編著者の略歴−埼玉県生まれ、性社会史研究者、国際日本文化研究センター共同研究員、早稲田大学ジェンダー研究所客員研究員、多摩大学非常勤講師、専門は日本におけるジェンダー&セクシユアリティの歴史、とりわけ、トランスジェンダー(性別越境)の社会・文化史。2005年には、お茶の水女子大学で、日本初の「トランスジェンダー論」の専論講座を担当。共著に『性の用語周」(講談社現代新書)、『戦後日本女装・同性愛研究』(中央大学出版部)など。趣味は「怪しい」着物。 女装とは、女性の格好をすることだ。 しかし、女性が女性の格好をしても、女装とはいわない。 男性が女性の格好をした場合に女装といい、その男性を女装者というらしい。 また最近は、若い女性がことさら女っぽい格好をするときにも、女装というらしい。 本書は7章立てになっているが、内容的には3部にわかれている。 まず、古代から中世といった大昔の女装をさぐる。 ここでは、男性かつ女性といった双性が語られる。 次には、近世つまり江戸時代の女装である。 これは当然に歌舞伎が登場してくる。 そして、明治以降から現代が、一番大きなボリュームで展開される。
筆者自身の立場は、身体的な加工はしない女装者だ、という位置づけである。 つまり、性同一性障害ではなく、性別越境者だというのだ。 これは判りにくい自己規定である。身体的には完全な男性で、結婚もしており子供もいる。 しかし、女装している。 できれば24時間女装で暮らしたいらしい。 それなら性差越境者ではないだろうか。 身体的な加工をしないというのは、男性器をとって造膣手術をしていないという意味である。 しかし、ホルモン注射で、人工的な豊胸は施しているらしい。 ホルモン注射だけなら、いつでも女性のように豊かな胸から、男性的な胸に戻れるらしい。 手術をしてしまうと、戻れなくなるので、外科的なメスは使っていないということだろう。 中世の話。 筆者によれば、稚児というのは女装の少年だったという。 12〜6歳くらいの少年で、彼等が女装をして女性として、社会的に振るまったという。 そのため、僧侶たちから男色を行う相手とされ、肛門を男性に差しだしていた。 筆者は女性のメンタリティとして行動していたという。 本サイトでは、ホモとゲイは違うものだという立場だから、筆者の意見には賛成できない。 女性のような服装であっても、あくまで男性のメンタリティであり、ホモ行為は男性間の性行為だと思う。 かつては成人男性が、女性と少年を区別せずに、性的な行為をしていた。 つまり、挿入することにおいて、相手を社会的な劣位者として見ており、女性と少年の区別をしていなかったと考える。
ただ、僧侶は女犯が禁止されているから、少年だけを相手にしたに過ぎない。 ホモが許されていた時代とは、すべての男性が女性も若年男性をも、性的な行為の相手にできた。 若年男性を相手にしなかった男性がいたとすれば、それは単に個人的な好みの問題だった。 筆者は性別越境者だというが、性同一性障害であっても事情は変わらない。 男性とか女性といった性別を、対称的なものと考えている。 だから、男性が女性になったり、女性が男性になったりすると考えている。 しかし、かつては、男女間には質的な違いがあった。 男性が優位者で、女性が劣位者だった。 かつては男性である意識はまったく変わらずに、相手にするほうを女性と若年男性と変えたに過ぎない。 若年男性は女性と同様に劣位者だったから、成人男性は女性と若年男性とのあいだを、性的に行き来できたのだ。 しかし、成人男性自身が、女性になるというと事情はまったく違う。 優位者である男性が、劣位者である女性になることは、そうとうに抵抗があったはずである。 自分が性別を越境するということは、男性とか女性といった性別概念を強固にすることだ。 男性の定義や女性の定義が、違うものとしてはっきりしているから、性別をこえるという発想が成り立つのだ。 筆者は自分の性別の問題と、相手の性別の問題をごっちゃにして、論じているように感じる。 筆者は「戦後日本女装・同性愛研究」で、次のように語っている。 女装客と男性客であっても,表の(昼の)世界においては社会的立場を同じくする(象徴的に言えばYシャツ+ネクタイ族である)という同族意識であり,表の「ノーマルな」社会においてはその「ノーマルな」構成員であるという共同意識である。 この共同意識が虚構性の根底に存在し,それに立脚しているが故に,女装客と男性客とは相互に安心して擬似ヘテロセクシュアルな虚構世界を共演することができるのである。P385 ずいぶんと差別的な発言である。 性別越境といいながら、男性とか女性というのではない。 <表の「ノーマルな」社会>の所属員、つまり男性という支配的な性別であると語っているようだ。 背広姿のノーマルな世界には、職人とか劣位におかれた職業の人間は入り込めない。 とすれば、芸能に生きた賤民が、春を売ったことが説明できないだろう。 遊びというのものは豊かな人間のものだ、といってしまえばそれまでだが、自分の性別を移動させて優位に立とうとしているようだ。 あたかも<負け犬>が、けっして負けていないような居直りを感じる。 自分の女装趣味を、時代に合わせて正当化していると言ったら、言い過ぎであろうか。 