編著者の略歴−1956年愛知県生まれ。京都大学理学部卒業後、同大学院に進み、博士課程を経て著述業に。専攻は動物行動学。著書に『そんなバカな!』(第8回講談社出版文化賞科学出版賞受賞)、『あなたの知らない精子競争』『パラサイト日本人論』『シンメトリーな男』『遺伝子が解く!美人の身体』(以上、文春文庫)、『草食男子0.95の壁』(文藝春秋)、『女は男の指を見る』(新潮新書)、訳書に『女だけが楽しむ「ポルノ」の秘密』(新潮社「進化論の現在」シリーズ)などがある。 なぜ今さらこんな本が出るのだろうか。 文春文庫は際物出版ではないだろうに、まったく常識を欠いた企画に唖然とするばかりである。 前川直哉の「男の絆」が出版されて、やっと男性同性愛が男色とゲイの違いに自覚的になってきたのに、遺伝子決定論のような本が出てしまいガッカリである。
そして、性フェロモンのアンドロスタジエノンの臭いが、脳のどの部分を刺激するかによって、性の指向を判別できるという。 筆者の問題関心は、次の点にある。 同性愛者(バイセクシャルも含む)は子を残しにくいのに、なぜ同性愛に関係する遺伝的性質が消え去らず、同性愛者が常に一定の割合を保ち続けているのかというパラドックスについてである。 実際、男性同性愛者(バイセクシャルも含む)は男性異性愛着と比べ、5分の1程度しか子を残さないとされているのだ。P13 無精子症の男性や不妊症の女性だって、必ず何パーセントかの割合で誕生する。 彼(女)等は子供が持てないのだが、やはり無精子症の男性や不妊症の女性は誕生する。 子供を持てないことが遺伝子で決まるというなら、そんな遺伝子を持った個体は淘汰されたはずである。 にもかかわらず、無精子症の男性や不妊症も必ず存在するではないか。 無精子症の男性や、不妊症の女性の遺伝子が一定の割合を保ち続けることを、筆者はパラドックスと感じるのだろうか。 無精子症や不妊症といった純粋に肉体の問題でも、遺伝子決定論で論じるのは無理がある。 ましてや、同性愛のように文化が絡む問題を、遺伝子決定論で論じるのは不可能だろう。 続いて次のように言う。 自身も同性愛者であったアルフレッド・キンゼイのキンゼイ報告によれば、男の4%が生涯にわたり、同性とのみ関係を持ち、13%が16〜55歳までの問に少なくとも3年間は同性との関係があるという(後者の13%はパイセクシャルの割合とみなして差し支えないだろう)。 この、生涯にわたり同性とのみ関係を持つという4%、またはそれに近い3%や5%という割合はその後のいくつかの調査でも登場する不思議な値(まさしくクラスに1人程度)だ。 まるで自然の摂理が、生涯にわたって同性愛者であるという男はどんなに時を経てもこの割合を保ち続けるのだ。どうだ、この謎が解けるか、と我々に挑戦状を突きつけているかのようでもある。 ちなみに女性同性愛者の割合については、男性同性愛者のだいたい2分の1〜3分の1くらいと言われている。P13 ずいぶんと乱暴な前提である。 同性愛者が常に一定の割合を保ち続けているのが不思議だと言う。 しかし、男性同性愛者は男性異性愛者にくらべて5分の1しか子供を残していないと勝手な前提を置くから、同性愛者を不思議に感じてしまうのだ。 その上、筆者は同性愛と性転換や性同一性障害を混同して論じている。 織田信長は男性を愛したことで有名だが、男女合わせて21人の子供をもうけている。 また、徳川家光も男色家で有名だが、大勢の子供を残している。 東郷健が「常識を越えて」で書いているように、オカマを自認する彼ですら子供がいる。 同性愛者(バイセクシャルも含む)の子孫が少ないは何を根拠に言うのだろうか。 生涯にわたって同性とだけ関係を持つ男性同性愛者が4%だというのは事実なのだろうか。 同性愛に対する社会のあり方によって、数字は大きく変わるはずで、これは実に疑わしい。 その上、何の根拠の示さずに、女性同性愛者の割合については、男性同性愛者のだいたい2分の1〜3分の1くらいと言うに至っては、そんなことはないとしか言いようがない。
