匠雅音の家族についてのブックレビュー   ヨーロッパの伝統的家族と世帯|ピーター・ラスレット

ヨーロッパの伝統的家族と世帯 お奨度:

筆者 ピーター・ラスレット    リブロポート 1992年 ¥2060−

編著者の略歴−牧師の息子として1915年に生まれた。BBC放送のプロデューサーを勤め、1966年から83年までケンブリッジ大学の講師を務める。
 この手の本としては珍しく、冒頭に<日本からみたヨーロッパの世帯とその歴史>という章が置かれている。
本書は、日本の読者にむけて書かれたものである。
世帯に関して5つの誤った概念があると指摘する。
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 第一の誤解は、ヨーロッパおよび他のおそらくすべての地域においてすらも、工業化以前の過去においては、同居家内集団はつねに大規模でありかつ親族構成は複雑であった、というものである。これを大規模世帯ドグマとよぼう。
 第二の誤った概念は、そうした集団の規模と構造に時の経過とともに起こる変化が、いつでもどこでも常に大規模から小規模へ、複雑なものから単純なものへという変化であった、というものである。これを一方向ドグマとよぼう。
 第三は、工業化あるいは「近代化」の過程が、いつでもどこでもこの一方向ドクマにそった変化をともなってきた、という誤った仮定である。これを工業化ドグマとよぼう。
 第四は、証明されていないし不必要でもある仮定である。すなわち世界中のあらゆる地域において、また歴史のある一時点、つまり始源的状況では自然的世帯経済が一般的であった、という仮定である。こうした状況のもとでは、大規模で親族関係のいりくんだ世帯は独立の自給自足体として存在し、社会全体はそうしたものの集合体として存在した。そこには、労働市場も、資本も、また貨幣経済も存在しなかった。これを自然的世帯経済ドグマとよぼう。
 第五は、工業化以前においては、どんな世帯も人口再生産の単位であると同時に生産の単位であった、というあきらかに誤った仮定である。これを労働集団としての世帯ドグマとよぼう。P13

 本書は、以上の5つのドグマを否定することから記述を始める。

 ケンブリッジ・グループのやった教会簿の分析などから、工業化以前のイギリスでは、すでに家族は小型化していたというのが定説になっている。
それ以外にも、エマニュエル・トッドの「新ヨーロッパ大全」などが、直詳細な分析をみせている。
そのため、工業化によって大家族が核家族になると言う論理は、すでに採用されなくなっている。

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 ボクはそれでも大家族、つまり大人数の同居が、歓迎されたと考える。
我が国の前近代だって、平均すれば5人程度の家族が多かった。
しかし、自作農は人口の30%程度で、自小作農が40%、残りの30%は土地をもたない小作農だった。
とすれば、継続的な家族を営めたのは、人口の半分もいなかっただろう。
1人者もいたはずである。
そうしたなかでは、家族数の平均は、小さくならざるを得ない。

 しかし、小さな家族と大きな家族を比べれば、大きな家族のほうが豊かだったし、世代的にも安定していた。
小さな家族は、財産がないので相続がおきず、何世代も継続しなかった。
大きな家族とは、必ずしも血縁が必要ではなく、一緒に働く者を家族と見なした。
たとえば、女中や作男、奉公人なども、家族扱いだったはずである。

 筆者も<エリート、ブルジョアそしてジェントルマンは、どこでもその富と力を大規模な世帯によって示す傾向があった>という。
人数の多い世帯は、大きな勢力の象徴だったのだ。
農業が主な産業であるかぎり、誰も土地からの拘束からは逃れられないのだ。

 農業世帯のすべてが、農場を経営していたわけではない、と筆者はいう。
もちろんそうだろう。
小作農や小さな自作農は、他家に働きに出なければ、生活が成り立たなかったはずである。
だからといって、大家族がなかったとはいえない。
大家族というと多数の血縁の核家族が、集まっていたように想定されるが、1人の戸主のもとに大勢の人が集まったに過ぎない。
つまり大家族理念が是とされたのだ。

 嘆かわしいほどに多用されすぎているが、基本的に歴史的表現である「近代化」という術語については、家族史研究者にとってのマイナス面はおそらくすでに明らかであろう。時間の流れを短縮し、変化の速度と特徴を見誤らせるだけでなく、「近代化」という用語は、まさしくカテゴリーエラーとよびうるものを付け加えるのである。すなわち、「近代化」という用語は、日本のような国における工業化との関連で第V章の終りで述べた発展過程を、独自の社会構造、文化、経験、態度をもって工業化したヨーロッパ諸国、とりわけイングランドの歴史的過程にあてはめて解釈するからである。これでは混乱を招くばかりである。P125

といって、「近代家族の形成」を書いたエドワード・ショーターを批判する。

 近代化というのは歴史概念であり、家族史には簡単に援用してはいけない、というのはわかる。
近代化を工業化とみなせば、家族と工業化は直接の関係はない。
しかし、産業構造は、根底的なところで、人間の生き方を決定している。
そう考えれば、近代化と家族のあり方も関連している、そう考えたほうが妥当だろう。
(2010.12.15)
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参考:
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小浜逸郎「可能性としての家族」ポット出版、2003

ピーター・ラスレット「ヨーロッパの伝統的家族と世帯」リブロポート、1992

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