匠雅音の家族についてのブックレビュー    父と子の思想|小林敏明

父と子の思想
日本の近代を読み解く
お奨度:

著者:小林敏明(こばやし としあき)   ちくま新書  2009年  ¥780−

著者の略歴−1948年岐阜県生まれ。1996年ベルリン自由大学学位取得。ライプツィヒ大学教授資格取得を経て、現在ライブツィヒ大学東アジア研究所教授。専門は哲学・精神病理学。著書に「精神病理からみる現代思想」(講談社現代新書)、「西田幾多郎−他性の文体」(太田出版)、「西田幾多郎の憂鬱」(岩波書店)、「廣松渉−近代の超克」(講談社)、「憂鬱な国/憂鬱な暴力−精神分析的日本イデオロギー論」(以文社)ほか。
 父と子とくに息子とのあいだには、母とは違った特有の感情があると、筆者は言う。
本書は近代の父と子の関係を、筆者自身の体験をもとにしながら、展開している。
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父と子の思想 (ちくま新書)

 筆者の父親は、志願して軍隊に行き、復員後は地方自治体の役人をしていたという。
団塊の世代である筆者は、ご多分にもれず学生運動に入れあげ、父親と衝突する。
その後、筆者はドイツに住み、一時帰国したときに、父親にマイクを向けてインタビューしている。
高齢の父親は、目が不自由になっているらしいが、その会話をテープに取り、本書に一部を再現している。

 筆者は、父親に「気おくれ」がはたらき、父親を恐れていたと言う。
しかし、インタビューできるということ、インタビューをしようと思える関係であることに、羨望を感じる。
何という幸せな親子関係だろうか。
親子のあいだで、言葉が何か意味をもつ、親の言葉を信じることができる、それは非常な幸せである。

 本書の前半は、筆者の個人的な体験である。
この部分にかんしては、農業が主な産業だった時代の男と、工業社会になって青春を送った男の違いだろう。
もっといえば、近代人と前近代人、または実人生を生きる者と観念に生きる者の違いだろう。

 筆者は父親に比べれば、すでに近代人であり、自己相対化の訓練を受けてしまっている。
そのため、ニーチェが言うところの良心の疚しさから逃れることはできない。
それは筆者も自覚しており、観念に生きる者は、実人生者に対して一歩引くと言っている。
そして、自分の体験を、日本近代へと敷衍していく。
自己の体験と近代一般を結びつけるのは、やはり恣意的だろうと思う。

 誰でも社会に生きるから、社会からの規定を受けるが、論理は抽象的なものである。
時代と自分の親子関係とが、密接に絡んでいるのは事実である。
しかし、やはり自己を切りはなして、抽象的に論じるべきだろう。
そして、筆者の論が時代や社会に、どれだけ意味をもつかを問うべきだろう。

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 地方と東京、そして、東京と西洋が、二重の円環構造になっているというのは、すでに常識である。
地方出身者は東京を夢見て、東京経由で西洋を夢見る。
西洋から渡来した文明開化は、東京から始まって地方へと普及したのだから、それを逆にさかのぼろうとするのは当然であろう。
もっとも、現在では青森からいきなりニューヨークだったり、四国からいきなりパリだったりするが、かつては東京が中継地点だった。

 少し気になるのは、家との関係で知識人を記述している部分である。

 地方出身の知識人にとって情愛による吸引力をもつ家がつねにその回帰の原点になるということである。場所が離れ、時間が経つにしたがって、その回帰の原点たる家のほうも拡散し、「実家」というひとつの家族にとどまらず、その家族の住まう村、町、地域となり、そこにいわゆる「ふるさと」「故郷」「郷里」といった観念が出現してくる。人によっては、これを「故国」にまで拡大する場合もあるだろう。ドイツ語には「我が家」を表わす「Heim」という言葉があり、それが転じて文字どおり「Heimat=家郷」となるのだが、このハイマートは「家」ないし「国家」に侵略されないかぎり、二足の吸引カをもった情愛の場所を形成する。P202

 そのあとでは、故郷とは観念になっているといって、故郷喪失者が家郷を捜すのだという。
一般的には定説であろう。
しかし、故郷がそれほどの吸引力を持つだろうか。
むしろ、筆者がドイツにいて、日本語が通じない世界にいるから、日本語圏が恋しくなっているのではないだろうか。

 現代人と異なり、戦前までのひとは、農業が規定する心性から逃れられなかった。
そして、貧しいなかなから、東京へ出てきたので、望郷の念が強かったかも知れない。
挫折や転向が、日本回帰するのは家と結びついているからだ、というのも理解できないわけではない。
しかし、家とはそんなに甘美なものだろうか。

