編著者の略歴− 1942年東京生まれ.評論家.上智大学経済学部卒業.家族や教育,犯罪などに関して積極的に発言を続ける。 著書に,『家族の現象論』(筑摩書房),『引きこもるという情熱』『経験としての死』『「存在論的ひきこもり」論』(以上,雲母書房),『母という暴力』『家族という暴力』(以上,春秋社),『もういちど親子になりたい』(主婦の友社),『親殺し』(NTT出版),『若者はなぜ殺すのか』(小学館101新書),『家族という絆が断たれるとき』(批評社),『ついていく父親』(新潮社),『子どもたちはなぜ暴力に走るのか』(岩波書店)ほか多数。 1942年生まれの筆者は、当年70歳である。 老人の書いたものというのが、本書の読後感である。 あとがきを読むと、新書編集部からの依頼で書き下ろしたものであるという。 岩波新書も老人嗜好の干からびたセンスしか残っていないのだろうか。
前者は肯定し、後者は否定している。 長年、家族について考えてきた筆者は、客観的事実の中に法則性を見るのではなく、自分の嗜好から発言をしている。 そのため、筆者に論は今の時代を嘆く老人特有のものになっている。 筆者は、吉本隆明の熱烈なファンだったらしく、対幻想という概念をつかって家族を捉えようとする。 たしかに、対幻想は家族論と馴染みがよい。 しかし、吉本が使っていた概念の枠組みを出た部分では、どうにも説得力に欠けるのである。 それは他人の作った概念を利用している限界であろう。 子供の家族観には血縁意識が関与していない、という。 これは鋭い指摘である。 大人はどうしても自分の立場から子供を見がちだが、子供には子供の視点がある。 子供が成長するためには、自分の周囲にいる人間と、血縁の繋がりがあるかどうかは、どちらでも良い問題である。 次のように言う。 子どもは受けとめ手が一緒にいること以外になにももとめないということ。ややていねいに述べれば、子どもは自分だけを受けとめてくれる特定の「誰か」をいのちの存続の必須の条件としている。したがって、その必須の「誰かが一緒にいること」が最重要なのである。自分のいのちの存続のための受けとめ手が「一緒にいること」自体が子どもにとっての家庭であり、我が家なのである。ということは、我が家という外形=実空間(家屋)の有無は子どもにとって二義的な意味しかもたないであろうことを示唆している。 これに対して、大人の家族観は、子どもに欠けている右の二つの要素、血縁と実体としての我が家が基礎になっている。大人にとって家族とは血縁の関係であり、血縁において他と区別される関係である。P4 大人には住宅が必要だという。 わが家と呼べる物理的な住宅がないと、大人には家族意識が維持できないという。 震災後の仮設住宅は家族を入れる器ではないから、大人にとっては安らげないというのである。 しかし、対幻想という概念は、仮設住宅か否かという次元のものではなく、人間関係の本質を考えるものだ。 とすれば、対幻想と仮設住宅とは、扱う次元が違うと言うべきだろう。
せっかく幻想というという概念を吉本に学びながら、ここで幻想にこだわれないことになってしまう。 子供の家族観に血縁がないように、大人にとっても血縁は不要で、それは幻想に過ぎないというべきだろう。 もちろん、家族の本質を考える上では、物理的な住宅も不要であろう。 肯首できる記述が多々ありながら、本書にはなにか居心地の悪さが残る。 バタンテールの母性とは近代国家が家族を統治するためのイデオロギーだという発言を、筆者は肯定しない。 家族意識が血縁に基づかないとすれば、母性は支配のイデオロギーだというのは自明ではないか。 母性は幻想なのであり、人間が生きていく上では幻想を生みださざるを得ない。 幻想だからこそ、イデオロギーといえるのだ。 老親に対して、筆者は次のように言う。 ありていを申せば、夫婦の対幻想を中心に形成されている現代家族はその内側に、夫婦の対幻想にとっての外部存在である親を迎え入れるだけの空間的余地を確保できにくくなっているのである。これが家族の受けとめる力がおとろえたように見えることの実情である。だから対幻想空間を差しだせない、提供できない、そのような意味で非情とならざるを得ないし、無力であることを認めざるを得ない。P160 大人にとって住宅が必要だという前提に立ってしまえば、上記のような論になってしまうだろう。 しかし、近代家族の特徴は、親を受け入れる空間の欠如ではなく、生産組織ではなくなったことである。 前近代の家族は生産組織だったから、世代の継続性が不可欠だったし、世代を異にしても労働力として家族内に存在できた。 前近代の家族的な生産では、増える人口を養えなくなった。 そのため近代に入ると、家族が生産組織ではなくなった。 生産組織は家族に代わって会社などの組織になり、世代の維持だけが家族の仕事になった。 近代とは資本主義の別名で有り、資本主義は個人の自立が背景にあった。 個人の自立とは、筆者のいう自己本位主義的指向のことである。 生産組織の家族外化は、自己本位主義的指向があったから可能だったのであり、今後、自己本位主義的指向がより強まりこそすれ弱まることはない。 介護が必要な老人の問題は、家族がどう対処するかという問題ではなく、社会がどう引き受けるべきかという問題である。 それは同様に、子供をどう引き受けるべきかという問題と同じである。 子供を親に属すると考える発想から逃れるがゆえに、子供手当という考え方が登場してきたのだ。 個人化はすべての人間を等しく襲うのである。 納得できる発言がたくさんありながら、次の発言から筆者の保守性が暴露されてしまう。 家族にとっての食卓は、対幻想を基底にしつらえられた特別な場であり、特別な時間である。したがって主婦が食卓上にならべた食べ物は、たんに個体の生命機能を維持するための栄養物という意味の食べ物ではない。対幻想という世界におけるいのちの存続をはかるための特別な食べ物であり、それを家族が一緒に食べるということは、対幻想を食べるということなのである。対幻想を食べるということは、対幻想を更新し、存続しようとする意志の表明であるはずである。食卓につくということは、そうした家族の意志に個々がしたがうことでなければならない。P231 携帯電話の電源を切って、食事中は携帯がなっても出てはいけないという。 しかし、家電だって、食事中に鳴れば、誰かが電話に出るだろう。 筆者の囲む食卓は、想像するだけに息苦しい。 ここに至って、論は筆者の好みに脱していることが明示されてしまった。 筆者には家族の本質と、時代の位相の違いが理解されていないに違いない。 そのために、対幻想と仮設住宅が併置されてしまうのであろう。 (2012.7.12)
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