匠雅音の家族についてのブックレビュー      ゲイ・アイデンティティ−抑圧と解放|デニス アルトマン

ゲイ・アイデンティティ
抑圧と解放
お奨度:

筆者 デニス アルトマン(Dennis Altman)   岩波書店 2010年 ¥3800−

編著者の略歴− ラ・トロープ大学人文社会科学部教授(オーストラリア).元アジア太平洋エイズ学会長など.邦訳された著書に『グローバル・セックス』 (岩波書店).Email:d.altman@latrobe.edu.au

 1971年に初版が上梓された本書は、ゲイ関係のもっとも初期の文献といっても良い。
日本語版は1993年に再販されたものを、2010年になって翻訳したものだ。
1943年生まれの筆者は、世代的にボクと近いこともあり、論調は馴染みやすい。

 ゲイの運動は1969年以前にもあったが、1969年の<ストーンウォールの反乱>が、ターニングポイントになったことは間違いない。
最近の我が国では、クイア理論へと向かっているらしいが、昔を知るものにとってゲイ解放理論は懐かしい。
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 本書は、黒人解放運動や女性解放運動などから、ゲイ運動が影響を受けたといっている。
そうだろう。
当時の解放運動は、きわめて広範囲なもので、政治はもちろん文化まで、多くの根元的な問を発していた。
1970年当時を知るボクには、本書のスタンスは基本的に賛同できるものだ。

 冒頭に<日本語版への序文>が書かれ、そのなかに次のようにある。

 クイアセオリーは今なおアメリカの大学に存在し、少数の興味深い学術雑誌を発行することで生きのびているが、もはやセックスとジェンダーに関する思想の最先端ではないように思われる。HIV/エイズをめぐる国際的な理解や言説にとって、クイアセオリーがいかに影響を持たなかったかは注目に値する。P Xii

 ボクがフランス現代思想に違和感を感じるから、その流れをひくクイア理論にも違和感を感じている。
そんなボクだから、異性装者に冷たかったりする筆者のスタンスには、とても共感できる。
また、ケイト・ミレットの「性の政治学」に、しばしば論及しているのも好感がもてる。

 1970年頃までのアメリカで、ゲイたちがいかに苦闘してきたか。
筆者はオーストラリア人だが、同時代のアメリカを経験している。
行間から当時のアメリカが匂ってくるようだ。
その頃から、すでにクルージングの場所があった。
日本人は若く見られるから、ホモの対象になりやすく、ボクも何度か誘われた。

 当時のアメリカで、ゲイの置かれた環境を思うと、厳しかったと言わざるをえない。
ゲイ解放にかぎらず、アメリカにおける解放運動が厳しいものだったのだ。
黒人解放運動が公民権運動になったので、ゲイ解放は中産階級の運動となり、裕福さを獲得していったのだろうか。

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 現実には、黒人のゲイとか、貧乏な人にもゲイはいるが、先進国のゲイは裕福なイメージである。
1970年頃は、女性同性愛もゲイと呼ばれており、まだレズビアンという言葉は一般化していなかった。
それだけに、男性ゲイが背負ってきた苦難が偲ばれる。

 女性同性愛者は、同性愛と異性愛の両方から、二重に抑圧を受けていると、筆者は理解を示す。
黒人運動や女性解放運動は、制度的な獲得目標があった。
しかし、ゲイの場合、意識改革に向かいやすく、ファッシズムに脱する危険性が高い感じがする。
ゲイたちはどんな社会をめざすのだろうか。
 
 (ゲイの)解放は、一瞬かつひそかな接触に価値が置かれているような、われわれが現在知るゲイ世界の終焉を意味する。また、解放は、同じ同性愛の男女間や同性愛者および異性愛者間の障壁の解体も含んでいる。男性性と女性性は截然と異なったカテゴリーではなくなるだろうし、レザーやドラァグ崇拝における役割演技という同性愛的パロディもなくなることが予期される。核家族は、それ以外のものすべてを逸脱とみなす規範ではなく、社会組織の可能な一形態にすぎないとみなされるようになる。このことは、ゲイヘの抑圧に対する終結だけではなく、一般的な意識における大きな変革を意味する。セクシユアリティは、いったん十分に受容されるようになれば、喜びに満ち、自発的に生じる、エロスに満ちたものとなるであろう。P134

