匠雅音の家族についてのブックレビュー   性革命のアメリカ−ユートピアはどこに|筆者 亀井俊介

性革命のアメリカ
ユートピアはどこに
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筆者 亀井俊介(かめい しゅんすけ)  講談社 1989年 ¥1500−

編著者の略歴−1932年,岐阜県生れ。1955年,東京大学文学部英文科卒業。東京大学教授。専門はアメリカ文学,比較文学。著書『近代文学におけるホイットマンの運命』(日本学士院賞受賞)『サーカスが来た!−アメリカ大衆文化覚書』(日本エッセイストクラブ賞受賞)『摩天楼は荒野にそびえ−わがアメリカ文化誌』『アメリカのイヴたち』『ハックルべリー・フィンは,いま−アメリカ文化の夢』『ピューリタンの末裔たち−アメリカ文化と性』『マリリン・モンロー』のほか,『亀井俊介の仕事』(全5巻)など多数。
 25年も前に出版された本を、今さら取り上げるのも妙な感じである。
本サイトは現代から将来に向けて興味をもっており、過去を懐古する趣味はない。
しかし、右傾化がいわれる昨今、性革命が叫ばれた1970年代を振り返ってみるのも、あながち無益とは思えない。

 我が国では、家族は夫婦よりも親子を大切にしてきた。

農業が主な社会が長く続いたため、土地を媒介とする人間関係つまり地縁が大きな意味をもち、家の土地を守ることが各人の生きる道だった。
土地が大切であるといった事情は、当時のすべての人を拘束し、夫婦という横の関係よりも親子という縦の関係が大切にされてきた。

 近代の工業社会になると、工場は農業ほどには土地からの拘束を受けなくなった。
工場は土地の上に建設されたから、土地が不要になったというわけではない。
しかし、農業のように広大な土地がなくても、家族は裕福になれるようになった。
ここで親子という縦の関係の重要性が減ってきた。
戦後になると、親子間での長子相続を取らなくても、家が維持できるようになったのである。
 
 (アメリカにおける)「縁」は、「血縁」や「地縁」が寄り集まって守ってくれることが少なく、いかにも頼りない。だからこそアメリカでは恋愛を美化し、結婚を神聖祝し、あわせてそれに道徳的、宗教的な厳しい枠をはめてきた。ほかの言い方をすれば、完璧な「両性」関係がありうるという前提に立ち、その実現を要求することが、アメリカ人のモラルの中心をなしてきた。こうして、ピュアーな性関係を目指すアメリカのいわゆるピユーリタソ的な道徳は、たしかに聖書の教えに忠実に従おうという信仰にもとづくものではあったが、同時にストレンジャー社会の要求によってはぐくまれた部分が大きいように思われる。
 このピユーリタン道徳は、一夫一婦主義を世界に頼のないほど徹底させ、それからの逸脱を厳しくいましめてきた。P6


 終生にわたる一夫一婦主義で男女を縛り、一度結婚したら婚外のセックスはおろか、離婚も許さないというのは人間の本性に反している。
若い地代に愛しあって、一緒になっても一生変わらぬ愛情を貫くことは、必ずしもできることではない。
にもかかわらず、アメリカでは完璧な性関係が要求されてきた。

 男女関係を真面目に追求してきた結果、完璧な性関係に生きることは偽善ではないか、という動きが1950〜60年代に生まれてきた。
人は誰でも愛したい人を愛する自然の権利があるという、まさに性革命がおきたのである。

 我が国では性を興味半分で見ることが多く、性は粋とか野暮といった枠で捉えられがちである。
そのため、性そのものを議論の場に公開して、真摯に追求する傾向が薄い。
公開すること自体が野暮な行為とされるから、性は隠花植物のように扱われ、キンゼイ報告など生まれてこないのである。

 アメリカでは現状の道徳を守ろうとする人々と、現状の道徳を息苦しく感じる人々との間で、激しい葛藤がおきた。
たとえば、ポルノをめぐる争い。
なにが猥褻か。
また、女性の中絶の権利をめぐって、殺人事件にまで発展した。
ポルノに関しては、最高裁判所は表現の自由によって保証されるとした。
しかし、どこにでもポルノ・ショップがあるわけではない。
日本の週刊誌とは違って、ふつうの雑誌には女性の裸すら載っていないのが、アメリカの現状なのである。

