匠雅音の家族についてのブックレビュー   昭和天皇と戦争−皇室の伝統と戦時下の政治・軍事戦略|ピーター・ウエッツラー

昭和天皇と戦争
皇室の伝統と戦時下の政治・軍事戦略
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筆者 ピーター・ウエッツラー(Peter Wetzler,Ph.D.)  原書房 2002年 ¥2800−

編著者の略歴−歴史学者。1943年米国生まれ、米国で教育を受けたのち日本に留学して、日本語と日本史、さらに、東北大学で日本思想史を学ぶ。その後、カリフォルニア大学パークレー校で博士号取得(平安朝の文人についての研究)。現在はドイツのルドヴィヒスハフェン州立経済大学教授、同大学東アジアセンター所長。「昭和天皇と太平洋戦争」「東条とルーデンドルフの比較論」など、前近代と近代の日本史関係の論文を米国とドイツで発表している。
 歴史家らしい丁寧で、しかもイデオロギー臭のほぼない論証である。
戦争という大きな事件を扱う以上、どうしても後世からの跡づけ的な裁断をしがちである。
しかし、歴史上の人物を書くことは、その人物を裁くことではないと筆者は言う。
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 確かにその通りだが、歴史は現代から見たものである以上、筆者の立場を貫くの難しいことだ。
そうしたなかで、筆者は細かく資料にあたりながら、禁欲的に筆を進めている。
結論は天皇ヒロヒトが戦争遂行に深く関わっていたという。
下記の前提から話が始まる。

 軍事計画における天皇の役割については、東京の防衛庁防衛研究所にある文書と同所の研究者による研究から、新たに以下の三点が解明されている。第一に、天皇は、真珠湾攻撃の少なくとも6年前から、軍事作戦計画について定期的かつ広範囲に情報を与えられていた。第二に、真珠湾攻撃の1ケ月前に、奇襲計画の詳細説明を受けていた。第三に、天皇は御前会議では軍事作戦計画について異を唱えることはなかったが、それは計画が極秘であったため、正式に裁可する前に内密に計画変更を提案する機会を本人が要求していたためであった。以上の事実である。P10

 天皇裕仁は軍部にあやつられて軍事については無力だった。
戦争を始めるにあたって、天皇裕仁には発言権がなく、だから裕仁には戦争責任がないという論がある。
また、裕仁は立憲君主制を信じており、立憲君主制にしたがって行動した。
そのため、議会や行政府が責任を負うべきであり、裕仁には同意以外の道はなかったともいう論がある。
筆者はこうした論に反証するのではなく、天皇制の伝統にもどって裕仁の行動を分析していく。

 我が国の組織の意志決定は、トップダウンというのではない。
明確な責任者が決断するのではない。
稟議書をみればわかるように、根回しと密かな合意形成によって、組織の意志が作られていく。
それは現代の巨大企業でも何ら変わっていないが、天皇を取り巻く組織的な決定もまったく同じだった。
つまり、天皇によるトップダウンというのは、最初からあり得ない話なのだ。
 
 コンセンサス(総意)の形成−この場合には、国家の長、今日であれば大企業のトップが正式に承認する一定の方針に達することであるが−それ以前に(トップをふくみ)それに関与する人びとが事前に直接会って、話し合う。その事前の話し合いの場で、トップは見解の異なる関係者の間に入って仲裁し、意見を調整するとともに、自分自身の意見をそれとなく伝える。それと同じように、ヒロヒトは閣僚と軍部指導者間の総意達成のために積極的にはたらいた。これはまた、日本史における天皇の伝統的役割と、ヒロヒトが教えられた倫理の教訓に沿うものであった。P87

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 裕仁は最初から戦争を望んだわけではなかった。
しかし、満州事変のころから戦争への足音を聞きながら、軍の行動を支持し続けてきた。
何度かためらったが、それは西洋諸国の反発を招くのではないかという危惧からであり、戦後言われるような平和を愛好したからではない。
むしろ西洋諸国の反発が予想されなければ、裕仁は満洲への侵略を領土拡大だとして支持していた。

