匠雅音の家族についてのブックレビュー   アメリカの秘密−ハリウッド政治映画を読む|副島隆彦

アメリカの秘密
ハリウッド政治映画を読む
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筆者 副島隆彦(そえじま たかひこ)  メディア・ワークス社 1998年 ¥1600−

編著者の略歴−1953年生。福岡県出身。早稲田大学法学部卒業後、銀行勤務を経て、現在、常葉学園大学助教授。著書『欠陥英和辞典の研究』(1989年、宝島社)をめぐる大手の辞書出版社との法廷論争で注目を集める。30万部のベストセラー『英文法の謎を解く』(1995年、ちくま新書)のほか、『現代アメリカ政治思想の大研究』(1995年、筑摩書房)、『属国・日本論』(1997年、五月書房)、『裁判の秘密』(共著、1997年、洋泉社)、『日本の危機の本質』(1998年、講談社)など。政治・経済から思想・哲学まで幅広い評論活動を通じて、日本人の真の覚醒を目指す思想家。当書『アメリカの秘密』では、”ハリウッドの政治映画をひもとき、欧米白人社会の真実の婆を暴き出す”という日本初の試みに挑む。
 本書は担当の編集者が口述筆記したものだという。
口述筆記だから悪いとは思わない。
「ぴあシナマガイド」の解説文に、世話になったと書いているところは、正直で好感が持てる。
良いリズムで文字が並んでおり、楽しく読了した。
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 ハリウッドが民主党の牙城であることは有名である。
民主党は世界中に存在するアメリカの資産を守るために、アメリカの理念を映画にして世界中に配信している。
それも周知のことだろう。
民主党が進歩的な政党で、共和党が保守的な政党であるという日本的な理解は、何も見えておらず実に危険である。
アメリカは民主党の時代のほうが、世界に拡大して戦争をやっているし、共和党時代のほうが軍隊はアメリカ国内にとどまっている。

 筆者はアメリカの社会背景を理解しないで、アメリカ映画を論じるといって、我が国の映画批評を批判している。
もっともな批判である。
多少なりとも、「タクミ シネマ」もこの批判から逃れてはいないだろう。
映画は大衆のものであると同時に、映画製作に大金が投じられることから、資本家の意向が反映されたものになる。
完成された映画だけを見ては、理解できない部分があるのは事実である。

 筆者の人間を見る目は、なかなかにシャープである。
というよりシニカルだと言ったほうが良いだろうか。
「ゴッドファーザー」を論じながら、次のように言う。

 私は、自分が新左翼活動家であったわずかな時期に、政治運動や団体活動というもののすさまじい本質を見た。まさにそれは、組織内の人間関係の、今にも血が噴き出しそうな緊張と切迫感の連続であった。
 この地上に愛と友愛の共同体などない。たとえそれが、消費者運動であれ、平和団体であれ、環境保護団体であれ、宗教団体であれ、その内側はすべて、すさまじい憎しみ合いと派閥抗争に明け暮れている。人間が百人も集まれば、その団体は内側におぞましいほどの政治力学と非人開化した内部抗争を必ず内包する。独裁者やワンマン経営者のいる方が、この派閥抗争は少ない。(中略)
 どこの国でも本当の権力は、背景にすさまじい暴力装置を抱えている。そのような恐ろしさを背景にしない政治権力など、存在するはずがないのだ。表面上の薄っペらな正義感や、平和で善良な暮らししか知らない大衆庶民たちの穏やかな生活こそは真に愛すべきものではあるが、それはそれだけの話である。近代政治学の大原理が、「権力とは、突き詰めれば暴力(武力)である」とすることを忘れてはならない。P22


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 引用した後半部分は常識であろう。
組織は必ず派閥抗争するものだという指摘は当たり前だけれど、組織なるものの本質をを再確認させてくれる。
そして、庶民が善良で正しいなど言うのは嘘である(P50)というのも、なかなか言えない台詞であろう。

 政治映画を読むという副題のとおり、映像美やストーリーの展開などは関係なく、アメリカ映画を政治的な面から捉えている。
それでいながら、本書が出版された当時の映画を、なかなか鋭く捉えている。
それは筆者が左翼から保守派へと転向したことを自覚し、決して隠していないことから来るのではないだろうか。

 1960年から70年代にかけて、左翼運動が燃えさかった。
それは共産主義諸国の台頭を受けて、西側諸国が動揺した時期であり、西側の庶民たちを慰撫することを始めた時期でもあった。
西側のリベラルと称する人たちは、ソ連や中国を持ちあげ、庶民の願望を煽ったと筆者は言う。
そのため、支配階層の人たちは資本主義体制を維持するために必死になったのである。