近代以降の性別の管理強化にかんしては、ほぼ納得である。 江戸時代に高度に発達した「男色文化」は、幕末の天保の改革(1841〜43)による陰間茶屋の廃止で大きな打撃を受けました。しかしそれは、奢侈・遊興全般の禁制の一部としてであって、異性装や肛門性交を重要な要素とする「男色文化」そのものを禁じるものではありませんでした。それに対して、明治新政府が定めた違式_違条例の異性装禁止条項や鶏姦律は、異性装や肛門性交そのものを法的に禁止したもので、その意味合いはまったく異なり、男色文化により大きな影響を与えたことはまちがいありません。 これを端緒に、近代化(西欧化)の過程で、さまざまな形で性別越境的な人々への社会的規制・抑圧が進み、性別越境者たちの存在とその文化は、アンダーグラウンド化していくことになります。P140 これは当然のことで、近代が男女の差別を明確化し、核家族を制度化していった。 その反映として、男性もしくは女性に区分されない存在を、法的に認めなくなっていった。 それは男性にしか職業が用意できなかった近代からの要請だったのだ。 表の「ノーマルな」社会から排除されたのは、なにも性別越境者だけではない。 女性も職人も、非主流に分類されたのだ。 後半の現代部分になると、水商売にかかわった筆者の私生活を書いている。 知らないことが多かったので、これはこれで、なかなか興味深かった。 しかし、男性とか女性とかにこだわる姿勢は、やはりきわめて保守的な心性ではないだろうか。 女装すると心安らぐというが、むしろ性別から自由になる方向を好ましく思う。 性転換手術をともなう性同一性障害については、ディアドラ・N・マクロスキー「性転換」、虎井ま さ衛「ある性転換者の記録」、吉永みち子「性同一性障害」、上川あや「変えて ゆく勇気」や杉山文野「ダブルハッピネス」を参照して欲しい。 (2010.10.27)
参考: 岡田秀子「反結婚論」亜紀書房、 1972 フランチェスコ・アルベローニ「エロティシズム」中央公論 1991 ジョルジュ・バタイユ「エロスの涙」ちくま学芸文庫、2001 佐藤哲郎「性器信仰の系譜」三一書房、1995 アンドレア・ドウォーキン「インターコース」青土社、1989 カミール・パーリア「セックス、アート、アメリカンカルチャー」河出書房新社、1995 シャノン・ベル「売春という思想」青弓社、2001 シャノン・ベル「セックスワーカーのカーニバル」第三書館、2000 アラン・コルバン「娼婦」藤原書店、1991 曽根ひろみ「娼婦と近世社会」吉川弘文館、2003 アレクサ・アルバート「公認売春宿」講談社、2002 バーン&ボニー・ブーロー「売春の社会史」筑摩書房、1991 編著:松永呉一「売る売らないはワタシが決める」ポット出版、2005 エレノア・ハーマン「王たちのセックス」KKベストセラーズ 2005 高橋 鐵「おとこごろし」河出文庫、1992 正保ひろみ「男の知らない女のセックス」河出文庫、2004 ロルフ・デーゲン「オルガスムスのウソ」文春文庫、2006 ロベール・ミュッシャンプレ「オルガスムの歴史」作品社、2006 菜摘ひかる「恋は肉色」光文社、2000 ヴィオレーヌ・ヴァノイエク「娼婦の歴史」原書房、1997 ジャン・スタンジエ「自慰」原書房、2001 ジュリー・ピークマン「庶民たちのセックス」KKベストセラーズ、2006 松園万亀雄「性の文脈」雄山閣、2003 ケイト・ミレット「性の政治学」ドメス出版、1985 謝国権「性生活の知恵」池田書店、1960 山村不二夫「性技−実践講座」河出文庫、1999 ディアドラ・N・マクロスキー「性転換」文春文庫、2001 赤川学「性への自由/性からの自由」青弓社、1996 佐藤哲郎「性器信仰の系譜」三一書房、1996 ウィルヘルム・ライヒ「性と文化の革命」勁草書房、1969 田中貴子「性愛の日本中世」ちくま学芸文庫 2004 ロビン・ベイカー「セックス・イン・ザ・フューチャー」紀伊國屋書店、2000 酒井あゆみ「セックス・エリート」幻冬舎、2005 大橋希「セックス・レスキュー」新潮文庫、2006 アンナ・アルテール、ベリーヌ・シェルシェーヴ「体位の文化史」作品社、2006 石川弘義、斉藤茂男、我妻洋「日本人の性」文芸春秋社、1984 石川武志「ヒジュラ」青弓社、1995 村上弘義「真夜中の裏文化」文芸社、2008 赤松啓介「夜這いの民俗学」明石書店、1994 岩永文夫「フーゾク進化論」平凡社新書、2009 ビルギット・アダム「性病の世界史」草思社、2003 メイカ ルー「バイアグラ時代」作品社、2009 イヴ・エンスラー「ヴァギナ・モノローグ」白水社、2002 橋本秀雄「男でも女でもない性」青弓社、1998 エヴァ・C・クールズ「ファロスの王国」岩波書店、1989 岸田秀「性的唯幻論序説」文春文庫、1999 能町みね子「オカマだけどOLやってます」文春文庫、2009 レオノア・ティーフアー「セックスは自然な行為か?」新水社、1988 井上章一「パンツが見える」朝日新聞社、2005 吉永みち子「性同一性障害」集英社新書、2000 三橋順子「女装と日本人」講談社現代新書、2008
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