匠雅音の家族についてのブックレビュー   性を装う|スティーヴン・オーゲル

性を装う
シェイクスピア・異性装・ジェンダー
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筆者 スティーヴン・オーゲル 名古屋大学出版会 1999年 ¥3600−

編著者の略歴−1933年、ニューヨーク生まれ。1954年にコロンビア大学でB.A.を、1959年にハーヴァード大学でPh.D.を取得。ハーヴァード大学、カルフォルニア大学バークレー校、ジョンズ・ホプキンス大学で教えたあと、現在はスタンフォード大学、ジャクソン・イーライ・レイノルズ講座教授。著書に、The Jonsonian Masque(1965)、The Illusion of Power: political Theater in the English Renaissance(1975)のほか、Inigo Jones:The Theater of the Stuart Court(ロイ・ストロングとの共著、1973)がある。

 1940年代の後半には、ニューヨークの男子高校で筆者自身が女装して演じていたが、1948年には男子生徒の女装が禁止されたことを実体験にもつ。
その体験から、舞台で少年が女装することに興味をもって、イギリスの演劇について書いたのが本書である。

 どこの国でも、俳優というのは下等な職業だった。
そうでありながら、女優というのは少なかった。
大陸諸国では女優が存在したが、イギリスでは少年に女装をさせていたという。
異性装の少年俳優をめぐって、筆者は性をめぐる認識のありかたを論じている。
200ページに満たない本書のうち、前半2/3が異性装の少年俳優に関して、後半1/3が男のような女たちをめぐって書かれている。
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 原著は1996年に上梓されているので、最近の著作ではない。
それでもゲイに関しての論考が、大量に上梓されるようになって以降の出版である。
1980年代はエイズで、ゲイたちが萎縮してしまって、論の対象が文学作品や舞台などに向かってしまった。
その嚆矢は、1985年に上梓されたセジウィックの「男同士の絆」であろう。

 表現されたものは現実とワンクッションあるので、どうしても直接性が薄くなる。
いくら文学や舞台は現実社会の反映だと言っても、書かれたものは社会の一部を反映しているに過ぎず、現実社会だとは言いにくい。
そこでは、現実がそのまま論じられるのではなく、緑という言葉があるから森は緑なのだといった展開になりやすい。
本書も同じような論旨で展開されている。

 男性であるのは、男性的な服装を装うから、男性と認められるのだ、と筆者はいう。
そこから少年が女装して演じることの意味を解き明かそうとする。
たしかに性差の部分は、観念が支えているから、観念を論じるのは有効だろう。
しかし、観念は現実という支えを持っており、観念が観念だけで存在することはない。
男性という肉体があって、観念としての男性性が生じているのだ。
 
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 英国ルネサンス演劇では、なぜ少年俳優だけが女性を演じたのか? ルネサンスの人びとの目には、少年と女性のあいだの経済的類似は、もっと本質的な類似と重なっていた−少年は女性と同じように、しかし男性とはちがって、男性にとって公認の性的愛好の対象であった。これは、ルネサンス文化の伝統のうち、われわれが無視あるいは抑圧したいと思う部分である。P93

 いまさら言うべきことではないだろう。
少年と女性は、成人男性にとって同じような性愛の対象だった。
それはルネサンス期だけではなく、前近代をつうじて変わらぬ真実だった。
男色というホモは、いつの時代にもあった。
少年の肛門と女性器はともに同じ性欲の対象だった。
筆者がながながと少年の異性装を論じるのは、一体何が言いたかったのだろう。

 筆者は微かにホモフォビアが、近代の産物だと言いたいようだ。
ホモとゲイを区別しない筆者には、前近代の少年愛が不思議で仕方ないようだ。
少年愛がふつうに見られた時代には、少年の肛門狙いが嫌われている証拠を発見できない。
むしろ男性たちは、女性を愛するように少年を愛してさえいた。
それが歴史的な事実だから、どうしてゲイフォビアが生まれたのか判らない。