 かつての左翼が転向して右翼になるという例は、西部邁を初めとして数限りなくある。
しかし、多くの論者は転向を恥じており、自発的には語らないが、筆者は高言していることが判りやすい。
そうした流れから、フェミニズムには反対の立場を取っている。
女性に取り付くストーカーなら同情をかうと言った後、「危険な情事」にかんして次のように言う。

 映画『危険な情事』の場合は、常軌を逸した女性の一方的に勘違いした愛情の妄執が、男とその家族に一心に向かう。私はあえて「性悪女」という言葉を使う。私は、左翼リベラル運動の一種であるフェミニズムあるいはその活動家であるフェミニストたちとは、まったく対立したところに思想的に行き着いた人間である。だから、魔性の女とか、性悪女という言葉を使う。すると、途端に私は性差別主義者sexistということになるのだろう。(中略)
 狂気の女アレックスは、ついに包丁を握りしめてダンの家に忍び込み、襲いかかっていく。なんと最後は、ダンは入浴中の浴室で襲いかかられて、反対にアレックスの首を絞めて湯舟の中で殺すという凄惨なものである。ところが、やれやれ全て終わった、と思った男の背後の湯舟の中から、魔女そのものと化したアレックスが刃物を翻えして突如襲いかかってきた。その時、妻が階下から駆けつけて、ダンを守るべく銃でアレックスを撃ち殺した。
 この時の異様な恐怖感は、この映画を見た者たちを捉えて離さない。私自身、この映画の最終場面を見た後、映画館の座席から腰が抜けたようになってしばらく立ち上がれなかった。過去に女性にヒドイことをしたことのある男たちは、私と同じように世界中で腰が抜けて立ち上がれなかったのではないか。この怖さには、おそらく欧米近代社会の男たちも、後進国の男たちにも差がないであろう。P229


 「危険な情事」は1987年の作品だが、この頃から先進国の労働事情が変化し始めたことに、筆者は気づいていない。
20世紀の終盤には、男性支配の基盤だった肉体優位の時代が終わろうとしていたのだ。
男性のそれと同様に、女性の知力が生産活動に使われないと、もはや社会は動かなくなる。
そうした予感があったから、「クレーマー・クレーマー」や「テルマ アンド ルイーズ」といった女性映画が撮られたのである。

 200本近い映画を取り上げて、独断と偏見で論じたものである。
毒にも薬にもならない類書に比べると、はるかに面白かった。   (2012.8.17)
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参考:
J・S・ミル「女性の解放」 岩波文庫、1957
伊藤友宣「家庭という歪んだ宇宙」ちくま文庫、1998
永山翔子「家庭という名の収容所」PHP研究所、2000
ロバート・スクラー「アメリカ映画の文化史 上、下」講談社学術文庫、1995
ポーリン・ケイル「映画辛口案内 私の批評に手加減はない」晶文社、1990
長坂寿久「映画で読むアメリカ」朝日文庫、1995
池波正太郎「味と映画の歳時記」新潮文庫、1986
佐藤忠男 「小津安二郎の芸術(完本)」朝日文庫、2000
伊藤淑子「家族の幻影」大正大学出版会、2004
篠山紀信+中平卓馬「決闘写真論」朝日文庫、1995
ウィリアム・P・ロバートソン「コーエン兄弟の世界」ソニー・マガジンズ、1998
ビートたけし「仁義なき映画論」文春文庫、1991
伴田良輔ほか多数「地獄のハリウッド」洋泉社、1995
瀬川昌久「ジャズで踊って」サイマル出版会、1983
宮台真司「絶望 断念 福音 映画」(株)メディアファクトリー、2004
荒木経惟「天才アラーキー写真の方法」集英社新書、2001
奥山篤信「超・映画評」扶桑社、2008
田嶋陽子「フィルムの中の女」新水社、1991
柳沢保正「へそまがり写真術」ちくま新書、2001
パトリシア・ボズワース「炎のごとく」文芸春秋、1990
仙頭武則「ムービーウォーズ」日経ビジネス人文庫、2000 
小沢昭一「私のための芸能野史」ちくま文庫、2004
小沢昭一「私は河原乞食・考」岩波書店、1969
赤木昭夫「ハリウッドはなぜ強いか」ちくま新書、2003
金井美恵子、金井久美子「楽しみと日々」平凡社、2007
町山智浩「<映画の見方>がわかる本」洋泉社、2002
藤原帰一「映画のなかのアメリカ」朝日新聞社、2006

斉藤美奈子「モダンガール論」文春文庫、2003
副島隆彦「アメリカの秘密
メディア・ワークス社、1998

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