匠雅音の家族についてのブックレビュー   家のない少女たち|著者 鈴木大介

家のない少女たち
お奨度:

著者 鈴木大介  宝島社 2008年 ¥1300

著者の略歴−ルポライター、1973年千葉県生まれ。「犯罪する側の論理」「犯罪現場の貧困問題」をテーマに、 裏社会・触法少年少女らの生きる現場を中心とした取材活動を続ける。2015年脳梗塞で倒れる。その顛末を記した闘病記『脳が壊れた』を出版した。
  女子中高生たちが家出して、泊まる所を求めて彷徨った話が広まったのは、2000年頃からだろうか。 <神待ち>という言葉が、ネット上で見られるようになって久しい。2018年現在でも、そうした掲示板がネット上にはたくさんある。

 かつての子供たちだって、家は必ずしもパラダイスではなく、家から脱出したかったこともあった。むしろ昔の親の方が強権的で、 すぐに手を上げた親も少なくなかった。現代の親のほうが、はるかに物わかりが良く優しいはずである。 世の中を悪く見たいのはマスコミの常である。<神待ち>などという言葉が、いかにも家出少女の激増を想像させるが、数字の上では明らかに減っている。

 行方不明者と家出では違うかも知れないが、家出して2〜3日もすれば、捜索願が出されるはずだから行方不明者とは家出人と考えていいだろう。 事実、捜索願がでると1週間以内に、7割くらいが所在確認されている。1962年(昭和37)には、84、430人行方不明者のうち成人が44、834人で、未成年は39、596人だった。 それが2018年(平成28)には84、850人と総数はあまり変わらないが、成人が増えているが、未成年者は18、250人と半分以下になっている。

 殺人事件なども明らかに減っているのに、治安の悪化が声高に報道される。事実とは異なったマスコミ報道は、今に始まったことではないので、この傾向にはここでは論究しない。 <10代家出少女18人の壮絶な性と生>とサブタイトルがついた本書が、記しているのは壮絶な事例だからである。 親は子供が可愛いはずだ、可愛がるはずだ、という常識が通じない家族である。

家のない少女たち
 筆者は本書を上梓したあと、「家のない少年たち」という本も書いている。是非、両方とも読んでほしい。
というのは、少女と少年では、そのあり方がまったく違うのである。もちろん少女を性的な対象としてみる社会と、性的な対象にならない少年の違いもある。 同じように家庭からスポイルされながら、それ以上に女性である男性である存在自体が、彼等、彼女たちに異なった行動へと帰結させている。ということで、本書に従っていこう。

 家出する彼女たちだって、家出が望ましいものではないと知っているはずだ。そして、家を捨ててくれば、食べるものや寝る所を自分で確保しなければならない。 これは男女を問わないが、その実現方法が男女でまるで違うのである。

 少女たちは虐待や貧困の中から、街へと逃げ出すが、まさに弱者として生きるしかない。腕力も経済力も非力な彼女たちは、援交や買春の被害者として生きる。 しかし、被害者だからと救いの手を差し伸べると、助けはいらないとその手を振り払って、したたかに生きていく。彼女たちは補導されるのをきらって、 警察を非常に恐れている。補導されれば、もっとも嫌いで飛び出してきた家に引き戻されるからだ。

 服部雄一著「ひきこもりと家族トラウマ」でも書いたように、私も夫婦仲の悪い家が嫌で嫌で仕方なかった。1950年(昭和)頃にはネットもなかったし、 家出の方法も分からなかった。どこに行っても、たちまち家に通報された。田舎町から都会に出る術を知らなかった。 だから、遠方の中学に入って、家から離れたときは、ほんとうに自由になった気分だった。家に引き戻されるのが最悪という、彼女たちの心理はよくわかる。

 それにしても、気が重くなるような家庭環境だ。小学校に入る前から、とある少女は母親から虐待を受けていた。

 分単位の沈黙が続いた後、呟くような声で、独白は始まった。
「虐待は、すごかった。本当にお母さん、怖かった。まず朝起こされるでしょ?椅子が飛んできて、起きるんだよね。 おなかの上とかに落ちてきて、ウツてなって。そんなんが毎日。首締められて気絶して、気づいたらウンチもらしてて、 それでトイレに閉じ込められたり。あと台所に入ったらまな板で鼻潰されるぐらい殴られたり……」
「それ、何歳ぐらいの頃のこと?」
「小学校入る前。お母さん無職で、親の仕送りで暮らしてたからずっと家にいたの。それでウチは保育所も幼稚園も行かなかったから、 ずっと家じゃん? だから、ずっとガタガタ震えてた。無茶苦茶ヤバかったから」
 これだけ派手な虐待だけに、地元の児童相談所に通報したのは近くに住んでいた祖父だった。  P18

