匠雅音の家族についてのブックレビュー   高専生だった私が出会った世界でたった一つの天職|筆者 紗倉(さくら)まな

高専生だった私が出会った
世界でたった一つの天職

お奨度:

筆者 紗倉(さくら)まな  宝島社 ¥1300 2015年

編著者の略歴−1993年生まれ。千葉県出身。グラビア活動を経て、高等専門学校在学中の2012年に、SODクリエイトよりAVデビュー。あどけなさの残るベビーフェイスとFカップの巨乳が生むギャップに加え、現役高専生という肩書きが話題を呼び、デビュー作の『紗倉まなAVDebut』は3万枚を超えるトップセールスを記録した。現在は、人気AV女優でありながら、コラムやエッセーの執筆をはじめ、バラエティー番組、映画へ出演するなど、既存の枠にとらわれない新時代のAV女優像をマイペースに構築中。本書は自身初の単独著書となる。
 たった140ページで、しかも活字の少ない本だが、ここからは新しい時代の息吹を感じる。AVは商品だし、そのヒロインもまた商品だろう。とすれば脚色や演出があるのは当然で、どこまで本当のことだか分からない。行間もしくは紙背を読んでいきたい。

 14歳のときに父親の持っていたアダルトビデオを見て、AV女優に憧れたというから一寸変わった少女だったのだろう。この時から筆者はAV女優にあこがれる。その後、高専に入学する。これも一寸変わっている。工業系の高専は技術屋を育てる学校で、進学するのはほとんどが男子学生である。当然というか驚きというか、クラスでは女性は筆者一人という猿山状態(筆者の言葉)だったそうである。

 4年後の18歳になっても、AV女優になりたいという希望はさめない。ネットで「AV女優募集」と検索をかけてでてきた、マインズという芸能プロダクションに求職に行った。一発で採用されて、宣材(宣伝材料用)写真を撮られて、SOD(ソフトオンデマンド)から「紗倉まなAVDebut」でデビューする。これが3万本も売れたのだそうだ。

高専生だった私が出会った世界でたった一つの天職
 本書は筆者が21歳のときに上梓されているが、2018年の現在でもトップランナーの一人としてAV界を走っている。筆者によれば年間1万人もAV女優がデビューするという。いかに天職といはいえ、そのなかで名声を維持していくのは大変なことだろう。読んでいると、筆者がスターという地位を、維持する努力をしているのがよく伝わってくる。単に好きなだけでは出来ないことだ。

 AV女優では常に身内バレが話題になる。筆者もご多分にもれず詮索されたのだろう。この話題に大きなスペースを割いている。幸か不幸か母親は物わかりが良く、大きな抵抗もなく受け入れてくれたようだ。また、通学していた高専でもAV出演が問題になったらしいが、自分は紗倉まなではないとシラを切り通したら、それで通ってしまったという。この嘘には母親も乗ってくれたようで、良い母親だと感心する。

 子供の行動が親の希望に反する時、親は冷たい態度を取りがちである。鈴木涼美は「身体を売ったらサヨウナラ」で、母親の反対があったといい、反対することが親の愛情表現だという。しかし、子供の選んだ人生に、親は反対してはいけない。ましてや勘当などとんでもないことだ。親と子供がぶつかった時、90パーセントの確率で子供が正しい。かつて婚前交渉は否定されており、妊娠でもしようものなら世間に顔向けができないと、親子の縁を切るとか言ったものだ。それが今ではデキ婚が半分近いと言うではないか。

 AVに限らず風俗で働くことは、差別的な偏見にみちた視線に晒される。不特定多数の男性と性的な関係をもつと、ふしだらな女として蔑視の対象になる。ましてや不特定多数とセックスしていることを公言すると、平穏な市民生活がおくれなくなる。水商売に従事する女性だって、性的にふしだらだという偏見にさらされ、健全な市民とは認められないことが多い。

 最近では健全な市民像が崩れてきたが、かつては会社勤めの男性とその妻という組み合わせが、健全な市民=気質の人間だった。つまり特定の相手としかセックスをしないことをもって、健全な市民と見なしていた。いうまでもなく健全な市民像とは、戦後の核家族政策によりセックスを家庭内に閉じ込めて、それ以外のセックスは間違ったものだというイデオロギーに支えられていた。

