編著者の略歴−1926年ウィーンに生まれる。フローレンス大学とローマ大学で自然科学、ローマ・グレゴリオ大学で神学と哲学を学び、さらにザルツブルグ大学で歴史学の博士号を得る。1973年よりメキシコ国際文化資料センターを創設、現代産業文明への鋭い警告と挑戦を行なっている。 本書が出版されたときには、ずいぶんと脚光を浴びた。 我が国では、フェミニズムの台頭期と重なっていた。 そのため、筆者のいうシャドー・ワークが女性に有利だと感じられたのだろう。 しかし、その後、筆者の立場が明らかになると、人気は急速にかげっていった。 ジュディス・ハーマンの「心的外傷と回復」などと同じだった。 本書は、下記の6本のエッセイから成り立っており、その間にはほとんど関係はない。 1.平和とは人間の生き方 2.公的選択の三つの次元 3.ヴァナキュラーな価値 4.人問生活の自立と自存にしかけられた戦争 5.生き生きとした共生を求めて 6.シャドウ・ワーク
そのためか、イデオロギー的な色彩が強い。 イデオロギー的と言っても、左翼とか右翼といったものではない。 前近代指向というか開発批判である。 近代=資本主義化が、古き良き時代の生活を壊して、人々を不幸に陥れたというものだ。 貨幣経済が浸透する以前は、人々は農村共同体のなかで己の役割に従って、静かに生きてきた。 男は男の仕事をし、女は女の仕事をした。 性別にしたがって、男女の仕事が決まっていた。 男性の仕事が優位で、女性の仕事は劣位ではあった。 しかし、男性が女性に命令したり、指示したりすることはできなかった。 だから性差別はなかった、と筆者はいう。 人間の生き方は、それぞれの属性によって、はっきり決まっていた。 誰もそれを破らなかったし、男が女の仕事をすれば、笑い者になるだけだった。 地元に息づいたもの、筆者はそれをヴァナキュラーと呼び、ヴァナキュラーなものこそが人々の幸せを保証していた。 それが商品経済の浸透、つまり開発が人々の生活を変えてしまった、という。 商品経済の浸透は、賃金労働の普及と平行現象だった。 ここで賃金を現金という形で、稼がないと生きていけなくなった。 と同時に、不払い労働=影の経済が発生する。 それまでは、自給自足だったから、賃労働など不要で使命に従って働いていた。 労働に対する対価が貨幣ではなかったので、賃金が支払われるか否かは問題にならなかった。
この後に出版された「ジェンダー」になると、主張がよりハッキリしてくる。 つまり、貨幣経済の浸透が、シャドー・ワークを生みだし、性別や肌の色で人間を差別しはじめたというのだ。 産業化は隔離体制(アパルトヘイト)を必然化し、環境破壊へと追い込んでいくという。 「専業主婦の創出は、前例のない性的な隔離体制(アパルトヘイト)の証である」という筆者だが、これはまさにその通りである。 にもかかわらず、我が国のフェミニズムは、専業主婦から脱出する運動をつくるのではなく、専業主婦の再評価をやってしまった。 その後、シャドー・ワークという言葉は下火になり、同じ意味ながら、フェミニズムの間には<アンペイド・ワーク>という言葉が登場してくる。 専業主婦の働きも労働には違いなく、賃金が支払われていないだけだ。 だから、賃金を支払えというわけだ。 賃金を支払えという要求は、結局、専業主婦であり続けるという宣言であった。 我が国のフェミニズムは、隔離体制(アパルトヘイト)を打破しようと言うものではなかった。 シャドー・ワークに賃金を支払えという主張を、筆者は明確に否定している。 筆者の主張は、産業社会への批判にはなっているが、前近代からのものである。 近代が人間性を歪にしたといっても、もはや前近代に戻るわけにはいかない。 南北の貧困格差が、広がったという批判は承知だが、先進国では庶民の生活水準も上がったのだ。 1980年当時はともかく、2011年の現在では、女性の地位は著しく向上した。 まだまだ男女で格差はあるが、いまや性別による隔離体制(アパルトヘイト)というより、個人的な能力による格差になりつつある。 現代では、もちろん他の問題が、しかも重大な問題が発生している。 それは認めつつも、歴史の歯車を逆に廻すことはできない。 筆者の主張に従えば、今よりもっと多くの人が不幸になるだろう。 性別による隔離体制(アパルトヘイト)を潜ったからこそ、多くの人が豊かになれるのだ。 豊かさと幸福感は違う。社会は豊かさを与えることはできるが、幸福感を与えることはできない。 とすれば、筆者の主張に耳を傾けつつ、反対方向が指向されるだろう。 (2011.2.14)
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