匠雅音の家族についてのブックレビュー   女性史は可能か|ミシェル・ペロー

女性史は可能か お奨度:

編筆者 ミシェル・ペロー   藤原書店 1992年 ¥3800−

編著者の略歴− 1928年生まれ。歴史学教授資格、国家博士号取得者。パリ第七大学(ジュスィウ校)の教授で、フランス現代史を講じている。専攻ははじめ、十九世紀の労働者、社会運動や民衆文化だった(『ストライキにおける労働者−1871年から1890年まで』Paris、Mouton,1974)が、並行して犯罪と刑務所制度の研究も行なっており、この分野でも三冊の著書がある。最近20年ほどは、とくに女性史の発展にとり組み、ジョルジュ・デュビーとともに『西欣女性史』全五巻全体の監修にあたっている。
 本書は、1983年にフランスで行われたシンポジウムの結果をまとめたものである。
そのため1人の筆者によるものではなく、13人の書いた13本の論文が並んでいる。
女性史は可能かという主題で論議されたので、何らかの形で女性史に関係している。

 冒頭の日本語版への序文では、次のように書かれている。

 女性は、ほんとうに歴史の対象になったのでしょうか。おそらく否です。少なくとも、「男性」ほどには、まだ歴史の対象ではないのです(男性は、第一、男性としての歴史をもっているはずです)。もっというと、「男性」は、自分たちがひとつの全体を体現しており、しかもそれは人類全体と合致しているのだと、主張しています。これに対して、「女性」は、あい変わらず部分を意味しているにすぎないのです。「少数の存在」というこの規定こそが、まさに問題であり、女性を部分としてあつかうやり方を正当化しているのです。P4
TAKUMIアマゾンで購入
 歴史という以上、事実の羅列だけではなく、事実の並べ方を律する価値観、歴史観が必要である。
そのため、歴史はつねに現在から書かれるのだ。
今現在に主流の価値観で、過去を見た場合、どう見え、どう秩序付けられるか、それが歴史である。
歴史とは過去を扱っていながら、きわめて現在的な意識に支えられている。 

 女性が社会的に台頭し、男性と拮抗するようになった。
すると、女性という性別の生き物には、歴史がないことに気がついた。
女性である自分たちは生きていながら、女性がつくった価値観がなかったのだ。
そこで自分たちを正当化したいために、過去へと遡って、女性の行動を捜してきた。
現在の自分の存在を、時間の流れの中に位置づけるために、女性の歴史は可能かと問うたのである。

 本書を読んだ限りでは、母親の歴史とか、妻の歴史は書けても、歴史全体を女性史として捉えることは不可能だと思える。
ミシェル・ペローは<序文>で、次のように言っている。

 女性史という新しい分野をつくることが、問題なのではない。もしそんな女性史なら、それは波風の立たぬ譲歩にすぎず、女性たちはそこで、あらゆる矛盾を隠れみのにして、気ままに羽をひろげてみるだけになろう。そうではなくて、男女両性の関わり方の問題を中心軸に据え、歴史を見る眼差しの方向を変えることが、もっとずっと重要なのである。要するに、これがなされなければ、女性史はありえないのである。P31

 この問題意識は、フランス特有のものかも知れない。
アメリカのように女性学を独立させても、その卒業証書は社会では役に立たないだろうと言っている。
そのとおりである。
女性独自の経済活動や政治があるわけではなく、人間の経済活動があり、政治があるに過ぎない。
今まで、その人間は男性だけを意味し、女性は人間として扱われていなかった。

広告
 第2次世界大戦が終わるまで、女性は参政権もなければ、契約の主体にもなれなかった。
女性が自分たちも人間だと主張したのは、もっとも正確に言えば1968年以降である。
つまり女性の歴史は、たった43年しかないのだ。
しかし、歴史が短いから価値がないかというと、決してそんなことはない。
価値は価値として計られ、時間の長さとは関係ない。

 富を得ると名誉が欲しくなるように、女性たちも歴史が欲しくなったのだ。
とすると、現代という社会で、なぜ女性が台頭できたのか、それを問わないことには、女性の歴史は始まらないだろう。
女性の台頭した原因は、言うまでもなく肉体的な力の無価値化である。
これがあったから、女性も男性と同じ発言権を得たのだ。 

 人類の歴史はじまって以来、肉体的な力こそ社会を維持してきた源だった。
ほとんどが農業に従事した社会だったから、屈強な腕力が不可欠だった。
それに戦争が絶えなかったし、戦争も肉弾戦だった。
だから、肉体的な腕力に秀でた男性が、優位な立場に置かれたのである。
そして、女性は男性間での交換の対象でしかなかった。
それによって、近親相姦を防ぎ、文化・文明の断絶を免れたのだ。

 肉体的な腕力の価値が下がり、頭脳の働きのほうが上位になる。
そんな社会は、工業社会も終盤になり、情報社会になって初めて実現したのだ。
 
 19世紀の男性は、戦う男というモデルに一致するよう義務づけられている−ここに、今日すがたを消してしまってはいるが、性別によるイメージや行動の分割の基本的な側面のひとつがある。しかもそれは、とくにいっておきたいのだが、民衆のあいだでも同じことだった。したがって、男子教育も、しばしば 「体罰」をともなう厳格なものとなった。仲間うちの殴りあいのものすごさ、戦場でも信望をうる腕っぷしの強さ、パリの建設労働者にたえずつきまとう恐ろしい暴力、これらは、それぞれに、力の支配を示すしるしなのである。第二帝政期まで、ブルジョワ家庭では、娘は家に残しておきたがったが、息子のほうは、寒く、汚れて、悪臭をはなつ寄宿学校に入れられ、体を鍛えるためにスパルタ式の訓練を強制された。その厳しさが、男らしい気質をつくりあげるうえで、大きく貢献すると思われたからである。P238

