匠雅音の家族についてのブックレビュー   バイセクシュアルという生き方|フリッツ・クライン

バイセクシュアルという生き方 お奨度:

筆者 フリッツ・クライン(Fritz Kleln)    現代書館 1997年 ¥2500−

編著者の略歴−開業精神科医。医学博士。特に性志向や性関係の問題を扱っており、神経言語プログラムを主として用いた短期間のセラピィ、エリクソン流の催眠療法を実践している。また、エイズにかかったゲイ、パイセクシュアル、麻薬中毒患者のためのセラピィも行なっている。彼は、『男性、彼のからだ、彼のセックス』(ダブルディ&カンパニー、1978)の著者の一人で、『バイセクシュアリティ−理論と調査』(ハーワースプレス、1986)の編者でもある。神経言語プログラムや催眠療法などのワークショップのほか、人間の性に関する講義を行なっており、フロリダ州T.G.S./F.T.T.の客員教授でもある。「セクソロジーに関するアメリカカレッジ検討委員会」、そして「全米神経言語プログラミング協会」のメンバーでもあり、高い評価を得ている。
 原本は1979年に上梓され、1993年に再販されている。
本書は再販版を翻訳したものだ。
さすがに30年近く前の本だと、やや現実感が遠くなる。

 ゲイに関しては、随分と認識が広まった。
少年愛や男色と現代のゲイは別物だ、との認識も広がりつつある。
しかし、1979年にゲイと男色の違いを認識せよと言うほうが、無理難題であろう。
本書は少年愛の愛好家(本サイトではホモと称している)を、バイセクシュアル(以降バイという)ととらえている。
それは仕方ないだろうが、かつてはホモこそバイだったと言っていいだろう。
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 単に同性をセックスをするというだけなら、少年だって男性には違いない。
だから、成人男性が少年を相手にすればバイと言っていいだろう。
この前提に立てば、歴史はすべてバイである。
アレキサンダー大王、プラトン、織田信長など、みなバイだろう。
しかし、こうした人物は現在いうバイとは違う。

 ホモをバイというのなら、歴史にはバイ差別などなかったとしか言いようがない。
現在のバイとは、成人男性もしくは成人女性が、成人男性や成人女性を相手に性行為をするのだ。
成人の同性同士でセックスにふけるから、色眼鏡で見られ、差別されるのだ。

 筆者はバイとは、ストレートからもゲイからも指弾される存在だという。
最近でこそ、LGBTといってバイも性的な少数者に含めるが、かつてはバイは立場が不明だとして、ストレートとゲイの両方から批判されたものだ。
こうした歴史を振り返ると、ゲイが差別されているという声も、いつまで続くか怪しげな感じがする。

 ゲイはストレートを基礎として批判を展開すれば済む。
ストレートが多数を占める社会で、もしくは異性愛が普通とされる社会で、と論を展開すれば一冊の本となる。
そういった意味では、ゲイはゲイだけで存立する論を立てていないと言って良いだろう。
しかし、バイは、ストレートを批判すれば済むわけではない。

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 バイという存在自体を、ストレートとゲイの両者に認めさせなければならない。
しかも、成人男性が成人女性とセックスをすればストレートであり、成人男性とセックスをすればゲイなのだ。
そこで成人男性と成人女性の両方とセックスをするという立場は、立場の固有性を捨てる主張になる。

 ゲイならゲイに固執できるが、バイは固執すべきアイデンティティがない。
LGBTと言うようになったのも、エイズ騒動でゲイが孤立したときに、戦線の拡大を計ってレズビアンとかバイやトランスジェンダーを加えたに過ぎない。
最近では、戦線はより広くなり、性同一性障害者なども加えてクイアーという。
つまり性に関することなら、何でも一括りにしてしまおうというのだ。

 本書は、バイを健康なバイと問題のあるバイに分ける。
ケーススタディの数例を挙げた後で、筆者は次のようにいう。  

 彼の強迫観念は彼の成熟に伴い軽減し、消滅してきた。事実、私たちはセラピイを終えようとしている。ドナルドとミリーとの関係は、同棲し、結婚の計画を立てるところまで進展している。実際のところ、今やドナルドを次章へ移すのに不適当な時期ではないだろう。つまり「健康なパイセクシュアル」に。しかし、彼の「健康さ」はまったく新しいので、まだ確固たるものになっていない。であるからして、ここでは、移行期の人物としてとどめておくことにしよう。P88

