編著者の略歴− 1939年東京生まれ。早稲田大学文学部卒業。出版社勤務を経て、現在、美術、映画、音楽、都市論、華道、小説など幅広い分野で執筆活動に従事する。主な著書として、『アール・ヌーボーの世界』『モダン都市東京』(中公文庫)『都市の神話学』(フィルムアート社)『世紀末の街角』(中公新書)『一九二○年代の画家たち』(新潮選書)『ダイエットの歴史』『モダンダンスの歴史』(新書館)『スキャンダルの時代』(集英社新書)『カリフォルニア・オデッセイ』(全6巻、グリーンアロー出版社)『陰謀の世界史コンスピラシー・エイジを読む』『スパイの世界史』(文芸春秋)『モダン・デザイン全史』(美術出版社)『百貨店の博物史』(アーツ アンドクラフツ)『足が未来をつくる〈視覚の帝国〉から〈足の文化〉へ』(洋泉社・新書y)など多数。 同性愛について書かれた本書は、おそらくストレートの筆者によって書かれたと思われる。 そのため、当事者にありがちな自己正当化や強引な立証がなく、丁寧に事実を掘り起こしている。 しかし、同性愛という概念は、近代のものだと良いながら、ホモとゲイの違いを論じていない。 高齢男性と少年というあいだなら、同性愛は世界中にあった。 我が国にもあったし、もちろんギリシャの少年愛は有名である。 本書でも、語られない愛といいながら、語られたギリシャの少年愛から話を始めている。
古代ギリシャでは、12歳くらいから20歳くらいまでの若者を対象に、成人男性たちが肛門性交をした。 しかし、少年愛と呼ばれる男色は、男性同士の愛情関係だったので、きわめて精神の高いものだった。 たんに性的な快感を求めて行われたのではない。 妊娠がありえないので、肉体関係を関係を持続していくためには、他に理由が必要である。 反対に言うと、妊娠という人類にとっての必要事がないから、観念だけが関係性を保証することになった。 少年愛は男性間の文化を、世代を越えて伝えるための一種の教育だった。 学校などなかった時代、文化は人から人へと伝達された。 それは伝統芸能などを見ればわかるように、男性の身体伝いに伝達されたのだ。 だから、男色は男による男の教育だ、と言っても過言ではない。 この時代、男色は充分に語られるものだった。 キリスト教の台頭に従って、男色は神に背くものとして、徐々に社会の隅へと追いやられる。 近代への胎動を聞く頃になると、同性愛は禁止に向かうようになる。 暗黒の中世から輝けるルネサンスヘ、という歴史を私たちは習った。ルネサンスは人間の再生であるという。しかしルネサンスもまた光の部分だけでなく、影の部分を持つ。不寛容主義、抑圧、特に同性愛への攻撃は、中世よりもルネサンスにおいて強まってくる。1400年から1700年までの3世紀は、同性愛にとってはむしろ暗黒時代なのである。そこでは光と影があまりに複雑に交錯しているので、目がくらくらするほどだ。まばゆいような知的、芸術的文化の光の下で、それまでなかったほど多くの人々が排除され、処刑されている。 輝けるルネサンス都市ヴェネチアとフィレンツェでは、多くの人が同性愛で告発され、厳しい法律で裁かれている。たとえば、フィレンツェでは1432年から1502年までに2500人が(男色)の罪を問われた。この期間は、反同性愛の運動が最高潮だった時で、(夜の警察)という同性愛を取締る特別の警備隊が作られた。P94
つまり、当時は男色は特別な性癖ではなく、成人男性は誰もが少年を相手にしたのだ。 男性たちは女性にも手をだし、かつ少年にも手をだすのが、ふつうの行動だった。 相手が女性と少年で、セックスの相手として違いがなかったのだ。 夕べは女性、今夜は少年と、渡り歩いたのが、近代以前だった。 男性たるもの、挿入する、もしくは積極的に行動するのであれば、誰と性関係を結ぼうと、自意識は変わらなかった。 受け身になることは、男性らしくない行動だった。 男性が取るべき行動規範は、能動的・積極的であって、相手が女性か少年かは関係なかったのだ。 だから、こうも多くの男たちが、少年に手をだしたのだ。 少年愛は決して禁断の愛ではなかった。 近代に近づいてくると、対象の分析が始まった。 つまり自分という意識だけが問題だったのに対して、対象を分析する科学が芽生えてきたのだ。 そこでセックスの相手も、相手が女性か少年かが問われるようになった。 それまで、能動的であれば男性でありえたが、能動性が向かう先が女性か少年かで、違う問題として分類されてきた。 18世紀は(理性の世紀)といわれる。魔術的世界から近代的知性、科学が目覚めたといわれる。英国とオランダでは民主的で、政治的自由を持つ国家ができた。