編著者の略歴− 1952年アメリカ生まれ。64年初来日、横浜に住む。エール大学で日本学専攻(学士)、オックスフォード大学でローズ奨学生として中国学を専攻(学士・修士)。73年から徳島県・祖谷で茅葺民家「ちいおり」を再生させる活動を始める。一方、京都で日本伝統芸術を紹介するセミナー運営に携わり、アメリカ最大の不動産開発会社のトラメル・クロー社で美術コレクション顧問を務めた。日本と東アジアの美術品の蒐集をはじめ、通訳・文化コンサルタント・執筆・講演など、祖谷、京都、タイ・バンコタを拠点に、多方面で活躍。94年『美しき日本の残像』で第7回新潮学芸賞受賞。LOST JAPANとして数々国語に翻訳される。著書に、『犬と鬼』『「日本ブランド」で行こう』など。 http://www.alex-kerr.com/jp/ 1952年生まれのアメリカ人が、38歳の時に雑誌に書いた原稿がもとになっている。 筆者が言うように、日本の文化が失われ、美しかった日本のものが失われていくという意見もある。 イギリスを初めとして、歴史の長い多くの国では、古いものが今でも大切に使われている。 しかし、我が国では古いものが消費されていくだけだ、という。
イギリスのオックスフォード大学では、1572年と刻まれたビールのマグカップが未だに使われている、と筆者は驚きをもっていう。 確かに、400年も前のものが日常に使われているのは驚きである。 筆者は古いもの、そして、自然のあふれた風景が好きなようだ。 1973年には徳島県の祖谷(いや)という山奥に、茅葺きの古屋を買っている。 東祖谷の「釣井」で見つけた家は4間×8間の広さで、これは祖谷の民家としてはやや大きいほうでした。屋根は茅葺屋根、柱や梁そして桁など、全て家の大きさに合わないのではないかと思われるほどの重量感のある太い木が使われていました。土地は120坪あり、家の前の石垣を越えて遠く祖谷の山並みが連なるのが眺められ、後ろは竹薮が生い繁っていました。 この家の古さは、近くに住む人々にもわからず、正確には知らないのですが、最後に住んでいた家族は少なくとも7代続いていたことだけは確かなようで、18世紀に建てられた家に違いありません。空き家になったのはその当時においても17年以上前のことですが、幸いにも良好な状態が保たれていて、黒光りしている板張りの居間や囲炉裏は昔のままであると思われました。P31 17年もの間、誰も住んでいなかった民家だから、当然に雨漏りはひどく、とてもそのままでは住めない。 筆者は大変な手間暇をかけて、住める状態ままでもっていく。 こうした行動を見ていると、生活人ではなく趣味人としか言いようがない。 本書はいわば趣味人の目で見た、日本の日常人へのメッセージである。 筆者はパチンコ屋の多さと、縦横に走る電線の不様さを嘆いている。 これは多くの外国人や、日本の知識人たちが指摘するところで、醜い風景の代表らしい。 筆者の目からは、京都タワーに見るように、京都が自らを殺しているように見えるらしい。 たしかに京都タワーは建築当時から、日本人の間でも賛否両論があった。 日本人は国中をコンクリートで固めてしまい、もはや日本の自然は死に絶えつつあるという。 そして、わずかに残る日本の古いものを求めて、奈良や大阪の下町を彷徨っている。 古いものを大切にするのは良いとしても、はたして筆者のいうのが正しいのだろうか。 筆者の目は、その地に生まれ育つ日常人ではなく、あくまで外国人のものでしかないように感じる。 ヨーロッパ人たちは古い家に住み、不便な思いに耐えしのんでいる。 ヨーロッパの街並みは、遠目にはたしかにキレイに見える。 しかし、パリのアパートには未だにエレベーターがないものがある。 彼らだってもはやボロの衣装など着ていないし、日本人ほどではないが風呂にも入っている。 それに対して、日本では古いものが消えていく。 スクラップ・アンド・ビルドという消費の典型は伊勢神宮だろう。
