編著者の略歴−1933年、ニューヨーク生まれ。1954年にコロンビア大学でB.A.を、1959年にハーヴァード大学でPh.D.を取得。ハーヴァード大学、カルフォルニア大学バークレー校、ジョンズ・ホプキンス大学で教えたあと、現在はスタンフォード大学、ジャクソン・イーライ・レイノルズ講座教授。著書に、The Jonsonian Masque(1965)、The Illusion of Power: political Theater in the English Renaissance(1975)のほか、Inigo Jones:The Theater of the Stuart Court(ロイ・ストロングとの共著、1973)がある。 1940年代の後半には、ニューヨークの男子高校で筆者自身が女装して演じていたが、1948年には男子生徒の女装が禁止されたことを実体験にもつ。 その体験から、舞台で少年が女装することに興味をもって、イギリスの演劇について書いたのが本書である。 どこの国でも、俳優というのは下等な職業だった。 そうでありながら、女優というのは少なかった。 大陸諸国では女優が存在したが、イギリスでは少年に女装をさせていたという。 異性装の少年俳優をめぐって、筆者は性をめぐる認識のありかたを論じている。 200ページに満たない本書のうち、前半2/3が異性装の少年俳優に関して、後半1/3が男のような女たちをめぐって書かれている。
それでもゲイに関しての論考が、大量に上梓されるようになって以降の出版である。 1980年代はエイズで、ゲイたちが萎縮してしまって、論の対象が文学作品や舞台などに向かってしまった。 その嚆矢は、1985年に上梓されたセジウィックの「男同士の絆」であろう。 表現されたものは現実とワンクッションあるので、どうしても直接性が薄くなる。 いくら文学や舞台は現実社会の反映だと言っても、書かれたものは社会の一部を反映しているに過ぎず、現実社会だとは言いにくい。 そこでは、現実がそのまま論じられるのではなく、緑という言葉があるから森は緑なのだといった展開になりやすい。 本書も同じような論旨で展開されている。 男性であるのは、男性的な服装を装うから、男性と認められるのだ、と筆者はいう。 そこから少年が女装して演じることの意味を解き明かそうとする。 たしかに性差の部分は、観念が支えているから、観念を論じるのは有効だろう。 しかし、観念は現実という支えを持っており、観念が観念だけで存在することはない。 男性という肉体があって、観念としての男性性が生じているのだ。
いまさら言うべきことではないだろう。 少年と女性は、成人男性にとって同じような性愛の対象だった。 それはルネサンス期だけではなく、前近代をつうじて変わらぬ真実だった。 男色というホモは、いつの時代にもあった。 少年の肛門と女性器はともに同じ性欲の対象だった。 筆者がながながと少年の異性装を論じるのは、一体何が言いたかったのだろう。 筆者は微かにホモフォビアが、近代の産物だと言いたいようだ。 ホモとゲイを区別しない筆者には、前近代の少年愛が不思議で仕方ないようだ。 少年愛がふつうに見られた時代には、少年の肛門狙いが嫌われている証拠を発見できない。 むしろ男性たちは、女性を愛するように少年を愛してさえいた。 それが歴史的な事実だから、どうしてゲイフォビアが生まれたのか判らない。 少年を男性の一員としか筆者は考えない。 そのため、少年を愛好するルネサンス文化が不思議で仕方ないようだ。 成人男性にとって、少年は女性と同じ存在であり、少年は男性ではない。 この事実がどうしても理解できないようだ。 訳者によれば筆者はゲイだそうで、1985年当時はゲイたちの自己正当化の根拠を、歴史のなかに探して必死だったのだろう。 異性装や男っぽい女は、家父長制の不安の表現だという。 舞台を分析対象としているので、結局、観念のぐるぐる回りに終始している。 家父長制の不安が、異性装や男っぽい女を生みだしたとしても、家父長制はその後200年以上もビクともしなかった。 工業社会の終盤まで、家父長制は強化されさえすれ、弱体化することはなかった。 筆者自身がゲイであるため、少年を愛した男性を自分と同類と思いたいのだろう。 近代的な核家族はゲイフォビアを孕んでいたのであり、ホモフォビアではないことに注意すべきである。 結局、筆者の判っていないところは、ホモとゲイの区別が付いていないところである。 (2011.5.10)
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