匠雅音の家族についてのブックレビュー    江戸の春画−それはポルノだったのか|白倉敬彦

江戸の春画
それはポルノだったのか
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著者:白倉敬彦(しらくら よしひこ)  洋泉社、2002年     ¥780−

著者の略歴−1940年北海道生まれ。早稲田大学文学部中退。長らく美術書編集(現代美術から浮世絵まで)に従事、現在に到る。主な著書に「浮世絵春画を読む」共著、全二巻、中公叢書、「春画・江戸ごよみ」共著、全四巻、作品社がある。主な論文に「織物(テクスト)と時間」(『彷程の祝祭』朝日出版社)、「春画・春本の海外流失」(『文学』1999年夏号)などがある。
 浮世絵春画が無修正の状態で印刷されるようになったのも、せいぜいここ十余年のことに過ぎない。それまでは局部を消したり、黒丸を付け加えたりと、いかにもそこには見てはいけないものが描かれているかのように、逆に注意を魅きつけ想像を刺戟させるものがあった。P3

と始まる本書は、春画と呼ばれる浮世絵から、江戸人たちの性愛を解読しようとする。
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 江戸社会の成り立ちが現代とは違う以上、江戸人と現代人とでは、価値観が違っていたのは当然である。
性愛についても異なった感覚だったはずで、江戸人は性の快楽を素直に肯定していた、と筆者は考えている。
それには私も賛成である。
キリスト教が教えたような禁止的性交観はなかっただろうから、義理・人情や身分秩序に反しないかぎり、快楽を追求することは自由だったに違いない。

 西欧の近代文明がわが国に入るに及び、性意識も近代化されてきた。
そのため、夜這いやら混浴が許されなくなり、男色がまかりとおった江戸は否定された。
近代は性を生殖と快楽に分断し、生殖のための性交のみを公認した。
そして、公私概念の登場にともなって、性の快楽追求は私の世界へと限定されていった。
遅れて近代に入ったわが国では、西欧の性意識を輸入し、男尊女卑へと転落していった。
と同時に、おおらかだった性にも様々な制限が加えられ、性交自体が下品なこととされて、否定的に見られるようになってしまった。

 春画がポルノか否かは、本書が問題にするほど重要だとは思えない。
ポルノは性欲を刺激するものと定義して、春画をポルノから区別する記述は、春画を良いものとして救うために、ポルノを悪として切り捨てている。
行間からはポルノ解禁に、賛成のような雰囲気を感じはするが、結果としてポルノを悪者に仕立て上げてしまっている。
春画がポルノであるか否かではなく、ポルノは性表現の一種なのだから、春画もポルノも同じジャンルの表現であって、何の問題もない。

 性交自体を否定的に、もしくは下品なものと見なせば、性交を描いたものは自動的に悪、もしくは下品なものになる。
だからことは、春画やポルノ云々ではなく、性交自体を肯定的にとらえるか否かである。
西欧近代は、快楽のための性交を善なるものとは見なかったから、性交を讃美する描写が否定された。
しかし、人間誕生の原点である性交が、悪いものであるはずがない。
江戸では性交を誰でもが楽しんだと理解すべきである。

 楽しく充実した性交の肯定は、当事者の等価な関わりを前提にしているはずで、一方的な快楽の追求は不可能である。
性交の当事者である女性が、男尊女卑という形で貶められたら、楽しい性交が成り立つはずがない。
快楽の肯定それ自体が、男女の平等を前提にしており、男尊女卑は性の快楽に反する価値観である。
それゆえに、性を追求した近代人たちの多くは、自由主義思想と通底していたし、ファッシズムは性の快楽追求を目の敵にした。

 本書は春画の特徴を次のように書く。

 春画における最大の関心事が性器にあることはすでに見てきたが、注目すべき結果は、性行為と性器の結合のみへと局限化していること、なかんずくその結合がもたらす極限すなわちエクスタシーの瞬間に焦点が当てられていることだ。
 そして、そのエクスタシーの描出が、一つは書入れによることばによって、もう一つは女性の顔貌表現によってなされている。男の顔の表情にもある種の必死さが表されているが、なんといってもエクスタシーを表象するのは、女の眼を閉じて深く内向した、そして快感に没入したかのような恍惚の表情である。P98


