匠雅音の家族についてのブックレビュー    父親再生|信田さよ子

父親再生 お奨度:

著者: 信田さよ子(のぶた さよこ)   NTT出版 2010年 ¥1600−

 著者の略歴− 臨床心理士。原宿カウンセリングセンター所長。1946年岐阜県生まれ。お茶の水女子大学大学院修士課程修了。駒木野病院勤務、嗜癖問題臨床研究所付属原宿相談室室長を経て、1995年、原宿カウンセリングセンターを設立。アルコール依存症、摂食障害、DV、ひきこもり、子どもの虐待などに悩む人やその家族のカウンセリングを行う。  著書に『アダルト・チルドレンという物語』(文春文庫)、『家族収容所』(講談社)、『母が重くてたまらない』(春秋社)、『加害者は変われるか』(筑摩書房)、『共依存・からめとる愛』(朝日新聞出版)、『選ばれる男たち』(講談社現代新書)、『タフラブという快刀』(梧桐書院)ほか多数。

 家族の問題は、父親と母親、そして子供の問題である。
いままで、家族の問題には父親の影が薄かった。
父親は家の外で働く人であり、子供の問題は母親が担うとされていた。
父親は家庭内暴力の加害者として登場することはあっても、希望の星として語られることはなかった。
妻や子供にとって、父親の存在感はきわめて薄いものだった。


 父親は男性である。男性とは働いて一家を養う者だ。
その刷り込みが意識・無意識のうちに強固になされているため、男性は妻である女性よりも優れている生き物だと思い込んでいる。
それは高齢者が優れているという年齢秩序と双璧をなすものであり、性別役割分業がなさしめる技だ。
だから弱みを見せざるを得ないカウンセリングには来ないのだという。

 彼ら(父親たち)がカウンセリングに来ることを拒否するのは、妻に対する対抗意識が理由のひとつだろう。カウンセリングに行ったり専門書を読んだりした妻が、夫に協力を求める際にその内容を引き合いに出せば、知識量の差があらわになる。この差が彼らにとっては耐え難く屈辱的なのだ。おそらく彼らはこう考えてきた。
「満足に子育てができなかったから息子はこんなふうになってしまった。きっと過保護すぎたのだ。子どものことはすべて任せてあったのに、どうしてこんな結果になってしまったのか。これもぜんぶ妻のせいだ」と。
 そんな妻から知識をひけらかされて、おまけに「あなたは仕事ばかりだった」などと責められれば、彼らはきっと怒るに違いない。知識ではかなわないと認めることすら屈辱であり、この生意気な妻を圧倒して自分の正しさをわからせようとするだろう。夫である自分を差し置いて、妻がカウンセラーの言うことを信じていることへの屈辱感もあるだろう。P15


 男性たちは大きな社会的な抑圧の中で生かされている。
会社でも家庭でも、つねに命題を与えられて、それを消化することを求められてきた。
上手く消化して当たり前である。
上手く消化しても誰も褒めてくれない。
父親は誰からも肯定されることはないのだ。
だから、男性たちはスナックや飲み屋に通って、そこのママから「ほめ言葉」を貰うのだ。

 父親は家族からは経済的な支柱でしかない。
男性であるという理由だけで、父と息子が理解し合えることはない。
家族と疎遠なだけに、精神的な繋がりは生まれようがない。
そこに母親が入りこめば、父親と息子の間はますます離れていく。
両者が離れていくことは、父親が負の存在になるということだ。

 いくら息子が父を負の存在として認知しようと、現実の生活は父の経済力に依存することで成立している。つまり、家族関係においては負の存在として除外できたとしても、現実の生活においては父親が大きな顔をしているのは事実なのだ。裏返せば、父親たちは自分が経済的支柱であるという事実に自らの存在根拠を確信しているからこそ、それ以外の役割に関しては驚くはど無神経でいられるのかもしれない。息子が自分のことを負の存在として認識しているなどとは、想像もしていないだろう。(中略)
 抵抗の対象として父が存在し得ないにもかかわらず、経済力では圧倒され、そこから脱出も不可能であるとき、そんな無力な自分に対して息子たちは嫌悪を感じるだろう。父親よりはるかに若く体力があるにもかかわらず、父に対して無力な自分を受け入れることなどできるはずもない。自分を嫌悪し、自分に憤る息子たちは、何かに突き動かされるような思いを抱く。
 怒りはしばしば無自覚なままに衝動として芽生える。衝動のエネルギーは強く、それを方向づけることができなければ、攻撃性と破壊衝動へと転化する。P97


 多くの父親は、妻子を飢えさせないことや家を買い、子供を進学させること、それで充分に勤めを果たしていると考えているかも知れない。
しかし、そうだとすると、父親は子供と精神的な結びつきをもてない。
というのは、母親は父親の役割をやることがない中で、親子関係を作っているのだ。
そこには経済的な支えという側面は入りようがない。
経済的な側面がない中で、関係を作ろうとすれば精神的な領域に踏み込まざるを得ない。

 平和な家庭では、男性は力の行使を見せることもないし、強くある必要もない。
しかし、家庭内暴力の芽が芽生えると、家族の全員が力の支配に敏感にならざるを得ない。
性的な繋がりを持てない父親は、優しい言葉ではなく力による支配力に頼らざるを得ないのだ。
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 家族も1つの組織であれば、どんな組織の構成員でも相互に批判の対象になっている。
片方からだけの評価と言うことはなく、歯車が動くためには大小いくつかの歯車が必要なのだ。
しかも、すべての歯車が健全であってこそ、家族という組織は順調に動くのである。

 父親からだけの目ではなく、他の家族たちから愛され評価される視線を、父親は自覚し内部化したほうが良い。
評価するのは妻であり、子供たちだからだ。
父親と子供の関係が、精神的なものにならないと、母親と子供の関係も実はべったりした生理的なものとなってしまう。

 大家族では各自が役割を果たせばすんだ。
核家族になっても、大人たちは大家族的な役割分担でやろうとしてきた。
しかし、今後の家族にあっては、役割分担では暮らしていけないのは自明である。 
    (2014.4.16)
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参考:
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G・エスピン=アンデルセン「福祉国家の可能性」桜井書店、2001
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磯野誠一、磯野富士子「家族制度:淳風美俗を中心として」岩波新書、1958
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黒沢隆「個室群住居」住まいの図書館出版局、1997
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伊藤雅子「子どもからの自立 おとなの女が学ぶということ」未来社、1975
エリオット・レイトン「親を殺した子供たち」草思社、1997
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編・吉廣紀代子「女が子どもを産みたがらない理由」晩成書房、1991
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鮎川潤「少年犯罪」平凡社新書、2001
小田晋「少年と犯罪」青土社、2002
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広岡知彦と「憩いの家」「静かなたたかい」朝日新聞社、1997
高山文彦「地獄の季節」新潮文庫、2001 
マイケル・ルイス「ネクスト」潟Aスペクト、2002
服部雄一「ひきこもりと家族トラウマ」NHK出版、2005
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瀬川清子「若者と娘をめぐる民俗」未来社、1972
ロイス・R・メリーナ「子どもを迎える人の本」どうぶつ社、2005
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イヴォンヌ・クニビレール、カトリーヌ・フーケ「母親の社会史」筑摩書房、1994
下田治美「ぼくんち熱血母主家庭 痛快子育て記」講談社文庫、1993
芹沢俊介「母という暴力」春秋社、2001
編・吉廣紀代子「女が子どもを産みたがらない理由」晩成書房、1991
信田さよ子「父親再生」NTT出版、2010

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