匠雅音の家族についてのブックレビュー      快楽の活用|ミッシェル・フーコー

快楽の活用 お奨度:

筆者 ミッシェル・フーコー   新潮社 1986年 ¥2500−

編著者の略歴−

 性の歴史シリーズの2冊目である。
1冊目から8年もたって出版されたので、内容的な繋がりが少し離れてしまったようだ。
相も変わらず、長い長い文の後に否定がきて、付け足したように肯定文がある。
実に読みづらい文章である。
しかし、鳴く子も黙るフーコーのこと、エイズを移しまくったことなどどこ吹く風で、翻訳者は絶賛である。

 フーコー以前には、同性愛を評価した人はいないのだろうか。
ゲイとホモは違うことくらい、近代を調べていけば判りそうなものだ。
ホモは男色と呼ばれて、歴史上どこにでもあった。
男がほかの男の肛門に、自分の男根を差し入れるなど、今では想像つかないかも知れないが、それは教育の結果である。
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 ヒゲ面のむくつけき男たちが、2人で息を切らしている場面など、想像したくもないだろう。
昔の人も、ヒゲ面の男を犯そうとはしなかった。
ねらったのは、あくまで若者である。
しかも、美形の若者が、中年男性の相手になったのだ。
若い女性のライバルは、他の女性ではなく中年男性だった

 女性とのセックスは、子供をつくるためだ。
とすると、若い男性とのセックスは何を目的にしたのだろうか。
教育であり、文化の承継だった。
いまだ成熟していない男性は、やがて男社会を背負って立つようになる。
そのための教育が、ベッドのなかで行われたのだ。

 ギリシャをはじめとする古代社会は、完全な男性支配が貫徹していた。
女性の住む場所は家庭のなか、政治にかかわるなどトンでもないことだった。
ローマになっても、円形競技場には入れるのは、市民といわれる男性だけ。
女性は奴隷と一緒に3階席が許されただけだった。

 文字の役割がはるかに低かった時代には、記憶がそして肉体的な接触が、多くのノウハウを伝えたのだ。
男性たちは自分のノウハウを、愛者といわれる若者に伝えた。
それが当時の同性愛だった。
女性と若い男性は、社会的な劣位者という意味では同じだったから、あえて同性愛という区別がなかったのだ。

 女性は一生にわたり家庭に住むから、受動的な存在として、セックスを語っても良い。
しかし、若年男性の場合は、そうはいかなかった。
挿入されることは、受け身となることである。
だから、1人前になるとすれば、受け身から挿入するほうへと、変身しなければならない。
自立を夢見ながら、挿入されるのは若者を屈折させる。
    
 愛欲の営みにかんするギリシャ道徳における<若者の二律背反>とでも名付けていい事柄である。一方では、青年は快楽の客体として−しかも、成人男性にとっての男性の相手のなかで、恥ずかしくなく正当な唯一の客体としてさえ認められている。若者を恋し、欲しいと思い、若者を楽しむ、いかなる者も、法律や作法を守ってさえいれば、けっして咎められないだろう。ところが他方、若者はその若さゆえに一人前の男にならねばならない以上、支配という形式のなかでいつも考えられているこの性関係における客体として自分を認めるのを承認することができないのである。つまり、この役割と一体化しえないし、すべきではない。若者は自発的に、自分の見解で、自分自身のために、快楽のこの客体であることはできないだろうし、他面、大人のほうはごく自然に若者を快楽の客体として選ぶことを好む。要するに、若者を相手に悦楽を感じて快楽の主体であることは、ギリシャ人にとって何も問題にならない、が反対に、快楽の客体であること、しかも自分をそうだと認めることは、若者にとって重大な困難を構成するのである。自由民の大人、自分自身を統御し、他の人々をしのぐ能力をもつ大人となるために、若者が自分自身にたいして確立すべき関係は、自分が他者にとっての快楽の客体である関係形式と合致しえないだろう。この不合致は道徳的に必然のものである。P279

と言いながら、フーコーもまた若者の尻を追いかけたのだろうか。
とすれば、ずいぶんと自分勝手な男だったと思う。

 フーコーはゲイではなく、ホモだったのじゃないだろうか。
ギリシャのように、ホモが幅を利かせていた時代ならともかく、ストレートが普通の時代に、ホモを実践するのは大変なことだ。
挿入するフーコーは良いだろうが、挿入される男性は、男性性の喪失に直面するだろう。
少なくとも、フーコーと同様な男性性を、確保できるとは思えない。

 もし、フーコーが挿入されるほうなら、こんな本を書くのは、ずいぶんと屈折した男だと思う。
というより、根性の曲がった男と言ったほうが良いかも知れない。
たぶん、フーコーは挿入するほうだったはずである。
それとも、ドンデンが来てしまっていたのだろうか。
しかし、本書に書かれていることは、おおむね当然のことである。
 (2010.11.17) 

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参考:
早川聞多「浮世絵春画と男色」 河出書房新社、1998
松倉すみ歩「ウリ専」英知出版、2006年
ポール・モネット「ボロウド・タイム  上・下」時空出版、1990
ジェシ・グリーン「男だけの育児」飛 鳥新社、2001
伊藤文学「薔薇ひらく日を 薔薇族と 共に歩んだ30年」河出書房新社、2001
モートン・ハント「ゲイ:新しき隣 人たち」河出書房新社、1982
リリアン・フェダマン「レスビアンの歴史」 筑摩書房、1996

尾辻かな子「カミングアウト」講談社、 2005
伏見憲明+野口勝三「「オカマ」は差別か」 ポット出版、2002
顧蓉、葛金芳「宦官」徳間文庫、2000
及 川健二「ゲイ パリ」長 崎出版、 2006
礫川全次「男色の民俗学」 批評社、2003
伊藤文学「薔薇ひらく日を」河出書房 新社、2001

リリアン・フェダマン「レスビアンの歴史」 筑摩書房、1996
稲垣足穂「少年愛の美学」河出 文庫、1986
ミシェル・フーコー「同性愛と生存の美学」 哲学書房、1987
プラトン「饗 宴」岩波文庫、1952
伏見憲明「ゲイという経験」ポット出 版、2002

東郷健「常識を越えて オカ マの道、70年」 ポット出版、2002
ギルバート・ハート「同性愛のカルチャー研究」 現代書館、2002
早川聞多「浮世絵春画と男色」 河出書房新社、1998
ジェシ・グリーン「男だけの育児」飛 鳥新社、2001
神坂次郎「縛られた巨人」 新潮文庫、1991
風間孝&河口和也「同性愛と異性愛」 岩波新書、2010
匠雅音「核家族か ら単家族へ」丸善、1997
井田真木子「同性愛者たち」文芸春秋、1994
編ロバート・オールドリッチ「同性愛の歴史」東洋書林、2009
ミッシェル・フーコー「快楽の活用」新潮社、1986

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