 こうした事情は、男性側だけからではなく、女性側からも肯定されていた、と筆者は示唆する。
春画の生産が男性によってなされたとしても、女性たちが男性の都合に合わせただけだとは思えない。
夜這いの男性を取り押さえ、箱枕で打ち据えている姿もあるほどだから、女性が男性の言いなりになっていたはずがない。

 男性が性行為と性器の結合に関心があったように、女性も性行為と性器の結合を好んでいた、と考えるほうが自然である。
筆者はそれを否定的に見るが、私はむしろ肯定的に見る。
おそらく女性は、男性器を自分の身体に取りこみ、くたくたになるまで男性器を味わい尽くそうとしただろう。
それは挿入される受け身としてだけではなく、取り込む者としての積極性に裏打ちされていたに違いない。
勃起した性器を早く入れろと催促するのは、きわめて積極的な発言であり、弱者としてのものではない。

 女性を弱者と見なすわが国のフェミニズムからは、男性器を食い倒すという発想が生まれることはない。
わが国のフェミニズムにおいては、女性はいつも貫通される存在である。
女性器が男性器をくわえ込み、女性自ら腰を使うことは、わが国のフェミニズムでは語られることはない。
しかし、女性も性交の主体として、積極的に男性器を食らったと考えるほうが、明るい展望につながると思う。
むしろ、女性を弱者=受け身ととらえる視点は、女性の主体性を没却させかねない。

 男性の吉原での遊びにたいして、女性の役者買いは女性の性的な自由を証明している。
もちろん男性支配の社会では、女性の経済力は低いから、女性の役者買いは、質量ともに吉原に拮抗するほどではなかったろう。
しかし、女性も男性の身体を求めたのが役者買いだろうし、それゆえに性の快楽を追求したのも事実だろう。
 
 何か若衆という存在は、男色華やかなりし頃の元禄文化の花形のように受け止められているが、この男からの若衆への注視は、ほどなく男から女へと引き継がれて、男色そのものは衰退の途をたどつたとはいえ、若衆好みは女の手に移ることで、江戸期を通じて生き残ったのである。まさに皮肉なことに、男の男色趣味は、女の側に美しい若衆、女のようになよやかで優しい男への趣味をめばえさせ、男を相手にした男たちに対して、内実男ではあるけれども女の符丁を身にまとった女を、女の側に提供したのである。P170

 男色趣味=ホモによって男性は、若い男性と女性の両方を、性対象として手に入れた。
男色=ホモとはゲイではなく、成人男性が若い男性に挿入する性関係である。
当時の成人男性にとって、挿入する相手が女性でも若い男性でも、相手の体内で射精することは同じだった。
だから男性にとって、女性と若い少年はセックスの相手として、同質の存在だった。

 若衆が男性相手の少年として登場しながら、若衆を買ったのは男性には限らなかった。
とりわけ時代が下るに従って、女性たちは若衆を男性から奪い、自分たちのものにした。
女性たちは若衆の肉体を求め、性文化にまで昇華させた。
おそらく若衆の若い肉体は、充分な勃起力を持続し、度重なる女性の性交要求によく応えただろう。

 春画の書き込みでも明らかなように、女性たちも性交の回数に執着した。
一度のベッドインで、何度もオーガスムを得ることを女性たちは、貪欲に追求したに違いない。
若い男性の身体=男性器を使って、女性が男性を主導しながら自分の快楽を貪る。
それには、性欲の旺盛な若衆が、もっとも適していたと思う。
そう考えると、江戸の女性たちがいかに積極的だったかが、浮かび上がってくる。

 現在のベッドマナーでは、女性の全身にある性感帯を、男性が前技によって刺激し、充分に濡れてから挿入するように言う。
しかし、このベッドマナーは、女性を貫かれる者と見ている。
もし、女性が自ら濡れており、ただちに挿入が可能であれば、前技など不要であろう。
女性を濡らすための、男性による前技という考え方は、女性を大切にしているようでありながら、じつは女性は受け身であると言っている。