  その結果、児童養護施設へといくことになる。そして、小学校一年生から五年生までを児童養護施設で過ごすことになった。

 かつては親がいないので児童養護施設で育ったが、2006年現在では虐待から逃れての収容が6割を超えるという。 父親の恩は山より高い、母親の恩は海より深い等と言われたが、子供は親を選べない。 どんな親の元に生まれるかは、運としか言いようがない。親であることが愛情を保証しない。

 今、とある小学校で6年生たちと接しているが、みな普通の子供たちに見える。この子たちの家で、虐待が行われているとは感じられない。 虐めが話題になるが、目の前の子供たちの間でも、虐めや虐待が頻発しているのだろうか。そんな感じには見えない。 子供たちを見る限り普通である。家での虐待など外から分かるはずがない。だからこそ、親子関係の中で行われる虐待は、見えなく出口がなく子供がただ被害者になるだけだ。

 何時かは子供たちは親の元を離れて独立していく。だから元来が子供は、家出傾向を内包しているのかも知れない。 しかし、生理・精通が始まるまでは、決して成人ではない。誰かからの保護が必要なことはいうまでもない。 保護者とは親であることが多いから、愛着を持って養育すべきだろうが、本書に登場する親たちは育児機能が壊れてしまっているとしか思えない。

 本書を読んでいると、絶望感のようなやるせない感じに襲われる。まったくの無力感に襲われる。 家出した少年少女たちは、男性は暴力に、女性は売春にと、実に逞しく生きていく。筆者はまえがきで次のように言う。

 取材で見たのは、圧倒的不遇の中で、己の運命と闘い続ける少女たちの姿だ。彼女たちは、踏まれ、利用され、社会の生ゴミ扱いされ、それでも極めて力強く、逞しく、路上に生き抜いていた。P4

 十代からお金を稼がなければならないのは、非常に厳しい環境だが、その厳しい環境でも生きていかなければならない。 世の常識は家出少年や少女を親の元に返したがるが、愛着を示さない親の元に返して何になるのだろうか。おそらく虐待に戻るだけだろう。

 親が子供を育てるから、子供は親の支配下にいなければならない、という制度が間違いだろう。子供は社会の財産だ。 育てられない親からは親権を剥奪して、養親や里親、もしくは養護施設などで暮らせるようにすべきだ。家族を親たちの支配する砦のように見なして、 外の人たちは親に口出ししない。家庭内自治を大人たちは尊重し合い、子供を親の恣意的な扱いの元においている。家族はもっと社会に開かれるべきだ。

 ところで、本書と「家のない少年たち」を読んでいると、明らかにかつての非行とは違ってきたように感じる。経済格差が広がり、貧乏な家がふえた。 かつては貧困が犯罪を生むといわれてきたが、今日の貧困も落ちこぼれも、単に貧しいだけではないように感じる。

 かつては肉体労働が主だったから、身体が健康でありさえすれば、働くことは出来た。たとえば、少しIQが低くても、大工の下働きや使い走りなどの仕事があった。 彼等は低賃金だったかも知れないが、一人前の大工たちだって大した手間賃を稼いでいたわけではない。 両者の違いは大きくは違わなかった。しかし、今日では少しIQの低い人にやってもらう仕事がなくなってしまった。

 IQが低くても出来る仕事とは、肉体労働つまり女性なら売春、男性なら犯罪だろう。しかし、この世界も急速に序列が出来ていくことだろう。 売春は肉体労働だけれど、売春にも序列がある。たんに身体を売るだけでは、本当に安いお金しか支払ってもらえない。 女性の身体は誰でも同じ構造だから、精神的なサービスの多寡が女性の値段を決め、客を引きつけていく。単なる肉体をさらすだけでは貧乏から抜け出せない。