男とか女といった性別と、男性や女性といった性差は、直接にはつながっていないというのが、20世紀の認識論が辿りついた真実だった。 筆者は社会的に形成される男性性や女性性と、生物的な性別を直結させて論じている。 男性同性愛者の最大の特徴が女性的な感覚だとか、女性が好むものを男性同性愛者が好むと言ったデタラメを、活字にしても良いのか。 しかも、いかにも科学的な装いを纏って、事実ではないことが書かれてしまう。 男性同性愛者は必ずしも女性的な感覚をもってはいないし、女性が好むものを好むとは限らない。 織田信長がきわめて残忍なことは周知だし、マッチョな女性同性愛者だって大勢いる。 男性と女性の性質を生物として固定されたものととらえ、それを社会的な男女にあてはめていくのは破綻している。 こうした思考方法は無効だというのが、情報社会の最低限の確認だったはずである。 同性愛者は何かの肉体の異常によって作られたのであり、異性愛者と肉体的に違う存在だと考えたい人たちがいるようだ。 別種の生き物だと分離すれば、安心するのだろうか。 肉体的な問題に還元する先入観に適応させるために、ホルモン説が根強く信奉されている。 本書は遺伝子をもちだして、同性愛者の特異性を論証しようとする。 ペニスに関して、次のように言うに至っては、もう開いた口がふさがらない。 平常時、膨張時、いずれにおいても長さ、太さ(周囲の長さ)について同性愛者が異性愛者を圧倒した。統計的にも大いに差がある。 長さについては平常時、膨張時ともに同性愛者は異性愛者に比べ、約5%長い。 太さ(周囲の長さ)については平常時、膨張時ともに同性愛者は異性愛者に比べ、約3%太い。 十分な差だ。体積では10数%の差に相当するだろう。 同性愛者と異性愛者は、一方で年齢、親の社会経済的地位、教育のレヴェル、身長、体重、の五つの項目についても調べられている。 すると両グループで差が現れたのは、教育レヴェル、体重。そして身長については差があるかないか微妙なところだが、甘く見るならあると出た。 同性愛者は異性愛者に比べて、教育レヴェルがやや低く、体重がやや軽く、身長についてはどちらかと言えば低いという傾向があるのである。P23 これが56歳の女性の書くことだろうか。 ここまで読んであきれ果て、これ以上読むのを止めようと思った。 しかし、どんな理屈をもちだしてくるのか、それを確かめたくて最後まで付き合ってしまった。 筆者の結論はこうだ。 男性同性愛遺伝子が母方の女によく子を産ませる働きをするので、男性同性愛遺伝子が間接的によく残ってくる、ただそれだけのことだったというわけである。 あるいはこう言ってしまった方がいいだろう。 とにかく女の繁殖力を高める遺伝子があったとする。それが男に乗った場合には、彼を同性愛者にする確率を高め、子を残すうえで不利にするが、それは彼の母方の女における大いなる繁殖によって十分に相殺され、その遺伝子が残ってきている。そしてこの、女の繁殖力を高める遺伝子こそが、男性同性愛遺伝子の正体である……。P206 筆者は女性同性愛も認めているが、同性愛者は女性には少ないから、伴性遺伝だというのだろうか。 遺伝子というからには、時代や人種を問わない生物学的な話である。 同性愛の捉え方は、時代によって変わってきた。 不思議なことに、筆者も衆道と本物の同性愛を区別すべきだという。 前近代にあっては、男性同性愛は男色とか衆道と言われ、多くの男性が青少年を性愛の対象にした。 しかし、この時代には成人男性同士での性愛はタブーだった。 成人男性間の性愛行為は、ゲイの誕生によって始まったのである。 それが近代になると、成人男性同士の性愛に変わり、少年を性愛の対象にすることは犯罪視されるようになった。 また、最近でこそ女性同性愛も語られるが、前近代では女性同性愛は見ることができない。 男色は成人男性の年少男性への性愛だが、女色は男性の成人女性への性愛である。 女性は女性と性愛行為をしなかったので、女性が女性を愛する言葉がなかった。 もちろん、女性同性愛者が男性同性愛者のだいたい2分の1〜3分の1などということなかった。 衆道という男性同性愛とは、男性の文化を伝えるものであり、上の世代が若い世代に行う一種の教育だった。 