 少年を男性の一員としか筆者は考えない。
そのため、少年を愛好するルネサンス文化が不思議で仕方ないようだ。
成人男性にとって、少年は女性と同じ存在であり、少年は男性ではない。
この事実がどうしても理解できないようだ。
訳者によれば筆者はゲイだそうで、1985年当時はゲイたちの自己正当化の根拠を、歴史のなかに探して必死だったのだろう。

 異性装や男っぽい女は、家父長制の不安の表現だという。
舞台を分析対象としているので、結局、観念のぐるぐる回りに終始している。
家父長制の不安が、異性装や男っぽい女を生みだしたとしても、家父長制はその後200年以上もビクともしなかった。
工業社会の終盤まで、家父長制は強化されさえすれ、弱体化することはなかった。

 筆者自身がゲイであるため、少年を愛した男性を自分と同類と思いたいのだろう。
近代的な核家族はゲイフォビアを孕んでいたのであり、ホモフォビアではないことに注意すべきである。
結局、筆者の判っていないところは、ホモとゲイの区別が付いていないところである。
(2011.5.10)
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参考:
早川聞多「浮世絵春画と男色」 河出書房新社、1998
松倉すみ歩「ウリ専」英知出版、2006年
ポール・モネット「ボロウド・タイム  上・下」時空出版、1990
ジェシ・グリーン「男だけの育児」飛 鳥新社、2001
伊藤文学「薔薇ひらく日を 薔薇族と 共に歩んだ30年」河出書房新社、2001
モートン・ハント「ゲイ:新しき隣 人たち」河出書房新社、1982
リリアン・フェダマン「レスビアンの歴史」 筑摩書房、1996

尾辻かな子「カミングアウト」講談社、 2005
伏見憲明+野口勝三「「オカマ」は差別か」 ポット出版、2002
顧蓉、葛金芳「宦官」徳間文庫、2000
及 川健二「ゲイ パリ」長 崎出版、 2006
礫川全次「男色の民俗学」 批評社、2003
伊藤文学「薔薇ひらく日を」河出書房 新社、2001

リリアン・フェダマン「レスビアンの歴史」 筑摩書房、1996
稲垣足穂「少年愛の美学」河出 文庫、1986
ミシェル・フーコー「同性愛と生存の美学」 哲学書房、1987
プラトン「饗 宴」岩波文庫、1952
伏見憲明「ゲイという経験」ポット出 版、2002

東郷健「常識を越えて オカ マの道、70年」 ポット出版、2002
ギルバート・ハート「同性愛のカルチャー研究」 現代書館、2002
早川聞多「浮世絵春画と男色」 河出書房新社、1998
ジェシ・グリーン「男だけの育児」飛 鳥新社、2001
神坂次郎「縛られた巨人」 新潮文庫、1991
風間孝&河口和也「同性愛と異性愛」 岩波新書、2010
匠雅音「核家族か ら単家族へ」丸善、1997
井田真木子「同性愛者たち」文芸春秋、1994
編ロバート・オールドリッチ「同性愛の歴史」東洋書林、2009
ミッシェル・フーコー「快楽の活用」新潮社、1986
アラン プレイ「同性愛の社会史」彩流社、1993
河口和也「クイア・スタディーズ」岩波書店、2003
ジュディス・バトラー「ジェンダー トラブル」青土社、1999
デニス・アルトマン「ゲイ・アイデンティティ」岩波書店、2010
イヴ・コゾフスキー・セジウィック「クローゼットの認識論」青土社、1999
デニス・アルトマン「グローバル・セックス」岩波書店、2005
氏家幹人「武士道とエロス」講談社現代新書、1995
岩田準一「本朝男色考」原書房、2002
海野 弘「ホモセクシャルの世界史」文芸春秋、2005
キース・ヴィンセント、風間孝、河口和也「ゲイ・スタディーズ」青土社、1997
ギィー・オッカンガム「ホモ・セクシャルな欲望」学陽書房、1993
イヴ・コゾフスキー・セジウィック「男同士の絆」名古屋大学出版会、2001
スティーヴン・オーゲル「性を装う」名古屋大学出版会、1999

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