 本書が書かれたのは1989年だから、70〜80年代の話が中心になっている。
その後の25年間には、また大きな動きがあったのだが、それでも性の本質は垣間見えている。
ハード・コア・ポルノが解禁されても、性の問題はむしろ深い未知の世界へと彷徨い込んでしまった。

 ハード・コア・ポルノ映画は、まさにハード・コアであるがゆえに、たちまち一つの行きづまりに達したように私には思われる。このことは、まず素朴なレベルでは、性器も性交もかくすところなく描いてしまうと、もうその先に何もない、という形であらわれる。だからソフト・コアの方がよい、日本的なチラリズムの方が情緒がある、といった議論はここから生まれる。
 だが、もっと重要な問題は、セックスは確かに実在なのだが、それだけでは存在しえないということであろう。それは人間全体の営みの中にあって、はじめて生命をもつものなのだ。しかもその人間が社会的な存在であることは、否定しえない事実である。ところがポルノ映画は、その社会のモラルを無視して発達してきた。真の行きづまりはそこから生じたと私は思う。P114

 ハード・コア・ポルノは性とセックスそのもを追求してきたが、セックスは人間存在の一部であり、決して人間存在や人間関係を無視しては考えることができないものだ。
しかし、性やセックスが個人に属するものである以上、社会的な規範によって拘束されるのも、自由を奪うことであり人間の解放を邪魔するものだ。

 自由は大衆が求めたものではない。
大衆は保守的であり、むしろ上級な階層がみせる裕福な生活に憧れている。
大衆は支配階級に迎合的すらある。
しかし、自由を求める人はいたし、今後もいるだろう。

 最後につけ加えておかなければならないのは、1960年代の中頃から70年代にかけてアメリカに起こった性革命と、大衆文化のこういう保守的性格との関係である。それはくわしい検討を必要とする。いまはただひとことだけ述べておけば、私は性革命をアメリカの文化革命と見るほどに重要視しているのであるが、それが一方で知識人やエリート階級、他方でさまざまな意味での少数派の主導によって推進された運動であることに注目させられる。性科学者、人間と表現の解放を求める芸術家、社会からの「ドロップ・アウト」を行なった学生、ヒッピーたち、それに平和運動、黒人運動、ウーマン・リブやゲイ・パワーの運動などが複雑にからまって、性革命を推し進めてきた。だが一般大衆がどこまで主導的な役割をになったかは、はなはだ疑問なのである。P148

 1968年を中心とした運動は、アメリカだけではなく世界を大きく揺すぶった。
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しかし、それはメインストリームから発したものではなかった。
ヒッピー、平和運動、黒人運動、ウーマン・リブやゲイ・ムーブメントなどといったものは、すべてメインストリームへのカウンターとして、少数派の異議申し立てだったのである。

 1950年代には世界で一番の繁栄を誇ったにもかかわらず、現代のアメリカは貧富の格差がひらき、国力は低下して生きている。
1968年から46年たった今、アメリカはますます混迷しているように見える。
自由を求めるエネルギーは枯渇してしまったのだろうか。