 裕仁の一番の関心は、軍事や日本国にあったのではない。
彼の最大の関心は、皇統の維持と天皇家の繁栄であった。
明治天皇が獲得した領土を、裕仁はより一層拡大しようとした。
領土は天皇家の財産であったからだ。
江戸時代を見ればわかるように、天皇が政治的・軍事的な支配権を持っていなくても、皇統は続いてきた。
それを絶やしてしまうことこそ、彼の恐れたことだった。

 政治には成功もあるが、失敗もある。
天皇が政治を直接行えば、その結果責任を被らなければならない。
天皇家の財産を維持するためには、天皇が政治の前面に出ることは避けなければならない。
裏で合議を形成する方法は、昔からの天皇たちが体得してきた。
それが明治憲法のもとでも充分に機能したのだ。
だから、天皇制を近代的な責任倫理で考えると何も判らないことになる。

 筆者は、裕仁に影響を与えた人物を記述していく。
まず、教育を担当した杉浦重剛、そして、助言者だった牧野伸顕を取り上げる。
これは妥当だろうだろう。

 「天皇の学校」でも記されているように、裕仁は普通の中学には進学しなかった。
東宮御学問所で帝王教育を受ける。
そこで倫理を担当したのが杉浦重剛だった。
本書では杉浦重剛の影響を丁寧に分析していく。
そして、天皇になってからは、牧野伸顕が相談相手になっている。
牧野は選挙によって選ばれた人でもなければ、官吏でもない。
単なる皇室神話の信奉者に過ぎない。

 ヒロヒトと首相の決定的な会談が行なわれる数ケ月前に、天皇に最も近い二人の助言者は、(張作霖)暗殺事件の対応について田中首相と陸軍大臣の意見が食い違っていることを知っていた。しかし、彼らのだいいちの懸念は、正確さ、規律、あるいは正義ではなかった。事件を公式にどう処理するべきかと、陸軍、国家、そして天皇のイメージが何よりも気がかりだった。つじつまの合わぬ報告をして天皇が立場上、困ることがあってはならない、と牧野はいった。ヒロヒト自身の念頭にあったのも、正義と人権ではなかった。自分の権限と、陸軍−天皇の軍隊のイメージを心配していたのである。徹底調査をし、必要に応じて、軍事裁判によって、両者−権限とイメージ−を国の内外で回復しなければならない、と考えていた。P251

 牧野伸顕らは皇統の維持を最大目的としていたから、皇統の維持にふさわし限りで立憲君主制を利用した。
彼らは天皇の考えることと自分たちの考えることを同視したが、軍部は自分たちの主張を通すために「大御心」を利用しようとした。
裕仁は、政治の舞台裏から自分の意志を押しつけようとした。

 戦後になって、裕仁は立憲君主制を強調したが、明治憲法にいう立憲君主制は西洋のそれとは似て非なるものだった。
東条英機が忠誠を誓ったのは、立憲君主制による天皇ではなく、日本の皇統たる天皇裕仁にたいしてだった。
裕仁は東条英機に首相を任せることによって、一番良く自分の意志を実現できると考えたのだ。  
 戦争が不可避という、日本の暗澹たる見通しについて述べて、ヒロヒトはこうもいった。「今から回顧すると、最初の私の考は正しかつた」。自分が介入して反対したりしなかったのは正しい判断だった、決断を妨げたなら、国内で大きな反乱が起きただろう−まして皇室にどんな危険がおよんだかわからない、という意味である。しかしながら、彼が口にしなかったのは、なぜそういう危険が予想されたかの理由である。軍の提案については内奏などですでにコンセンサスができており、天皇がそれを拒否することは、彼自身が前言を翻すことを意味したから、というのが大きな理由としてあった。この事実により、立憲君主制の原則により介入できなかったという弁明は破綻する。それと同じことで、ヒロヒトは立憲君主制と明治憲法に内在する独裁的支配の間の緊張状態から、かくのような行動をとらざるを得なかったという憶測では、彼の行動の説明にならない。ヒロヒトは行動を控えてはいなかった。複数の役割の間でジレンマにも陥ってはいなかった。天皇は「菊のカーテン」の背後で、多元主義的コンセンサス志向の意思決定プロセスに加わり、その結果を正式に裁可した。いったんなされた決断に拒否権を行使したならば、コンセンサスを築くうえで必要な相互の信頼を破るのみならず、意思決定プロセスそのものを破壊することになった。それにより、ヒロヒトが恐れたとおり大混乱を招いたにちがいない。P308
 