女性同性愛が存在しなかった理由は、女性が男性より社会的な劣位に置かれていたからだ。 文化は男性に独占され、女性が性愛を通じて、女性特有の文化を伝えることはできなかった。 前近代では女性同性愛は存在しなかったと言っても過言ではない。 近代になってゲイが登場するのと並行現象として、女性の自立が始まりレズビアンが登場した。 本書がいうように、遺伝子のあり方で同性愛を説明することは不可能である。 無精子症の男性や不妊症の女性の存在を見れば判るように、同性愛者が子供をつくらなくても、同性愛者が生まれ続けることは不思議でも何でもない。 生物学的に言って、男性といえども100%の男性ではないし、女性も100%の女性などいない。 男性と女性の境目は、きわめて曖昧だというのが現代生物学の教えるところだ。 社会が異性愛者や同性愛者を生むのだから、1つの個体が繁殖しなくても、種として繁殖すれば済むことである。 生物学に問われるべきは、なぜ女性同性愛者が少ないのかである。 (2012.2.29)
参考: 早川聞多「浮世絵春画と男色」 河出書房新社、1998 松倉すみ歩「ウリ専」英知出版、2006年 ポール・モネット「ボロウド・タイム 上・下」時空出版、1990 ジェシ・グリーン「男だけの育児」飛 鳥新社、2001 伊藤文学「薔薇ひらく日を 薔薇族と 共に歩んだ30年」河出書房新社、2001 モートン・ハント「ゲイ:新しき隣 人たち」河出書房新社、1982 リリアン・フェダマン「レスビアンの歴史」 筑摩書房、1996 尾辻かな子「カミングアウト」講談社、 2005 伏見憲明+野口勝三「「オカマ」は差別か」 ポット出版、2002 顧蓉、葛金芳「宦官」徳間文庫、2000 及 川健二「ゲイ パリ」長 崎出版、 2006 礫川全次「男色の民俗学」 批評社、2003 伊藤文学「薔薇ひらく日を」河出書房 新社、2001 リリアン・フェダマン「レスビアンの歴史」 筑摩書房、1996 稲垣足穂「少年愛の美学」河出 文庫、1986 ミシェル・フーコー「同性愛と生存の美学」 哲学書房、1987 プラトン「饗 宴」岩波文庫、1952 伏見憲明「ゲイという経験」ポット出 版、2002 東郷健「常識を越えて オカ マの道、70年」 ポット出版、2002 ギルバート・ハート「同性愛のカルチャー研究」 現代書館、2002 早川聞多「浮世絵春画と男色」 河出書房新社、1998 ジェシ・グリーン「男だけの育児」飛 鳥新社、2001 神坂次郎「縛られた巨人」 新潮文庫、1991 風間孝&河口和也「同性愛と異性愛」 岩波新書、2010 匠雅音「核家族か ら単家族へ」丸善、1997 井田真木子「同性愛者たち」文芸春秋、1994 編ロバート・オールドリッチ「同性愛の歴史」東洋書林、2009 ミッシェル・フーコー「快楽の活用」新潮社、1986 アラン プレイ「同性愛の社会史」彩流社、1993 河口和也「クイア・スタディーズ」岩波書店、2003 ジュディス・バトラー「ジェンダー トラブル」青土社、1999 デニス・アルトマン「ゲイ・アイデンティティ」岩波書店、2010 イヴ・コゾフスキー・セジウィック「クローゼットの認識論」青土社、1999 デニス・アルトマン「グローバル・セックス」岩波書店、2005 氏家幹人「武士道とエロス」講談社現代新書、1995 岩田準一「本朝男色考」原書房、2002 海野 弘「ホモセクシャルの世界史」文芸春秋、2005 キース・ヴィンセント、風間孝、河口和也「ゲイ・スタディーズ」青土社、1997 ギィー・オッカンガム「ホモ・セクシャルな欲望」学陽書房、1993 イヴ・コゾフスキー・セジウィック「男同士の絆」名古屋大学出版会、2001 スティーヴン・オーゲル「性を装う」名古屋大学出版会、1999 ヘンリー・メイコウ「「フェミニズム」と「同性愛」が人類を破壊する」成甲書房、2010 ジョン・ボズウェル「キリスト教と同性愛」国文社、1990 堀江有里「「レズビアン」という生き方」新教出版社、2006 フリッツ・クライン「バイセクシュアルという生き方」現代書館、1997 前川直哉「男の絆」筑摩書房、2011 竹内久美子「同性愛の謎」文春文庫、2012
|