匠雅音の家族についてのブックレビュー      母性愛という制度−子殺しと中絶のポリティックス|田間泰子

母性愛という制度
子殺しと中絶のポリティックス
お奨度:

著者:田間泰子(たま やすこ) 勁草書房、2001年 ¥2900−

著者の略歴−1956年大阪府生まれ。1990年京都大学大学院文学研究科博士課程修了。現在−大阪産業大学経済学部教授。専攻−社会学。著書−「少産化と家族政策」(井上俊他編『岩波講座現代社会学19〈家族〉の社会学』岩波書店、1997年)、「家族する」(伊藤公雄・牟田和恵編『ジェンダーで学ぶ社会学』世界思想社、1998年)、「堕胎と殺人のあいだ」(青木保他編『近代日本文化論6 犯罪と風俗』岩波書店、2000年)ほか

 「『近代家族』とボディ・ポリティックス」では丁寧な資料分析を示した筆者である。
今度は、新聞紙面をつかった分析であるが、本書では女性は弱者だ、虐げられてきた、というイデオロギーに縛られている。
そのため、最初に結論ありきの展開で、ひときわ強引さが目立つ。
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 本書に掲載された文章の多くが、1991〜4年あたりに書かれている。
1991年当時の筆者は、35歳だったことを考えれば、本書のようなトーンも仕方ないことかもしれない。
しかし、10年後の2001年になっても、そのまま上梓してしまうのは再考するべきだろう。

 筆者は母性や母性愛を問題にし、母性は女性の身体性と結びついているという。
女性の身体が、母性と結びついているというわけだ。
そして、母性が大事にされたり、あまり大切にされなくなったりと、歴史のなかでの評価を見る。
たしかに、母性や母性愛は、高められたり、下げたりしてきた。
しかし、どんな観念もそれ自体で、普及するのではない。

 母性を女性が担わされる背景には、大家族から近代の核家族への転換があった。
前近代の大家族は、家族が生産組織だった。
家では団欒などをするだけではなく、家族の全員が田や畑で働いて口を糊していた。
そこでは、女性も働き手だったから、女性にもそれなりの地位があった。
だから女言葉もなく、女性たちも自分のことを<わし>とか、<おれ>と言っていた。

 家が生産組織であっても、武士のように家禄制度に支えられていれば、家禄をとる人が大切にされた。
家禄は家につくもので、しかも男性だけしか跡取りとなれなければ、女性の地位は圧倒的に低いのは当然だった。
この点で、庶民たちの大家族とは大きく違った。
庶民たちの大家族は、女性も男性も働き手だった。
だから、女性はかんたんに離婚を選べたのだ。
江戸時代の離婚は、現在よりはるかに多かった。

 近代になると、農業から工業へと転じた。
そこで、農業に基盤をおいた大家族から、工業に適合的な核家族へと変化した。
この核家族こそ性別役割分担という、男が稼ぎ、女性が家事をするという家族制度だった。
男性は稼ぐことを宿命づけられると同時、女性は家事と子育てに専従させられたのだ。
ここで自分のことを<わたし>というように、女性特有の言葉が、女言葉として生まれてくる。

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 男も女もともに働き手、つまり稼ぎ手だった時代から、男性だけが稼ぎ手になったのだ。
女性が家庭の専従者となれば、そのイデオロギー的な支えが必要になる。
それが母性であり、母性愛だった。
母性愛という観念が女性の身体に、結びつけられたに過ぎない。
もともと支配のイデオロギーとは、時代にあわせて都合よく変わるものだ。

 支配のイデオロギーである、母性や母性愛の新聞紙上での扱いを、筆者は丁寧に調べている。
しかし、筆者の望む展開は、調べる前から自明である。
それを新聞紙上に求めても、あまり意味がない。
筆者は、1970年代が、母性愛の転換点だったという。
しかし、1970年代こそ、我が国が高度成長の果実を、収穫しはじめた時期である。
とすれば、ますます性別役割分業が徹底したとしても、まったく不思議ではない。