 核家族理念はひとえに女性に経済力を与えない政策で、稼げない女性は結婚という形で男性に頼らざるを得なかった。その時、養ってもらう代償として、女性が差し出したものが処女であり貞操だった。しかし、女性に経済力が付いてきて、男性に頼る必要性が下がってきたので、処女も貞操も守る必要がなくなってきた。

 健全な家庭で育った鈴木涼美は、稼ぐ方法を身につけて社会に出た。そのため、彼女はAV女優であったことを古傷と考えているようである。だが、紗倉まなは母子家庭育ちだからか、学校を卒業したら稼ぐことが当たり前だったのだろう。おそらく大学院にいって、無駄飯を食うことなど考えもしなかったに違いない。素直にいまAV女優であることを主張している。

 いまや女性が処女や貞操を売らなければ食えなかった=結婚して養って貰う必要がなくなった。良い時代になったものだ。しかし、セックスは身体でするものだから、心の動きと結びついている。いくら仕事と割り切っても、身体は心に影響を与えてくるはずである。

 自分が愛しているわけでもない男性とセックスをすることは、きっと辛いことですよね。でも、辛いと思ってしまった時点で、それは一瞬にして仕事ではなくなってしまうわけなんです。そこはしっかりと、作品を作るということに重点的に意識をおいて、一時的な愛情をつくる。そして、カットの声がかかると、すっと好意を消す。………あれ、なんだか私って、冷たいのかしら(笑)。P66

 AV女優という職業に誇りを持っていたとしても、世間から見れば「プライベートでも誰とでも簡単に寝る」なんていうネガティブなイメージが付きまとっていることは否めないんですよね。プライベートでのセックスの充実度なんて、人によりけりなんですけどね……。そこまでの理解に達していないのが現実です。P67


 なかなか厳しい線引きをやっているが、仕事とプライベートの区別が付かない周囲に対する苛立ちはよく伝わってくる。どんな職業でも、職業特有のイメージで見られるものだ。しかし、性産業に関しては、男女の身体に非対称性があるので、きわめて歪んだ視線で見られてきた。この視線は簡単には消えないだろうが、紗倉まなのような存在が徐々に壊していくだろう。

 世界の女性達は、職業を求めて家庭からでていった。女性に何ができるかという視線を撥ね除けたのは、専業主婦ではなく職業についた女性達だった。どんな世界でも、先蹤者は風当たりが強いものだが、先蹤者がいたから我々の今がある。

 性産業従事者のカムアウトは、ゲイのカムアウトと似ている。性産業従事者だと打ち明けた途端に、周囲の人間は特別な視線で見るようになる。我が国のゲイは、なかなかカムアウトしないが、性産業従事者は徐々にだがカムアウトしているように感じる。
 筆者はAV男優にも温かい視線を向ける。

 一日中現場で撮影といってもずっとセックスをしているわけでもなく、セットチェンジ(カメラの機材などを別室に入れ直したりすることです)もあるので、待機している時間もたくさんあるんです。中には男優さんの「勃ち待ち(業界用語)」という待ち時間も……。
 「人前で勃起させてベストなタイミングで射精をする」なんて、もはや神の領域に達している男優さんなのですが、もちろん調子が悪い時もあります(人間だもの)。
 男性器が完全体になるまでのチャージ時間がかかってしまうことを勃ち待ちといい、アダルト業界内ではよく使われるワードでもあります。精神面とも繋がっているといわれている男性器。普通に考えてみれば、人に見守られている状況で勃起させるなんてすごいことですよね(私が逆の立場だったら絶対にできないです)。P81


 行間から筆者の余裕を感じる。差別的な視線と戦いながら、大学フェミニストのような干からびた臭いは全くしない。「好きではない人とのセックスを仕事として割り切ることができる」という筆者は、やはり新しい時代の旗手なのだろう。若い時代、行けるところまで走り続けて欲しい。

 AVへの出演強要被害が社会問題化して、AV業界では<権利の保障を追求する組織の創設>が宣言されたりして、AVの健全化が始まっている。出演者の人権に配慮されるのは当然のことだ。しかし、もっとも必要なことは、紗倉まなのような社会に正対して発言する人の存在だろう。筆者に続くような女優や男優が現れてこそ、差別的な視線が薄れていくに違いない。

 女性の身体やセックスに値段が付いたのは、工業社会の核家族を守るためだった。核家族から単家族への転換が進んでいるので、今後、女性の身体やセックスの貨幣価値が、どんどんと下がって行くであろう。風俗などの性産業は、女性なら誰にでも勤まるものではなく、生き残れるのは自分を上手く演出できる女性だけだろう。