 上記のように言う筆者に、多いに賛成する。
上記のように考えれば、ゲイがゲイへと閉塞していくこともない。
やはり問題は核家族へと戻ってくるのだ。
月曜日には女性とセックスし、火曜日には男性とセックスし、水曜日には両方とセックスする。
そんなことはない、と筆者は否定している。
それも当然である。
しかし、ゲイの解放とは、個人の意識変革なのだろうか。

 ゲイ解放は、近代西洋の産業社会のみに存在する現象であり、今日の女性解放運動と同じように、そうした国々のテクノロジーと社会的諸条件から生じたものである。ゲイ解放は最初にアメリカで生起して、それが同様の社会政治的基盤を持つ社会(たとえば、イギリス、オランダ、ドイツ、フランス、イタリア、オーストララシア、カナダ)に広がっていったのはそれほど驚くことではない。P203

 この認識が、本書を支える基本であり、類書と明らかな違いを示すものだろう。
まったく異議なく賛成する。
しかも、筆者は、同性愛者はあらゆる社会に存在すると認めている。
つまり、ゲイは必ずしも同性愛とは重ならないのだ。

 途上国では、ラディカルな同性愛運動は存在できないと言う。
ラディカルな同性愛がゲイであり、ラディカルではない単なる同性愛はホモなのだ。
明らかにゲイと男色=ホモの区別を含んでいる。
ゲイとホモの区別をいうと、政治的にゲイ運動にマイナスになる。
政治的に口にできないから、こうした表現になるのだろう。
仲間への優しい心遣いを感じる。
 
 日本では(三島由紀夫の小説に明らかなように)強い自己意識を持つ同性愛世界と西洋化された経済政治システムの双方があるにもかかわらず、わたしの知る限りでゲイ運動はないからである。P203
 
 1971年段階とはいえ、上記のように言われてしまった。
我が国のゲイは、一体どうするのだろう。
世界のゲイ事情は、1971年当時とはまったく違う。
すでにゲイの結婚も一部では解禁され、ゲイであることを名乗る政治家も現れている。
我が国では、いまだホモとゲイの区別さえつかないようだし、区別したくないようだ。

 蛇足ながら、筆者は自分のメールアドレスや大学の電話番号を、ネット上に公開している。
本書を翻訳をした人たちは、アドレスを公開しているのだろうか。
クイア・スタディーズ」の筆者も、本書の翻訳に参加している。  (2010.11.24) 
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参考:
早川聞多「浮世絵春画と男色」 河出書房新社、1998
松倉すみ歩「ウリ専」英知出版、2006年
ポール・モネット「ボロウド・タイム  上・下」時空出版、1990
ジェシ・グリーン「男だけの育児」飛 鳥新社、2001
伊藤文学「薔薇ひらく日を 薔薇族と 共に歩んだ30年」河出書房新社、2001
モートン・ハント「ゲイ:新しき隣 人たち」河出書房新社、1982
リリアン・フェダマン「レスビアンの歴史」 筑摩書房、1996

尾辻かな子「カミングアウト」講談社、 2005
伏見憲明+野口勝三「「オカマ」は差別か」 ポット出版、2002
顧蓉、葛金芳「宦官」徳間文庫、2000
及 川健二「ゲイ パリ」長 崎出版、 2006
礫川全次「男色の民俗学」 批評社、2003
伊藤文学「薔薇ひらく日を」河出書房 新社、2001

リリアン・フェダマン「レスビアンの歴史」 筑摩書房、1996
稲垣足穂「少年愛の美学」河出 文庫、1986
ミシェル・フーコー「同性愛と生存の美学」 哲学書房、1987
プラトン「饗 宴」岩波文庫、1952
伏見憲明「ゲイという経験」ポット出 版、2002

東郷健「常識を越えて オカ マの道、70年」 ポット出版、2002
ギルバート・ハート「同性愛のカルチャー研究」 現代書館、2002
早川聞多「浮世絵春画と男色」 河出書房新社、1998
ジェシ・グリーン「男だけの育児」飛 鳥新社、2001
神坂次郎「縛られた巨人」 新潮文庫、1991
風間孝&河口和也「同性愛と異性愛」 岩波新書、2010
匠雅音「核家族か ら単家族へ」丸善、1997
井田真木子「同性愛者たち」文芸春秋、1994
編ロバート・オールドリッチ「同性愛の歴史」東洋書林、2009
ミッシェル・フーコー「快楽の活用」新潮社、1986
アラン プレイ「同性愛の社会史」彩流社、1993
河口和也「クイア・スタディーズ」岩波書店、2003
デニス・アルトマン「ゲイ・アイデンティティ」岩波書店、2010

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