しかし、それとは逆に、同性愛への攻撃や差別はより厳しくなっていく。この矛盾が近代化の不思議だ。ある意味で、(同性愛)(ホモフォービア)は近代がつくったものだとさえいえるのである。P130 と筆者はいうが、近代の矛盾でも何でもない。 科学的知性が芽生えたので、女性とのセックスと少年とのセックスが、違うものとして捉えられるようになった。 それまではセックスだけがあり、同性愛という概念がなかった。 女性と少年は同じだったから、同性愛嫌いが発生しようがなかった。 そうした意味では、ジュディス・バトラーが「ジェンダー トラブル」で言うように、リンゴという言葉がなければ、リンゴは存在しないのだ。 500ページを超える大著の、148ページ以降は19世紀に当てられ、258ページ以降は20世紀に宛てられている。 「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で有名なM・ヴェーバーが登場したり、「アフリカ農場物語」を書いたフェミニストのオリーブ・シュライナーに触れたりと、いろいろと教えられる。 すでに周知になっているバレエ・リュスや、オックスブリッジの仲間、第2次世界大戦の影響など、じつに細かく調べている。 ナブラチロワの行動やハリウッドでの騒動なども、知ってはいても改めて読むと、なかなかに面白い。 渦中の人たちにとっては、大変だったろうが、エイズがゲイ達を鍛えたように、ゲイの哲学が鍛えられもしたのだ。 1986年、ニューヨークでゲイの市民権を認める法律がやっと通った。1987年、数十万のゲイの人たちがワシントンに行進した。「ネームズ・プロジェクト・キルト」というイベントが開かれた。エイズで亡くなった人たち2千人のパネルを持って行進したのである。ロック・ハドソン、ロイ・コーン、リベラーチェなどのパネルもあった。P500 ゲイ・パレードが華々しく行われる現代、ゲイの先人達の苦労が偲ばれる。 筆者も最後に言っているが、ゲイは性の問題だけではなく、人間関係をどう取り結ぶかという、ストレートに対しても、きわめて重要な問題をはらんでいるのだ。 (2011.1.25)
参考: 早川聞多「浮世絵春画と男色」 河出書房新社、1998 松倉すみ歩「ウリ専」英知出版、2006年 ポール・モネット「ボロウド・タイム 上・下」時空出版、1990 ジェシ・グリーン「男だけの育児」飛 鳥新社、2001 伊藤文学「薔薇ひらく日を 薔薇族と 共に歩んだ30年」河出書房新社、2001 モートン・ハント「ゲイ:新しき隣 人たち」河出書房新社、1982 リリアン・フェダマン「レスビアンの歴史」 筑摩書房、1996 尾辻かな子「カミングアウト」講談社、 2005 伏見憲明+野口勝三「「オカマ」は差別か」 ポット出版、2002 顧蓉、葛金芳「宦官」徳間文庫、2000 及 川健二「ゲイ パリ」長 崎出版、 2006 礫川全次「男色の民俗学」 批評社、2003 伊藤文学「薔薇ひらく日を」河出書房 新社、2001 リリアン・フェダマン「レスビアンの歴史」 筑摩書房、1996 稲垣足穂「少年愛の美学」河出 文庫、1986 ミシェル・フーコー「同性愛と生存の美学」 哲学書房、1987 プラトン「饗 宴」岩波文庫、1952 伏見憲明「ゲイという経験」ポット出 版、2002 東郷健「常識を越えて オカ マの道、70年」 ポット出版、2002 ギルバート・ハート「同性愛のカルチャー研究」 現代書館、2002 早川聞多「浮世絵春画と男色」 河出書房新社、1998 ジェシ・グリーン「男だけの育児」飛 鳥新社、2001 神坂次郎「縛られた巨人」 新潮文庫、1991 風間孝&河口和也「同性愛と異性愛」 岩波新書、2010 匠雅音「核家族か ら単家族へ」丸善、1997 井田真木子「同性愛者たち」文芸春秋、1994 編ロバート・オールドリッチ「同性愛の歴史」東洋書林、2009 ミッシェル・フーコー「快楽の活用」新潮社、1986 アラン プレイ「同性愛の社会史」彩流社、1993 河口和也「クイア・スタディーズ」岩波書店、2003 ジュディス・バトラー「ジェンダー トラブル」青土社、1999 デニス・アルトマン「ゲイ・アイデンティティ」岩波書店、2010 イヴ・コゾフスキー・セジウィック「クローゼットの認識論」青土社、1999 デニス・アルトマン「グローバル・セックス」岩波書店、2005 氏家幹人「武士道とエロス」講談社現代新書、1995 岩田準一「本朝男色考」原書房、2002 海野 弘「ホモセクシャルの世界史」文芸春秋、2005
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