 筆者は、女性差別の例証として、次の例を挙げる。

 政府の福祉対策の遅れ、公害や住宅対策の悪さ、そして特に60年代から人々が切望してきたピル(避妊用経口薬)やIUD (避妊用子宮内用具)への政府の禁止的態度が問題だ、という政府批判に転じ得る。中絶の正当性は、「社会問題の解決が先」(朝日新聞1973年5月2日3面)、と政府の政策の欠陥に論拠することとなり、(産めない現実だからしかたがない)行動とされた。「経済的理由」による中絶を非合法化しょうとする優生保護法改正運動は、逆説的に、「経済的理由」からの中絶がいまだ人々にとってなくてはならぬ正当性を有することを公認させる結果となったのである。P133

と言うが、ピルやIUDなど、我が国の女性たちは切望していなかった。
1972年になっても、ピルを要求した中ピ連は、女性たちのなかで一貫して孤立していた。
そして、松本彩子が「ピ ルはなぜ歓迎されないのか」で描くように、現在になっても、我が国の女性たちは、ピルやIUDなど求めていない。

 母性を女性に結びつけることによって、男性が免責されるというが、性別役割分業がもともとそうしたものだ。
男性は子育てから免責されるが、稼ぐことからは免責されない。
だから、問題にすべきは、性別役割分業にもとづく核家族制度であり、男女の質的な不平等性なのだ。

 母性を女性に「自然」な生物学的所与とすることによって、男性たち(父親たち)は免責されてしまう。したがって、子捨て・子殺し・中絶に関わる言説が抽象的なレベルにおいて父を排除し、母子という閉鎖的言説空間を構築するものとなつたのは、喪失のレトリックの政治的特質である。男性たち(父親たち)は、レトリックの語り手(構築者)であったからこそ物語の中には登場しなかったのだ。P183

といえば、男性の稼ぎ部分を評価しないことになってしまう。
筆者が男性の免責だけを問題視するのは、変だという結論しかでない。
近代の男女差別そのものを考えるべきだ。

 若かった筆者は、表象とかヴァナキュラーとか、未消化な単語をたやすく使いすぎである。
また、ジェンダーという言葉ですべてを説明したつもりだが、今でもジェンダーという言葉は多義的である。
ましてや、1990年代には、定義が明確な言葉ではなかった。
筆者は特有の言葉に酔っており、何が言いたいか自分でもよく判らないようだ。
もっと平明な言葉を使うべきである。

 筆者は<あとがき>で、編集者の町田民世子さんに感謝している。
しかし、町田さんの担当した本には、男性社会への抜きがたい偏見を感じる。
偏見が先行しているので、書かれている中身が信用できなくなってしまう。 
  (2010.6.25) 
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参考:
芹沢俊介「母という暴力」春秋 社、2001
イヴォンヌ・クニビレール、カトリーヌ・フーケ「母親の社会史」 筑摩書房、1994
末包房子「専業主婦が消える」同友館、1994
下田治美「ぼ くんち熱血母主家庭 痛快子育て記」講談社文庫、1993
須藤健一「母系社会の構造:サンゴ礁の島々の民族誌」紀伊国屋書店、1989
エリザベート・パダンテール「母性という神話」筑摩書 房、1991
斉藤環「母は娘の人生を支配 する」日本放送出版協会、2008
ナンシー・チョドロウ「母親業の再生産」 新曜社、1981
石原里紗「ふざける な専業主婦」新潮文庫、2001
石川結貴「モンスター  マザー」光文社、2007