 売春が女性のセーフティネットとならなくなっているという。売春の単価が下がってしまい、身体を売っても生活できないようになりつつあるらしい。 おそらくこれは情報社会の労働のあり方の影響だろう。情報社会では頭脳労働に高い価値があり、肉体労働はどんどん切り下げられていく。 肉体労働を肉体労働だけでしか売らないと、それでは生活できないくらいまで低価格化していくに違いない。

 家のない少年・少女たちは、身体は健康で元気だろう。しかし、今後ますます知的な要求レベルが上がってくると、元気なだけでは稼げなくなるだろう。 生活保護は肉体労働優位の社会のものだ。今後は生活保護では対応できなくなるだろう。おそらくベーシック・インカムのような制度へと転じていかざるを得ないだろう。
(2018.10.5)  感想・ご意見・反論など、掲示板にどうぞ

参考:
伊藤友宣「家庭という歪んだ宇宙」ちくま文庫、1998
永山翔子「家庭という名の収容所」PHP研究所、2000
J・S・ミル「女性の解放」岩波文庫、1957
イヴォンヌ・クニビレール、カトリーヌ・フーケ「母親の社会史」筑摩書房、1994
田中美津「いのちの女たちへ」現代書館、2001
末包房子「専業主婦が消える」同友館、1994
梅棹忠夫「女と文明」中央公論社、1988
まついなつき「愛はめんどくさい」メディアワークス、2001
J・S・ミル「女性の解放」岩波文庫、1957
ベティ・フリーダン「新しい女性の創造」大和書房、1965
ジェーン・バートレット「「産まない」時代の女たち」とびら社、2004
楠木ぽとす「産んではいけない!」新潮文庫、2005
山下悦子「女を幸せにしない「男女共同参画社会」 洋泉社、2006
シンシア・S・スミス「女は結婚すべきではない」中公文庫、2000
シェア・ハイト「女はなぜ出世できないか」東洋経済新報社、2001
三砂ちづる「オニババ化する女たち」光文社、2004
鹿野政直「現代日本女性史」有斐閣、2004
ジャネット・エンジェル「コールガール」筑摩書房、2006
水田珠枝「女性解放思想史」筑摩書房、1979
細井和喜蔵「女工哀史」岩波文庫、1980
サラ・ブラッファー・フルディ「女性は進化しなかったか」思索社、1982
赤松良子「新版 女性の権利」岩波書店、2005
マリリン・ウォーリング「新フェミニスト経済学」東洋経済新報社、1994
ジョーン・W・スコット「ジェンダーと歴史学」平凡社、1992
モリー・マーティン「素敵なヘルメット」現代書館、1992
R・J・スミス、E・R・ウイスウェル「須恵村の女たち」お茶の水書房、1987
荻野美穂「中絶論争とアメリカ社会」岩波書店、2001
山口みずか「独身女性の性交哲学」二見書房、2007
ヘンリク・イプセン「人形の家」角川文庫、1952
スーザン・ファルーディー「バックラッシュ」新潮社、1994
斉藤美奈子「モダンガール論」文春文庫、2003
光畑由佳「働くママが日本を救う!」マイコミ新書、2009
奥地圭子「学校は必要か:子供の育つ場を求めて」日本放送協会、1992
フィリップ・アリエス「子供の誕生」みすず書房、1980
伊藤雅子「子どもからの自立 おとなの女が学ぶということ」未来社、1975
ジェシ・グリーン「男だけの育児」飛鳥新社、2001
熊沢誠「女性労働と企業社会」岩波新書、2000
ミレイユ・ラジェ「出産の社会史まだ病院がなかったころ」勁草書房、1994
信田さよ子「母が重くてたまらない」春秋社、2008
匠雅音「核家族から単家族へ」丸善、1997
ミシェル・ペロー編「女性史は可能か」藤原書店、1992
マリリン・ヤーロム「<妻>の歴史」慶應義塾大学出版部、2006
ジャーメン・グリア「去勢された女」ダイヤモンド社、1976
シモーヌ・ド・ボーボワール「第二の性」新潮文庫、1997
亀井俊介「性革命のアメリカ」講談社、1989
イーサン・ウォッターズ「クレージ・ライク・アメリカ」紀伊國屋書店、2013
岩村暢子「変わる家族、変わる食卓」中央公論新書、2009
中村淳彦「日本の風俗嬢」新潮新書、2014
紗倉まな「高専生だった私が出会った世界でたった一つの天職」宝島社、2015
鈴木大介「家のない少女たち」宝島社、2008  

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