 19世紀までといえば、つい最近の話である。
なぜ、腕っぷしの強さに価値があったのか。なぜ、それを社会は男の子に求めたのか。
社会が求めたのであって、男性だけが求めたのではない。
女性も男性に腕っぷしの強さを求めたのだ。
本書は問題の所在をわかってはいるが、解法は提示できていない。
男女の歴史を書くには、今後、長い時間が必要だろう。
むしろ、今後の社会が、どう発展するかにかかっている。 (2011.1.18)
広告
 感想・ご意見・反論など、掲示板にどうぞ
参考:
伊藤友宣「家庭という歪んだ宇宙」ちくま文庫、1998
永山翔子「家庭という名の収容所」PHP研究所、2000
H・J・アイゼンク「精神分析に別 れを告げよう:フロイト帝国の衰退と没落」批評社、1988
J・S・ミル「女性の解放」 岩波文庫、1957
イヴォンヌ・クニビレール、カトリーヌ・フーケ「母親の社会史」 筑摩書房、1994
江藤淳「成熟と 喪失:母の崩壊」河出書房、1967
田中美津「いのちの女たちへ」現代書 館、2001
末包房子「専業主婦が消える」 同友館、1994
梅棹忠夫「女と文明」中央公論社、 1988
ラファエラ・アンダーソン「愛ってめんどくさい」ソニー・マガジ ンズ、2002
まついなつき「愛はめんどくさい」メディアワー クス、2001
J・S・ミル「女性の解放」岩波文庫、 1957
ベティ・フリーダン「新しい女性の創造」 大和書房、1965
クロンハウゼン夫妻「完全なる女性」河出書 房、1966
松下竜一「風成(かざなし)の女たち」現 代思想社、1984
モリー・マーティン「素敵なヘルメット職 域を広げたアメリカ女性たち」現代書館、1992
小野清美「アンネナプキンの社会史」 宝島文庫、2000(宝島社、1992)
ジェーン・バートレット「「産まない」時代の女たち」 とびら社、2004
楠木ぽとす「産んではいけない!」新 潮文庫、2005
山下悦子「女を幸せにしない「男女共同参 画社会」 洋泉社、2006
小関智弘「おんなたちの町工場」 ちくま文庫、2001
エイレン・モーガン「女の由来」どうぶつ社、 1997
シンシア・S・スミス「女は結婚すべ きではない」中公文庫、2000
シェア・ハイト「女はなぜ出世できないか」 東洋経済新報社、2001
中村うさぎ「女という病」新潮社、2005
内田 樹「女は何を欲望するか?」 角川ONEテーマ21新書 2008
三砂ちづる「オニババ化する女たち」光文社、 2004
大塚英志「「彼女たち」 の連合赤軍」角川文庫、2001
鹿野政直「現代日本女性史」 有斐閣、2004
ジャネット・エンジェル「コールガール」筑摩書房、 2006
ダナ・ハラウエイ「サイボーグ・フェミニズム」 水声社 2001
山崎朋子「サンダカン八番娼館」筑摩書房、 1972
水田珠枝「女性解放思想史」筑摩書房、1979
フラン・P・ホスケン「女子割礼」明石書 店、1993
細井和喜蔵「女工哀史」岩波文庫、 1980
サラ・ブラッファー・フルディ「女性は進化しなかったか」 思索社、1982
赤松良子「新版 女性の権利」岩波書 店、2005
マリリン・ウォーリング「新フェミニスト 経済学」東洋経済新報社、1994
ジョーン・W・スコット「ジェンダーと歴史学」 平凡社、1992
清水ちなみ&OL委員会編「史上最低 元カレ コンテスト」幻冬舎文庫、2002
モリー・マーティン「素敵なヘルメット」 現代書館、1992
R・J・スミス、E・R・ウイスウェル「須恵村の女たち」お茶の 水書房、1987
荻野美穂「中絶論争とアメリカ社 会」岩波書店、2001
山口みずか「独身女性の性交哲学」 二見書房、2007
田嶋雅巳「炭坑美人」築地書館、 2000
ヘンリク・イプセン「人形の家」角川文庫、 1952
スーザン・ファルーディー「バックラッシュ」新潮社、 1994
杉本鉞子「武士の娘」ちくま文庫、 1994
ジョンソン桜井もよ「ミリタリー・ワイフの生活」 中公新書ラクレ、2009
斉藤美奈子「モダンガール論」文春文 庫、2003
光畑由佳「働くママが日 本を救う!」マイコミ新書、2009
エリオット・レイトン「親を殺した子供たち」 草思社、1997
奥地圭子「学校は必要 か:子供の育つ場を求めて」日本放送協会、1992
フィリップ・アリエス「子供の誕生」みすず書房、1980
伊藤雅子「子どもから の自立 おとなの女が学ぶということ」未来社、1975
ジェシ・グリーン「男 だけの育児」飛鳥新社、2001
末包房子「専 業主婦が消える」同友館、1994
熊沢誠「女性労働 と企業社会」岩波新書、2000
ミレイユ・ラジェ「出産の社会史  まだ病院がなかったころ」勁草書房、1994
信田さよ子「母が重くてたまらない」春秋社、2008
匠雅音「核家族か ら単家族へ」丸善、1997
ミシェル・ペロー編「女性史は可能か」藤原書店、1992

「匠雅音の家族について本を読む」のトップにもどる