 父と子といえば、かならずニーチェが登場する。
ドイツにいて哲学をやっている筆者なら、良心の疚しさはお手のものだろう。
古い世代の父子関係ではなく、むしろ、聞きたいのは、現代の父子関係である。ニューファーミリーで育った子供にとっての父、そして、情報社会での父親像がどうなのか、それが焦眉の急である。

 筆者も最後に、こうした問題に触れている。
しかし、父と母が均質化し、母殺しが進行しているのだ。
哲学者を名のるにしては、時代意識が古いように思う。
啓蒙思想の欺瞞性を言いながら、アフリカの貧困を口にするのでは、裕福な教授職にある筆者も、啓蒙思想家とおなじ轍を踏んでいるのではないだろうか。

 どうでも良いことだが、なぜ日本人の大学教師は、自分のメールアドレスを書かないのだろうか?    (2009.6.20)
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参考:
湯沢雍彦「明治の結婚 明治の離婚」角川選書、2005
越智道雄「孤立化する家族」時事通信社、1998
高木侃「三くだり半と縁切寺」講談社現代新書、1992年
岡田秀子「反結婚論」亜紀書房、1972
大河原宏二「家族のように暮らしたい」太田出版、2002
J・F・グブリアム、J・A・ホルスタイン「家族とは何か」新曜社、1997
磯野誠一、磯野富士子「家族制度:淳風美俗を中心として」岩波新書、1958
エドワード・ショーター「近代家族の形成」昭和堂、1987
S・クーンツ「家族に何が起きているか」筑摩書房、2003
賀茂美則「家族革命前夜」集英社、2003
信田さよ子「脱常識の家族づくり」中公新書、2001
匠雅音「核家族から単家族へ」丸善、1997
黒沢隆「個室群住居:崩壊する近代家族と建築的課題」住まいの図書館出版局、1997
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ジョージ・P・マードック「社会構造 核家族の社会人類学」新泉社、2001
S・ボネ、A・トックヴィル「不倫の歴史 夢の幻想と現実のゆくえ」原書房、2001
石坂晴海「掟やぶりの結婚道」講談社文庫、2002
マーサ・A・ファインマン「家族、積みすぎた方舟」学陽書房、2003
上野千鶴子「家父長制と資本制」岩波書店、1990
斎藤学「家族の闇をさぐる」小学館、2001
斉藤学「「家族」はこわい」新潮文庫、1997
島村八重子、寺田和代「家族と住まない家」春秋社、2004
伊藤淑子「家族の幻影」大正大学出版会、2004
山田昌弘「家族のリストラクチュアリング」新曜社、1999
斉藤環「家族の痕跡」筑摩書房、2006
宮内美沙子「看護婦は家族の代わりになれない」角川文庫、2000
ヘレン・E・フィッシャー「結婚の起源」どうぶつ社、1983
瀬川清子「婚姻覚書」講談社、2006
香山リカ「結婚がこわい」講談社、2005
山田昌弘「新平等社会」文藝春秋、2006
速水由紀子「家族卒業」朝日文庫、2003
ジュディス・レヴァイン「青少年に有害」河出書房新社、2004
川村邦光「性家族の誕生」ちくま学芸文庫、2004
信田さよ子「脱常識の家族づくり」中公新書ラクレ、2001
菊地正憲「なぜ、結婚できないのか」すばる舎、2005
原田純「ねじれた家 帰りたくない家」講談社、2003
A・柏木利美「日本とアメリカ愛をめぐる逆さの常識」中公文庫、1998
ベティ・フリーダン「ビヨンド ジェンダー」青木書店、2003
塩倉 裕「引きこもる若者たち」朝日文庫、2002
サビーヌ・メルシオール=ボネ「不倫の歴史」原書房、2001
棚沢直子&草野いづみ「フランスには、なぜ恋愛スキャンダルがないのか」角川ソフィア文庫、1999
岩村暢子「普通の家族がいちばん怖い」新潮社、2007
下田治美「ぼくんち熱血母主家庭」講談社文庫、1993
高木侃「三くだり半と縁切寺」講談社現代新書、1992
加藤秀一「<恋愛結婚>は何をもたらしたか」ちくま新書、2004
バターソン林屋晶子「レポート国際結婚」光文社文庫、2001
中村久瑠美「離婚バイブル」文春文庫、2005
佐藤文明「戸籍がつくる差別」現代書館、1984
松原惇子「ひとり家族」文春文庫、1993
森永卓郎「<非婚>のすすめ」講談社現代新書、1997
林秀彦「非婚のすすめ」日本実業出版、1997
伊田広行「シングル単位の社会論」世界思想社、1998
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