著者の略歴−1949年レバノン生まれ。ジャーナリスト、作家。祖国の内乱を機に76年、パリに移住した。本書刊行後は創作に専念、88年、Samarcande(『サマルカンド年代記』牟田口訳)で新聞協会文学賞、93年、LeRoche de’nnios(ダニオスの岩)でフランス四大文学賞の一つであるゴンクール賞を受賞した。 11世紀から13世紀にかけて、西ヨーロッパのキリスト教徒がおこなった十字軍。 わが国ではヨーロッパ側からの情報ばかりあふれている。 戦争当事者のもう一方であるアラブ側からの発言は聞かれてこない。 本書は、レバノン生まれのジャーナリストが、アラブ側から書いた十字軍にかんする歴史書である。 当然のことながら、アラブ側から見れば、十字軍という言葉まったく登場しない。
アラブにとって十字軍とは、単なる暴力的な侵入者である。 なぜ、十字軍がアラブへ攻め込んだのか、その理由は判らない。 しかし、アラブ側にとっては、まったくの売られた喧嘩だった。 しかも通常の戦争とは違って、兵士だけではなく女や子供また老人までが一団となった十字軍は、きわめて異常なものだったらしい。 アラブ側は最初とても戸惑っている。 本書では、ヨーロッパ人をフランクと呼んでいるが、フランクたちの真意をつかみかねていたようである。 戦闘集団ではない殺人者の群を、初めこそ撃破したが、後には手を焼く。 とくに本物の兵士が登場するに及んで、フランクの占領を許すようになってしまう。 11世紀当時は、まだ、ヨーロッパという名前さえ登場していない。 経済的にも文化的にも、ヨーロッパよりもアラブのほうが優れていたようだ。 12世紀において、フランクは、科学・技術の全領域において、アラブより非常に遅れていた。そして、先進の中東と未開の西洋との較差がいちばん大きかったのは、医学の分野においてであった。P238 といって、足を怪我した男性に治療と称して、斧で足をたちおとした話や、病気になったのは悪魔の仕業だといって、肺病の女性の頭骸骨を塩もみにした話がでている。 何とも野蛮なことだが、両方とも、患者はたちまち死んでいる。 後進国のヨーロッパ人だったが、物量で圧倒してアラブを打ち倒す。 そして、200年にわたり、占領を続ける。 もちろんこの間、アラブ側も手をこまねいていたわけではない。 反撃にでようとしたはいるが、後継者の選定でもめたりして戦力を集中できない。 聖地エルサレムをめぐる紛争だが、エジプトやチュニスなどまでをも巻き込んだ、アラブ対ヨーロッパの戦いになる。 ダミエツタ危機の厳しい日々を通じ、エジプトのあるじは、フランクがその到着を待望していた有名なフリードリヒ、アル=エンポロル〔皇帝〕について、しきりに問いを発していた。彼は人がいうはど、ほんとに強力なのだろうか?彼は実際ムスリムに対して聖戦を行おうとしているのだろうか?周りの者に尋ね、また、フリードリヒが国王になっている島、シチリアから来た旅行者から聞けば聞くはど、アル=カーミルの驚きは増して行く。(中略)フリードリヒについていわれていることは本当なのだ。彼はアラビア語を完全に話し、かつ書き、ムスリム文明に対する称賛を隠さず、野蛮な西洋について、そして特に大ローマの法王について、ばかにした態度を示す。P392 そうこうするうちに、モンゴルからの脅威がはじまったりして、騒々しいことになっていく。 やがて停戦になり、とうとうアラブはフランクを撃退する。
長年にわたる占領をよく跳ね返したものだ。 長年にわたって占領するためには、フランクにも統治機構が整備されたはずである。 すでに新たな国家ができあがっていたに違いない。 今日のイスラエルを見ても判るように、一度できた国家は簡単にはなくなることはない。 筆者も言っているが、フランクたちは首長の交代なども制度を整備しており、彼等の統治は優れていたらしい。 それを覆したのだ。 しかし、筆者は、次のように言う。 うわべから見ると、アラブ世界は輝かしい勝利を得たところである。西洋が絶え間ない侵略によってイスラムの進出を押さえこもうとしたにせよ、結果はまさに逆であった。中東のフランク諸国家は、二世紀にわたる植民地化のあとで、根を引き抜かれてしまったばかりか、ムスリムはみごとに立ち直って、オスマン・トルコの旗のもと、ヨーロッパそのものの征服に出かける。1453年にはコンスタンティノープルが彼らの手中に帰したし、1529年には、その紛兵たちはウィーンの城壁のもとに陣を張ったものだ。P446 侵略者にとって、征服した民の言葉を学ぶのは器用にこなせる。 一方、征服された民にとって征服者の言葉を学ぶのは妥協であり、さらには裏切りでさえある。 実際、フランクの多くはアラビア語を学んだのである。 これに対して現地の住民は、土着のキリスト教徒のいくつかの例外を除き、西洋人の言葉に無関心で通した。 例はいくらでも挙げることができよう。フランクはどの分野でも、シリアやスペインおよびシチリアにあるアラブの学校で学んだからだ。そして学んだことは、彼らのその後の発展になくてはならぬものになる。ギリシア文明の遺産は翻訳者にして後継者であるアラブを介して初めて西ヨーロッパに伝わった。医学、天文学、化学、地理学、数学、建築などにおいて、フランクはアラビア語の著書から知識を汲み取り、それらを同化し、模倣し、そして追い越した。P451 その後のアラブは、ラクダと遊牧の民になり、石油がでるまで砂漠に暮らしてきた。 そこにはイスラムの教えこそあれ、近代化とはほど遠い生活だった。 今日では、アラブとヨーロッパではその近代化度において雲泥の差がある。 本書の締めくくりはいかにも皮肉である。 十字軍のはたした役割は、ヨーロッパの近代化を促すことにもつながっている。 アラブはインドからも文化を取り入れており、成熟した時代を築いていた。 ヨーロッパがアラブから得たものは、膨大であった。 十字軍がなかったら、西ヨーロッパの近代化はなかったかもしれない。 そうした目で見てみると、とてもおもしろい。 (2003.6.20)
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