 開戦の責任を負わされることよりも、皇統の維持ができなって政体が崩壊することこそ、裕仁が最も恐れたことだった。
政治の舞台裏からコントロールする政治家だった裕仁には、自分が表に出てしまえば結果責任を負わざるを得なくなる。
それこそ最も避けるべきことだった。

 皇統が長きにわたって続いたのも、天皇が影の政治家だったからだ。
だから、自分の表武者をつとめた東条英機には、戦後になって最大の愛顧をおくっている。
また、東条英機も表武者の役割として、裕仁の代わりに死刑になることを、喜んで甘受したはずである。
近代主義者の視点をこえて、説得力がある展開だった。  (2012.10.27)
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参考:
M・ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」岩波文庫、1989
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江藤淳「成熟と喪失:母の崩壊」河出書房、1967
桜井哲夫「近代の意味:制度としての学校・工場」日本放送協会、1984
G・エスピン=アンデルセン「福祉国家の可能性」桜井書店、2001
G・エスピン=アンデルセン「ポスト工業経済の社会的基礎」桜井書店、2000
桜井哲夫「近代の意味:制度としての学校・工場」日本放送協会、1984
田中美津「いのちの女たちへ」現代書館、2001年
ジェリー・オーツカ「天皇が神だったころ」アーティストハウス、2002
原武史「大正天皇」朝日新聞社、2000
大竹秀一「天皇の学校」ちくま文庫、2009
ハーバート・ビックス「昭和天皇」講談社学術文庫、2005
片野真佐子「皇后の近代」講談社、2003
浅見雅男「皇族誕生」角川書店、2008
河原敏明「昭和の皇室をゆるがせた女性たち」講談社、2004
加納実紀代「天皇制とジェンダー」インパクト出版、2002
繁田信一「殴り合う貴族たち」角川文庫、2005
ベン・ヒルズ「プリンセス マサコ」第三書館、2007
小田部雄次「ミカドと女官」恒文社、2001
ケネス・ルオフ「国民の天皇」岩波現代文庫、2009
H・G・ポンティング「英国人写真家の見た明治日本」講談社、2005(1988)
A・B・ミットフォード「英国外交官の見た幕末維新」講談社学術文庫、1998(1985)
杉本鉞子「武士の娘」ちくま文庫、1994
松原岩五郎「最暗黒の東京」現代思潮新社、1980
イザベラ・バ−ド「日本奥地紀行」平凡社、2000
リチャード・ゴードン・スミス「ニッポン仰天日記」小学館、1993
ジョルジュ・F・ビゴー「ビゴー日本素描集」岩波文庫、1986
アリス・ベーコン「明治日本の女たち」みすず書房、2003
渡辺京二「逝きし世の面影」平凡社、2005
湯沢雍彦「明治の結婚 明治の離婚」角川選書、2005
アマルティア・セン「貧困と飢饉」岩波書店、2000
紀田順一郎「東京の下層社会:明治から終戦まで」新潮社、1990
小林丈広「近代日本と公衆衛生 都市社会史の試み」雄山閣出版、2001
松原岩五郎「最暗黒の東京」岩波文庫、1988
横山源之助「下層社会探訪集」現代教養文庫、1990
ケンブリュー・マクロード「表現の自由VS知的財産権」青土社、2005
フリードリッヒ・ニーチェ「悦ばしき知識」筑摩学芸文庫、1993
ソースティン・ヴェブレン「有閑階級の理論」筑摩学芸文庫、1998
リチヤード・ホガート「読み書き能力の効用」晶文社、1974
ガルブレイス「ゆたかな社会」岩波書店、1990
ヴェルナー・ゾンバルト「恋愛と贅沢と資本主義」講談社学術文庫、2000
C.ダグラス・ラミス「ラディカル デモクラシー」岩波書店、2007
オリーブ・シュライナー「アフリカ農場物語」岩波文庫、2006
吉田祐二「天皇財閥」学研、2011
山田朗「大元帥昭和天皇」新日本出版社、1994
ピーター・ウエッツラー「昭和天皇と戦争」原書房、2002

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