編著者の略歴−1926年ウィーンに生まれる。フローレンス大学とローマ大学で自然科学、ローマ・グレゴリオ大学で神学と哲学を学び、さらにザルツブルグ大学で歴史学の博士号を得る。1973年よりメキシコ国際文化資料センターを創設、現代産業文明への鋭い警告と挑戦を行なっている。 1982年に「シャドー・ワーク」が出版されたときは、筆者はフェミニズム陣営から脚光を浴びた。 しかし、本書が出版されると、たちまち人気が落ちてしまった。 冒頭で、筆者は日本語版へのジェンダー論の追加を書くのは難しいと、書くことを拒否している。 筆者が本書で扱っているのは、<西欧>の事象であり、日本とは事情が違うと考えている。 このスタンスは、なかなかに真摯なものだ。 だから、<ジェンダーの崩壊>も日本では異なっているだろう、という。
現在では、ジェンダーという言葉を、性差=社会的に形成された性別という意味で使っている。 しかし、筆者によると、<ジェンダーの崩壊>という言葉でも判るように、ちょっと違う意味をもたせているようだ。 ジェンダーというのは、セックスとは異なるだけでなく、はるかにそれ以上のものなのである。ジェンダーは、二つの場所〔初期の草稿では「場所と時代」となっていた〕に同じものはありえないという根源的な社会的両極性を指している。(中略)<文化>は、<振舞い>と同じく、プエルトリコ人<というもの>が研究対象となったときに用いられる典型的な術語である。ソーシァル・ワーカーは、<彼>の扱い方に苦心する。だが、ヴァナキュラーな文化の各側面の内部にある微妙な二元的ニュアンスは無視され混同され、数千年の伝統は冒涜されている。ニューヨークの教師はプエルトリコ人の<児童>の力になろうとつとめるが、男性教師も女性教師も、児童期の出現がジェンダーの喪失にほかならないということを認識していない。 P142 筆者は、ジェンダーについて明確な定義を与えていない。 しかし、現代のフェミニズムでは、ジェンダーこそが止揚されるべき差別の根源というか、差別究明の鍵だと考えられている。 それに対して、筆者は近代化によって、ジェンダーは崩壊したという。 伝統的社会にあっては、仕事の中味が地域性=ヴァナキュラーな文化によって決定されており、男女ともにそれに従って生きていた。 筆者にしたがえば、ヴァナキュラーな文化によって決定された性別にしたがった役割を、ジェンダーと呼んでいるようなのだ。 だから、近代資本主義が商品経済を普及させ、地域の壁を壊していくにつれ、ジェンダーは崩壊していくことになる。 皮肉なことに、ジェンダーが崩壊したから、男女差別はますます過酷になったという。 これは通常使われるジェンダーとは違うだろう。 我が国のフェミストたちは資本主義社会になっても、ジェンダーは崩壊していないし、社会の変化にしたがって変質するに過ぎないと考えているはずである。
普通女性を全体としてとらえてみると、女性が、性を理由に経済的に差別する労働人口のなかにおとなしく組みこまれていった一連の出来ごとにすぎないのである。現在、大学卒の女性の終身所得の中央値は、上級学位を得た者でも、これまでと同じく高校中退の男性のそれに匹敵するにすぎない。P45 どの国を見ても、経済の発展に比例して差別と暴力が拡大しているし、また金銭での稼ぎが増大するなかで女性の稼ぎは減少しており、レイプされる女性の数がふえている[20セクシスト・レイプ]。そのような不正がこんなにも長く無視されてきたということはめったになかった。それどころか、この10年間というもの、それは独善的にも是認されてきているのだ。P48 といった事実認識からか、筆者は商品経済を否定し、伝統的な共同体経済への復古を匂わせている。 公害の拡大や、差別の激化は、資本主義の進展に不可避だというのだ。 だから、農村共同体が人間の住むべきユートピアという結論になっていく。 筆者の展開する論理は、とても採用できない。 しかし、筆者の指摘で肯定できる点が、1つある。 それは近代化に伴って、男女差別が拡大したという指摘である。 本サイトも近代化は、男女差別を拡大したと考えている。 ただし、だから前近代へと戻ろうとは考えない。 近代に入って、確かに男女差別は拡大した。 しかし、近代社会は前近代社会より豊かになった。 そのため、女性の物質的な環境は、前近代よりはるかに改善された。 たとえば、出産時の産婦死亡率は劇的に低下した。 女性の寿命の伸びは男性のそれをはるかに上回っている。 もちろん女性の収入も増えた。 だから、女性の生きる環境は良くなった。 にもかかわらず男女差別は拡大した。 事実はこうだ。 近代にはいると家族が生産単位ではなくなり、男女のすべてが結婚するようになった。 男性が家族の外で稼ぎ、女性は家族にとどまった。 そして、家族は裕福になった。 その結果、男女ともに豊かになったから、前近代より女性も恵まれた環境になった。 無給の女性を置き去りにして、男性の稼ぎは大きく伸びた。 男女ともに環境が改善され、豊かになったが、女性より男性のほうが近代化がもたらした恩恵をたくさん受けた。 そのため、全体は上昇していながら、男女差は拡大したのだ。 男女差の拡大とは、社会的に見れば、男女差別の拡大だったのだ。 女性が専業主婦として家庭に閉じこめられて稼ぎが奪われ、女性の地位は男性から命令されるものになった。 1911年にオリーヴ・シュナイダーが、近代化は女性を<性的寄生虫>にしたという言葉を引用している。 近代化は女性から稼ぎを奪ったのは間違いない。 本書が書かれたのは、1982年である。 この頃までは、女性は専業主婦が多かった。 だから女性の賃金は男性の60%くらいだった。 しかし、現代ではアメリカでは専業主婦はいなくなり、女性の賃金は90%くらいになっている。 今後もっと接近するだろう。 これからの差別の分割線は、男女という性別によって敷かれるのではなく、個人的な能力に従うことになるだろう。 筆者とは指向する方向こそ違うが、時代認識において読むべき本だろう。 少なくとも、我が国の大学フェミニストの書く本より、はるかに教えられることが多い。 「シャドー・ワーク」と共に読むと、筆者の主張が判りやすい。 (2011.2.14)
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