著者の略歴−1948年岐阜県生まれ。1996年ベルリン自由大学学位取得。ライプツィヒ大学教授資格取得を経て、現在ライブツィヒ大学東アジア研究所教授。専門は哲学・精神病理学。著書に「精神病理からみる現代思想」(講談社現代新書)、「西田幾多郎−他性の文体」(太田出版)、「西田幾多郎の憂鬱」(岩波書店)、「廣松渉−近代の超克」(講談社)、「憂鬱な国/憂鬱な暴力−精神分析的日本イデオロギー論」(以文社)ほか。 父と子とくに息子とのあいだには、母とは違った特有の感情があると、筆者は言う。 本書は近代の父と子の関係を、筆者自身の体験をもとにしながら、展開している。
筆者の父親は、志願して軍隊に行き、復員後は地方自治体の役人をしていたという。 団塊の世代である筆者は、ご多分にもれず学生運動に入れあげ、父親と衝突する。 その後、筆者はドイツに住み、一時帰国したときに、父親にマイクを向けてインタビューしている。 高齢の父親は、目が不自由になっているらしいが、その会話をテープに取り、本書に一部を再現している。 筆者は、父親に「気おくれ」がはたらき、父親を恐れていたと言う。 しかし、インタビューできるということ、インタビューをしようと思える関係であることに、羨望を感じる。 何という幸せな親子関係だろうか。 親子のあいだで、言葉が何か意味をもつ、親の言葉を信じることができる、それは非常な幸せである。 本書の前半は、筆者の個人的な体験である。 この部分にかんしては、農業が主な産業だった時代の男と、工業社会になって青春を送った男の違いだろう。 もっといえば、近代人と前近代人、または実人生を生きる者と観念に生きる者の違いだろう。 筆者は父親に比べれば、すでに近代人であり、自己相対化の訓練を受けてしまっている。 そのため、ニーチェが言うところの良心の疚しさから逃れることはできない。 それは筆者も自覚しており、観念に生きる者は、実人生者に対して一歩引くと言っている。 そして、自分の体験を、日本近代へと敷衍していく。 自己の体験と近代一般を結びつけるのは、やはり恣意的だろうと思う。 誰でも社会に生きるから、社会からの規定を受けるが、論理は抽象的なものである。 時代と自分の親子関係とが、密接に絡んでいるのは事実である。 しかし、やはり自己を切りはなして、抽象的に論じるべきだろう。 そして、筆者の論が時代や社会に、どれだけ意味をもつかを問うべきだろう。
地方出身者は東京を夢見て、東京経由で西洋を夢見る。 西洋から渡来した文明開化は、東京から始まって地方へと普及したのだから、それを逆にさかのぼろうとするのは当然であろう。 もっとも、現在では青森からいきなりニューヨークだったり、四国からいきなりパリだったりするが、かつては東京が中継地点だった。 少し気になるのは、家との関係で知識人を記述している部分である。 地方出身の知識人にとって情愛による吸引力をもつ家がつねにその回帰の原点になるということである。場所が離れ、時間が経つにしたがって、その回帰の原点たる家のほうも拡散し、「実家」というひとつの家族にとどまらず、その家族の住まう村、町、地域となり、そこにいわゆる「ふるさと」「故郷」「郷里」といった観念が出現してくる。人によっては、これを「故国」にまで拡大する場合もあるだろう。ドイツ語には「我が家」を表わす「Heim」という言葉があり、それが転じて文字どおり「Heimat=家郷」となるのだが、このハイマートは「家」ないし「国家」に侵略されないかぎり、二足の吸引カをもった情愛の場所を形成する。P202 そのあとでは、故郷とは観念になっているといって、故郷喪失者が家郷を捜すのだという。 一般的には定説であろう。 しかし、故郷がそれほどの吸引力を持つだろうか。 むしろ、筆者がドイツにいて、日本語が通じない世界にいるから、日本語圏が恋しくなっているのではないだろうか。 現代人と異なり、戦前までのひとは、農業が規定する心性から逃れられなかった。 そして、貧しいなかなから、東京へ出てきたので、望郷の念が強かったかも知れない。 挫折や転向が、日本回帰するのは家と結びついているからだ、というのも理解できないわけではない。 しかし、家とはそんなに甘美なものだろうか。 父と子といえば、かならずニーチェが登場する。 ドイツにいて哲学をやっている筆者なら、良心の疚しさはお手のものだろう。 古い世代の父子関係ではなく、むしろ、聞きたいのは、現代の父子関係である。ニューファーミリーで育った子供にとっての父、そして、情報社会での父親像がどうなのか、それが焦眉の急である。 筆者も最後に、こうした問題に触れている。 しかし、父と母が均質化し、母殺しが進行しているのだ。 哲学者を名のるにしては、時代意識が古いように思う。 啓蒙思想の欺瞞性を言いながら、アフリカの貧困を口にするのでは、裕福な教授職にある筆者も、啓蒙思想家とおなじ轍を踏んでいるのではないだろうか。 どうでも良いことだが、なぜ日本人の大学教師は、自分のメールアドレスを書かないのだろうか? (2009.6.20)
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