 本書は同時代の動きを真摯に記述しており、過ぎ去った25年を振りかえる良き手がかりを与えてくれた。
いつの時代も新しいものは品がなく、不様なものだ。
しかし、時代を切り拓く力は、上品なものの中にはないことも真実である。
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参考:
伊藤友宣「家庭という歪んだ宇宙」ちくま文庫、1998
永山翔子「家庭という名の収容所」PHP研究所、2000
H・J・アイゼンク「精神分析に別 れを告げよう:フロイト帝国の衰退と没落」批評社、1988
J・S・ミル「女性の解放」 岩波文庫、1957
イヴォンヌ・クニビレール、カトリーヌ・フーケ「母親の社会史」 筑摩書房、1994
江藤淳「成熟と 喪失:母の崩壊」河出書房、1967
田中美津「いのちの女たちへ」現代書 館、2001
末包房子「専業主婦が消える」 同友館、1994
梅棹忠夫「女と文明」中央公論社、 1988
ラファエラ・アンダーソン「愛ってめんどくさい」ソニー・マガジ ンズ、2002
まついなつき「愛はめんどくさい」メディアワー クス、2001
J・S・ミル「女性の解放」岩波文庫、 1957
ベティ・フリーダン「新しい女性の創造」 大和書房、1965
クロンハウゼン夫妻「完全なる女性」河出書 房、1966
松下竜一「風成(かざなし)の女たち」現 代思想社、1984
モリー・マーティン「素敵なヘルメット職 域を広げたアメリカ女性たち」現代書館、1992
小野清美「アンネナプキンの社会史」 宝島文庫、2000(宝島社、1992)
ジェーン・バートレット「「産まない」時代の女たち」 とびら社、2004
楠木ぽとす「産んではいけない!」新 潮文庫、2005
山下悦子「女を幸せにしない「男女共同参 画社会」 洋泉社、2006
小関智弘「おんなたちの町工場」 ちくま文庫、2001
エイレン・モーガン「女の由来」どうぶつ社、 1997
シンシア・S・スミス「女は結婚すべ きではない」中公文庫、2000
シェア・ハイト「女はなぜ出世できないか」 東洋経済新報社、2001
中村うさぎ「女という病」新潮社、2005
内田 樹「女は何を欲望するか?」 角川ONEテーマ21新書 2008
三砂ちづる「オニババ化する女たち」光文社、 2004
大塚英志「「彼女たち」 の連合赤軍」角川文庫、2001
鹿野政直「現代日本女性史」 有斐閣、2004
ジャネット・エンジェル「コールガール」筑摩書房、 2006
ダナ・ハラウエイ「サイボーグ・フェミニズム」 水声社 2001
山崎朋子「サンダカン八番娼館」筑摩書房、 1972
水田珠枝「女性解放思想史」筑摩書房、1979
フラン・P・ホスケン「女子割礼」明石書 店、1993
細井和喜蔵「女工哀史」岩波文庫、 1980
サラ・ブラッファー・フルディ「女性は進化しなかったか」 思索社、1982
赤松良子「新版 女性の権利」岩波書 店、2005
マリリン・ウォーリング「新フェミニスト 経済学」東洋経済新報社、1994
ジョーン・W・スコット「ジェンダーと歴史学」 平凡社、1992
清水ちなみ&OL委員会編「史上最低 元カレ コンテスト」幻冬舎文庫、2002
モリー・マーティン「素敵なヘルメット」 現代書館、1992
R・J・スミス、E・R・ウイスウェル「須恵村の女たち」お茶の 水書房、1987
荻野美穂「中絶論争とアメリカ社 会」岩波書店、2001
山口みずか「独身女性の性交哲学」 二見書房、2007
田嶋雅巳「炭坑美人」築地書館、 2000
ヘンリク・イプセン「人形の家」角川文庫、 1952
スーザン・ファルーディー「バックラッシュ」新潮社、 1994
杉本鉞子「武士の娘」ちくま文庫、 1994
ジョンソン桜井もよ「ミリタリー・ワイフの生活」 中公新書ラクレ、2009
斉藤美奈子「モダンガール論」文春文 庫、2003
光畑由佳「働くママが日 本を救う!」マイコミ新書、2009
エリオット・レイトン「親を殺した子供たち」 草思社、1997
奥地圭子「学校は必要 か:子供の育つ場を求めて」日本放送協会、1992
フィリップ・アリエス「子供の誕生」みすず書房、1980
伊藤雅子「子どもから の自立 おとなの女が学ぶということ」未来社、1975
ジェシ・グリーン「男 だけの育児」飛鳥新社、2001
末包房子「専 業主婦が消える」同友館、1994
熊沢誠「女性労働 と企業社会」岩波新書、2000
ミレイユ・ラジェ「出産の社会史  まだ病院がなかったころ」勁草書房、1994
信田さよ子「母が重くてたまらない」春秋社、2008
匠雅音「核家族か ら単家族へ」丸善、1997
ミシェル・ペロー編「女性史は可能か」藤原書店、1992
マリリン・ヤーロム「<妻>の歴史」慶應義塾大学出版部、2006
ジャーメン・グリア「去勢された女」ダイヤモンド社、1976
シモーヌ・ド・ボーボワール「第二の性」新潮文庫、1997
亀井俊介「性革命のアメリカ」講談社、1989

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