 女性が身体を売るのは、一種のセイフティネットだと言われたが、それは核家族をつくることが健全な市民だったからだ。核家族はもはや標準世帯ではない。だから、女性が身体を売ることで稼ぐことは難しくなる。AV業界も同様である。紗倉まなのような特別の才能の持ち主でなければ、AV女優は勤まらなくなっていくだろう。そして、AV女優であること隠さなくても、生きていける社会が来ている。
(2018.3.28)
 感想・ご意見・反論など、掲示板にどうぞ
参考:
伊藤友宣「家庭という歪んだ宇宙」ちくま文庫、1998
永山翔子「家庭という名の収容所」PHP研究所、2000
J・S・ミル「女性の解放」岩波文庫、1957
イヴォンヌ・クニビレール、カトリーヌ・フーケ「母親の社会史」筑摩書房、1994
田中美津「いのちの女たちへ」現代書館、2001
末包房子「専業主婦が消える」同友館、1994
梅棹忠夫「女と文明」中央公論社、1988
まついなつき「愛はめんどくさい」メディアワークス、2001
J・S・ミル「女性の解放」岩波文庫、1957
ベティ・フリーダン「新しい女性の創造」大和書房、1965
ジェーン・バートレット「「産まない」時代の女たち」とびら社、2004
楠木ぽとす「産んではいけない!」新潮文庫、2005
山下悦子「女を幸せにしない「男女共同参画社会」 洋泉社、2006
シンシア・S・スミス「女は結婚すべきではない」中公文庫、2000
シェア・ハイト「女はなぜ出世できないか」東洋経済新報社、2001
三砂ちづる「オニババ化する女たち」光文社、2004
鹿野政直「現代日本女性史」有斐閣、2004
ジャネット・エンジェル「コールガール」筑摩書房、2006
水田珠枝「女性解放思想史」筑摩書房、1979
細井和喜蔵「女工哀史」岩波文庫、1980
サラ・ブラッファー・フルディ「女性は進化しなかったか」思索社、1982
赤松良子「新版 女性の権利」岩波書店、2005
マリリン・ウォーリング「新フェミニスト経済学」東洋経済新報社、1994
ジョーン・W・スコット「ジェンダーと歴史学」平凡社、1992
モリー・マーティン「素敵なヘルメット」現代書館、1992
R・J・スミス、E・R・ウイスウェル「須恵村の女たち」お茶の水書房、1987
荻野美穂「中絶論争とアメリカ社会」岩波書店、2001
山口みずか「独身女性の性交哲学」二見書房、2007
ヘンリク・イプセン「人形の家」角川文庫、1952
スーザン・ファルーディー「バックラッシュ」新潮社、1994
斉藤美奈子「モダンガール論」文春文庫、2003
光畑由佳「働くママが日本を救う!」マイコミ新書、2009
奥地圭子「学校は必要か:子供の育つ場を求めて」日本放送協会、1992
フィリップ・アリエス「子供の誕生」みすず書房、1980
伊藤雅子「子どもからの自立 おとなの女が学ぶということ」未来社、1975
ジェシ・グリーン「男だけの育児」飛鳥新社、2001
熊沢誠「女性労働と企業社会」岩波新書、2000
ミレイユ・ラジェ「出産の社会史まだ病院がなかったころ」勁草書房、1994
信田さよ子「母が重くてたまらない」春秋社、2008
匠雅音「核家族から単家族へ」丸善、1997
ミシェル・ペロー編「女性史は可能か」藤原書店、1992
マリリン・ヤーロム「<妻>の歴史」慶應義塾大学出版部、2006
ジャーメン・グリア「去勢された女」ダイヤモンド社、1976
シモーヌ・ド・ボーボワール「第二の性」新潮文庫、1997
亀井俊介「性革命のアメリカ」講談社、1989
イーサン・ウォッターズ「クレージ・ライク・アメリカ」紀伊國屋書店、2013
岩村暢子「変わる家族、変わる食卓」中央公論新書、2009
中村淳彦「日本の風俗嬢」新潮新書、2014
紗倉まな「高専生だった私が出会った世界でたった一つの天職」宝島社、2015  

「匠雅音の家族について本を読む」のトップにもどる