イヴォンヌ・クニビレール、カトリーヌ・フーケ「母親の社会史」 筑摩書房、1994
江藤淳「成熟と 喪失:母の崩壊」河出書房、1967
スアド「生きながら火に焼かれて」(株) ソニー・マガジンズ、2004
田中美津「いのちの女たちへ」現代書 館、2001
梅棹忠夫「女と文明」中央公論社、 1988
ラファエラ・アンダーソン「愛ってめんどくさい」ソニー・マガジ ンズ、2002
まついなつき「愛はめんどくさい」メディアワー クス、2001
J・S・ミル「女性の解放」岩波文庫、 1957
ベティ・フリーダン「新しい女性の創造」 大和書房、1965
クロンハウゼン夫妻「完全なる女性」河出書 房、1966
松下竜一「風成(かざなし)の女たち」現 代思想社、1984
モリー・マーティン「素敵なヘルメット職 域を広げたアメリカ女性たち」現代書館、1992
小野清美「アンネナプキンの社会史」 宝島文庫、2000(宝島社、1992)
熊沢誠「女性労働 と企業社会」岩波新書、2000
ジェーン・バートレット「「産まない」時代の女たち」 とびら社、2004
楠木ぽとす「産んではいけない!」新 潮文庫、2005
山下悦子「女を幸せにしない「男女共同参 画社会」 洋泉社、2006
小関智弘「おんなたちの町工場」 ちくま文庫、2001
エイレン・モーガン「女の由来」どうぶつ社、 1997
シンシア・S・スミス「女は結婚すべ きではない」中公文庫、2000
シェア・ハイト「女はなぜ出世できないか」 東洋経済新報社、2001
中村うさぎ「女という病」新潮社、2005
内田 樹「女は何を欲望するか?」 角川ONEテーマ21新書 2008
三砂ちづる「オニババ化する女たち」光文社、 2004
大塚英志「「彼女たち」 の連合赤軍」角川文庫、2001
鹿野政直「現代日本女性史」 有斐閣、2004
片野真佐子「皇后の近代」講談社、 2003
中尾靖之「母系家族のすすめ:中尾靖之」東京図書、2004
ジャネット・エンジェル「コールガール」筑摩書房、 2006
ダナ・ハラウエイ「サイボーグ・フェミニズム」 水声社 2001
山崎朋子「サンダカン八番娼館」筑摩書房、 1972
水田珠枝「女性解放思想史」筑摩書房、1979
フラン・P・ホスケン「女子割礼」明石書 店、1993
細井和喜蔵「女工哀史」岩波文庫、 1980
サラ・ブラッファー・フルディ「女性は進化しなかったか」 思索社、1982
赤松良子「新版 女性の権利」岩波書 店、2005
マリリン・ウォーリング「新フェミニスト 経済学」東洋経済新報社、1994
ジョーン・W・スコット「ジェンダーと歴史学」 平凡社、1992
清水ちなみ&OL委員会編「史上最低 元カレ コンテスト」幻冬舎文庫、2002
R・J・スミス、E・R・ウイスウェル「須恵村の女たち」お茶の 水書房、1987
荻野美穂「中絶論争とアメリカ社 会」岩波書店、2001
山口みずか「独身女性の性交哲学」 二見書房、2007
田嶋雅巳「炭坑美人」築地書館、 2000
田間泰子「母性愛という制度」勁草書房、2001
ヘンリク・イプセン「人形の家」角川文庫、 1952
井上章一「美人論」朝日文芸文庫、 1995
ウルフ・ナオミ「美の陰謀」TBSブリタニ カ、1994
杉本鉞子「武士の娘」ちくま文庫、 1994
斉藤美奈子「モダンガール論」文春文 庫、2003
光畑由佳「働くママが日 本を救う!」マイコミ新書、2009
エリオット・レイトン「親を殺した子供たち」 草思社、1997
奥地圭子「学校は必要 か:子供の育つ場を求めて」日本放送協会、1992
フィリップ・アリエス「子供の誕生」みすず書房、1980
伊藤雅子「子どもから の自立 おとなの女が学ぶということ」未来社、1975
ジェシ・グリーン「男 だけの育児」飛鳥新社、2001
熊沢誠「女性労働 と企業社会」岩波新書、2000
ミレイユ・ラジェ「出産の社会史  まだ病院がなかったころ」勁草書房、1994
匠雅音「核家族から単家族へ」丸善、1997

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