耳の痛い話だが、本当にそれだけだろうか。 パリやロンドンなどと比べて、東京の無秩序さに非難が集まる。 東京は醜い街だという。 しかし、東京は清潔な街だと思う。 そして、活気に溢れている。 歴史のないアメリカ人は、古いというだけで価値があると考えがちだが、古いものはその住民がかつて創ったものである。 今、その価値を見いださなくても、創る力はその住民たちの間に、脈々として流れているように思う。 いつか茅葺しか建築できなくなれば、また茅葺屋根を作ることができるように思う。 その地に住む住民が死に絶えない限り、そして、同じ言葉を使い続ける限り、時間はかかるかも知れないが、古いものはいつでも再現できる。 筆者は日本の陶芸教室に通って、とても偉大な発見をする。 外国(主にアメリカ)から来た生徒たちは普通のつまらない茶碗を作れません。どうしても、オリジナリティーを入れて、面白くしないと気が済まないようです。茶碗を四角にしたり、外側に竜や蛇を付けたり、縁にぎざぎざとした尖った牙を刻んだり、見ていられないモンスターの茶碗ばかりを作ります。一方、日本人の生徒は素直に言われた通りの茶碗をちゃんと作り、彼らのつまらない茶碗はそれなりに綺麗です。 考えてみると、日本の教育システムは平凡な人間をつくるのが目的です。言われた通りに平凡にやればいいので、日本人は「平凡」、「つまらなさ」というものに対して慣れています。「つまらなさ」こそが人生だと思っています。もちろん、それは日本社会の大きな弱点だということは言うまでもありません。 しかし、陶芸教室を通じて、アメリカの教育システムの弱点もわかるようになりました。「創造性を見せろ」、「ユニークな人間になれ」という要求が絶えずあるので、何でも創造的で面白くなければならないと思うようになってしまいます。その考えが邪魔になって、結局セミナーで簡単な茶碗を作ることに苦労します。P110 この体験から、筆者はアメリカ教育の残酷さに気づいていく。 すべての人に創造的な行為を要求することは、じつは不可能である。 創造するというのは、神がおこなう行為であって、人間がおこなう行為ではない。 我が国では、多くの人に先人を真似るように教育がなされてきた。 古典的な芸能でも、職人技術や剣術にしても、先達や親方のやり方を真似することが修業だった。 とりわけ百花繚乱の戦国時代が終わってからは、真似ることが生きることだったと言っても過言ではない。 多くの人が真似をしている中で、ごくわずかの天才が真似を超えたものを生みだす。 それが我が国の進歩であり、発展だったように思う。 筆者は、坂東玉三郎や川瀬敏郎、安藤忠雄などを絶賛している。 坂東玉三郎の女形は人気があり、川瀬敏郎の花も一部では人気がある。 安藤忠雄の建築も、好きだという人がいる。 日本の教育システムから生まれたものに、気がつかないうちに魅せられているに過ぎない。 筆者はまだ平凡であることの偉大さに気づいていないのだ 真似する行動は近代に入って大きく変化したが、それは真似る対象が我が国の先達ではなく、西洋諸国に変わったに過ぎない。 真似をするという学習方法は変わっていない。 真似されたほうからすれば、本家のほうが上手く見えるだろう。 しかし、時間がたてば、真似も消化されていく。 そして、その住民に特有のカラーを作り上げていくだろう。 本書は日本人のここが変だよ、と教えてくれて、それぞれに面白く読める。 しかし、アメリカ人が外国人から本書のような指摘をされたら、一体どのように感じるだろうか。 日本人や中国人がアメリカについて、本書のような指摘をしても、おそらく拒否しかないだろう。 その理由はこうした本を読むのは、アメリカ人であっても趣味人だからだ。 生活人たるアメリカ人であれば、GMやフォードがトヨタを真似したように、外国の真似をするだろう。 そして、アメリカ流の消化していくだろう。 文化というのは200年やそこらでは変化しないし、作れないものなのだ。 また、その住民には何年たっても作れるものでもある。 本書からは筆者のアメリカ人という歴史のなさを感じる。 (2012.12.14)
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