 性指向の分野において、健康な生き方とか、良い生き方などがあるのだろうか。
何が正しいといった中心的価値の設定自体が、ゲイの誕生ですでに問われていた。
そして、その結論はすでに出ている。
性指向に健康とか、正しいと言ったものは存在せず、それらは個人的な好みの問題に過ぎないと言うはずである。

 第7章以降、過去の芸術作品に描かれたバイを取り扱っている。
こうした視点で取り上げれば、ほとんどの作品はゲイではなく、ホモということになる。
なぜなら、ゲイはごく最近になって登場したものだから、「ベニスに死す」などのアッシェンバッハなどホモに過ぎない。
また、オスカー・ワイルドなど子供までいるのだから、バイと言うことになってしまう。

 ゲイとホモを区別する視点は、性指向を腑分けする上でも、非常に有意義であろう。
バイという生き方を否定するものではないが、あえてバイというジャンル分けをする必要性を感じない。
ゲイとストレートを固定したものと、捉えるからバイが必要になってしまうのである。
性指向を揺らぐものと考えれば、バイは不要になる。  (2011.7.11)
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参考:
早川聞多「浮世絵春画と男色」 河出書房新社、1998
松倉すみ歩「ウリ専」英知出版、2006年
ポール・モネット「ボロウド・タイム  上・下」時空出版、1990
ジェシ・グリーン「男だけの育児」飛 鳥新社、2001
伊藤文学「薔薇ひらく日を 薔薇族と 共に歩んだ30年」河出書房新社、2001
モートン・ハント「ゲイ:新しき隣 人たち」河出書房新社、1982
リリアン・フェダマン「レスビアンの歴史」 筑摩書房、1996

尾辻かな子「カミングアウト」講談社、 2005
伏見憲明+野口勝三「「オカマ」は差別か」 ポット出版、2002
顧蓉、葛金芳「宦官」徳間文庫、2000
及 川健二「ゲイ パリ」長 崎出版、 2006
礫川全次「男色の民俗学」 批評社、2003
伊藤文学「薔薇ひらく日を」河出書房 新社、2001

リリアン・フェダマン「レスビアンの歴史」 筑摩書房、1996
稲垣足穂「少年愛の美学」河出 文庫、1986
ミシェル・フーコー「同性愛と生存の美学」 哲学書房、1987
プラトン「饗 宴」岩波文庫、1952
伏見憲明「ゲイという経験」ポット出 版、2002

東郷健「常識を越えて オカ マの道、70年」 ポット出版、2002
ギルバート・ハート「同性愛のカルチャー研究」 現代書館、2002
早川聞多「浮世絵春画と男色」 河出書房新社、1998
ジェシ・グリーン「男だけの育児」飛 鳥新社、2001
神坂次郎「縛られた巨人」 新潮文庫、1991
風間孝&河口和也「同性愛と異性愛」 岩波新書、2010
匠雅音「核家族か ら単家族へ」丸善、1997
井田真木子「同性愛者たち」文芸春秋、1994
編ロバート・オールドリッチ「同性愛の歴史」東洋書林、2009
ミッシェル・フーコー「快楽の活用」新潮社、1986
アラン プレイ「同性愛の社会史」彩流社、1993
河口和也「クイア・スタディーズ」岩波書店、2003
ジュディス・バトラー「ジェンダー トラブル」青土社、1999
デニス・アルトマン「ゲイ・アイデンティティ」岩波書店、2010
イヴ・コゾフスキー・セジウィック「クローゼットの認識論」青土社、1999
デニス・アルトマン「グローバル・セックス」岩波書店、2005
氏家幹人「武士道とエロス」講談社現代新書、1995
岩田準一「本朝男色考」原書房、2002
海野 弘「ホモセクシャルの世界史」文芸春秋、2005
キース・ヴィンセント、風間孝、河口和也「ゲイ・スタディーズ」青土社、1997
ギィー・オッカンガム「ホモ・セクシャルな欲望」学陽書房、1993
イヴ・コゾフスキー・セジウィック「男同士の絆」名古屋大学出版会、2001
スティーヴン・オーゲル「性を装う」名古屋大学出版会、1999
ヘンリー・メイコウ「「フェミニズム」と「同性愛」が人類を破壊する」成甲書房、2010
ジョン・ボズウェル「キリスト教と同性愛」国文社、1990
堀江有里「レズビアン」という生き方」新教出版社、2006
フリッツ・クライン「バイセクシュアルという生き方」現代書館、1997

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