系家族のことである。 筆者のいう大家族は、拡大家族というべきだろう。
なによりも寿命が短かった。 そして、我が国の耕作地は、それほど広くはなかった。 農業が主な産業であれば、土地の広さが適正人口を決めたのであり、人間の都合で家族形態が作られたのではない。 産業が家族の形を決めたのだ。 インドや中国の大家族制をとる地域でも、すべてが大家族ではないという。 もちろん大家族制だから、大家族以外にないかというとそんなことはない。 大家族制の地方というのは、大家族制を好ましいと考える家族観が支配している地域である。 筆者は、歴史的な事実と、家族観とを時々ごっちゃにしている。 しかも、家族と種族保存とをも混同している。 筆者によれば、家族とは種族保存のための、血縁の集団に過ぎない。 そのため、使用人や奉公人を除外して考えている。 筆者の問題関心から言えば、除外は適切だろう。 しかし、血縁と生存は必ずしも一致しない。 家族を血縁集団としてみると、落ちてしまうものがあまりにも大きすぎる。 たとえば、「武家の女性」が描くような、妾の存在など、筆者の論では射程に入らない。 前半の原理論とも言うべき部分は、フィールドワークの成果が反映されているので、それなりに説得力がある。 しかし、中盤から後編にかけては、恣意的な事実を挟み込んでおり、原理論から飛躍しすぎている。 とりわけ第四章になると、家族(ウチ)とソトの関係として、会社や学校を家族になぞらえて説明している。 何気なく読んでいると、きわめて落ち着きやすいので、このまま信じ込んでしまいそうである。 学校も会社もやはり「ウチ」といっているが、ここまでくると論証も何もない。 確かに一面は当たってもいるので、信じたくなるが、この切り口では週刊誌の話題づくりに過ぎない。 家族とは必ずしも血縁集団ではなく、家族観という一種の常識に支えられた、生存のための組織なのだ。 だから、大家族になったり、直系家族になったり、核家族になったりするのだ。 一夫一婦的な核家族を家族の原型と見なすから、結婚を家族のはじまりだといえるのであり、原因と結果が転倒している。 そのために、次のような発言がでてくる。 伝統的に日本では、家族内の力関係において、父より母(主婦)がはるかにつよいとみることができます。P115 こう言えるなら、女性運動がおきる必要はなかったわけである。 筆者は細かい事実に欲目を配っているが、事実を論理化する位相をごちゃ混ぜにしている。 (2010.4.20)
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