 性行為と性器の結合を好んだ江戸の女性たちは、男性から前技を受けるか否かを問わず、みずから性交にのぞんだとすれば、望んだのは優しいベッドマナーではなく、勃起した男性器でしかない。
男性器はある程度以上の刺激を与えれば、簡単に射精してしまい、勃起状態ではなくなってしまう。
高度なベッド技術を体得した年老いた男性より、若くて技術はないが勃起力だけは自信があるという若衆が、女性たちに好まれたというのは、充分に理解できる。

 すでに欲情し濡れた女性にとって、男性からの前技は必要ではなく、欲しいのは勃起した男性器だけだとすれば、本書が言うように、性行為と性器の結合が描かれるのは自然だったろう。
だから若衆たちは、男性のものから女性のものに変質しながらも、江戸をつうじて残ったのだろう。
年老いた男性は、射精したら再度の勃起には、かなりの時間がかかるから、積極的な江戸の女性たちには、必ずしも歓迎されなかったに違いない。

 女性はスロースターターだと言って、男性に前技を要求することは、じつは女性が受け身になると言っているに等しく、女性の台頭からはむしろ後ろ向きの発言である。
今日言われる女性に優しいベッドマナーは、女性が濡れるのを男性の働きに求めている。
これは女性の主体性を奪い、女性が自分から男性器を食らう姿勢を、考慮の外においている。

 勃起→刺激→射精→勃起の終了。
このサイクルは男性側のものだ。
性の快楽を、女性側が主体的に味得するとすれば、勃起の回復する時間は短いほど良い。
射精しても、勃起したままであれば、申し分ない。
そして、勃起から次の勃起へと続いていけば、女性は限りない快感を体得できる。
ところが、ベッドにおいて男性からの性技術が混入すると、男性側に快楽の主導権が移ってしまう。

 女性には全身に性感帯があり、その刺激が性交に不可欠だと言うことは、女性の快楽は男性から与えられるものだと言っているに等しい。
江戸時代の女性は自ら欲情できたがゆえに、性行為そのものと性器の結合をこそ、望んだのではないだろうか。
そう考えれば、乳房が女性の性的な部分として、それほど注目されなかったのも納得できる。

 近代の思想は、女性から性的自発性を奪うために、女性が自ら欲情することを否定した。
夜這いや浮気を否定し、性交を婚姻内に閉じこめていった。
そして、女性の性欲を否定する見返りとして、男性の優しいベッドマナーを普及させ、受け身の存在へと女性を洗脳していったように思う。
性器結合以外の性愛感覚を知ったことは、女性にとって快楽の幅が広がりはしただろうが、それによって女性の主体性は大きく削られてしまった。

 江戸時代には浮気はあっても、不倫はなかった。
不義と不倫は別の倫理体系に属し、義理さえ欠かさなければ、浮気はおおっぴらに認められていた、と書く筆者の筆は江戸の性愛を、よく浮かび上がらせた。(2002.9.20)
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参考:
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オリビア・セント クレア「 ジョアンナの愛し方」 飛鳥新社、1992
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生出泰一「みちのくよばい物語」光文社、2002
赤松啓介「夜這 いの民俗学」明石書店、1984
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佐藤哲郎「性器信仰の系 譜」三一書房、1995
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カミール・パーリア「セックス、アート、アメ リカンカルチャー」河出書房新社、1995
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エレノア・ハーマン「王たちのセックス」 KKベストセラーズ 2005 
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ロベール・ミュッシャンプレ「オルガスムの歴史」作品社、2006
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田中貴子「性愛の日本中 世」ちくま学芸文庫 2004
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岸田秀「性的唯幻論序説」文春文庫、1999
能町みね子「オカマだけどOLやってます」 文春文庫、2009
島田佳奈「人のオトコを奪る方法」大和文庫、2007
工藤美代子「快楽(けらく)」 中公文庫、2006
ジャン=ルイ・フランドラン「性と歴史」新評論、1987
レオノア・ティーフアー「セックスは自然な行為か?」新水社、1988
井上章一「パンツが見える」朝日新聞社、2005

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