匠雅音の家族についてのブックレビュー      私はトランスジェンダー|宮崎留美子

私はトランスジェンダー お奨度:

筆者 宮崎留美子(みやざき るみこ)   株)ねおらいふ 2000年 ¥1500−

編著者の略歴− (女性名)宮崎留美子  年齢は秘密.九州生まれ。高校まで九州で過ごす。高校卒業後、札幌市にある国立大学にすすむ。現在、某地方の高校で社会科を教えている。趣味は、「宮崎留実子のホームページ」を充実させること。アクセス数の伸びに元気づけられ、積極的に取り組んでいる。ラウンジで飲んだカクテルを自分でつくったりするのも好き。ミノルタカメラのCMで一世を風靡した宮崎実子(現、淑子)のような女性にあこかれたものの、なかなか近づくことができないことを自覚し、現在に至る。

 同性愛は性指向の問題で、性同一性障害は性自認の問題だ、と理解はされるようになった。
しかし、同性愛の中身はいまだに曖昧なままだし、性同一性障害の中身も曖昧なままだ。

 本書は、パートタイムの女装者の体験記である。
三橋順子「女装と日本人」が、自己の体験をもとにして、芸能や水商売の世界を扱ったのに対して、
本書は現役の高校教師の体験談である。
しかも、筆者はふつうの女性と結婚して、男の子を1人もうけている。

 週日は学校の社会科の教員をしている。
ここでは完全に男性モードで過ごしており、土日の週末だけ女装して過ごしている。
結婚後に女装趣味を奥さんに打ち明けたのだそうで、当然のこととして大問題になった。
子供もいるしと言うことで、離婚にはならなかったが、女装は家の中に持ちこまないということで、奥さんと妥協が成立したらしい。
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 この筆者の場合も、三橋順子と同じく、あくまで女装趣味であり、男性器を切断したりはしていない。
しかし、奥さんには女装趣味はなかなか理解されない。
筆者は女装のためのアパートを借りて、そこで男性から女性への変身をしている。

 女装趣味をトランスジェンダーということには、筆者も矛盾を感じている。
つまり、男性である自己が女性に変身するのは、女性というステレオタイプが想定されるからであり、筆者自身が男性性と女性性を意識しているからだ。
男性でも女性でも良いじゃないかという、緩い性別規範をもっていれば、何も性別を変えようとはしない。

 トランスジェンダーたちは自分のなかに、男性とはこうだ、女性とはこうだという規範を強くもっているから、違和感を感じてしまうのだ。
筆者は奥さんとのあいだにある、次のような感覚を語っている。
 
 私の性のありようにかかわって、私とパートナーとの間に、かなりの確執があるのも、もうひとつの面だ。
 私はまだいいほうだ。離婚し、家庭が崩壊してしまった人も何人か知っている。それでは、結婚などしなければいいじゃないかと言われることもある。理屈はそうなのだが、これがけっこう難しい。
 ある程度の歳になれば、親はもとより、周りの親族からも、結婚への圧力が強まるのはみなさんもご存知だろう。孫がほしいという親の素朴な気持ちにも心は揺れる。P95


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 ここが筆者の女装が、趣味にとどまる所以だろう。
この趣味性を、三橋順子は古典芸能などに求めて、正当化している。
しかし、結婚は相手があるものだから、相手がその趣味を受け入れないと言えば、破綻するのは当然である。
異性装を認める相手としか、結婚できないのもまた当然である。

 親の問題を持ちだすのは狡いだろう。
何も女装趣味だけではなく、親の意に反する行動はいくらでもある。
親の意に従おうとすれば、平凡な人生を歩けばいいのだ。
自分の生き方を貫けば、親という保守的な生き物と衝突するのは当然である。
孫が欲しいという親の気持ちを斟酌するのなら、女装趣味をみとめる相手と結婚すべきである。

 ホモが結婚をカムフラージュにするが、女装趣味も結婚をカムフラージュにしてきた。
世情が性別規範に緩くなってきたので、三橋順子や筆者のような立場が、許されるようになっただけだ。
本書を読んで、筆者をトランスジェンダーと感じるより、女装趣味者だと思う。

 TV(トランス・ヴェスタイト)という言葉で、女装を人権として正当化する人がいるが、女装はやはり趣味だろう。
もちろん趣味だから認めないなどと言っているのではない。
人と違う趣味だって、心の安定が得られるなら、多いに趣味に耽溺すべきだと思う。
趣味を理由に差別される謂われはない。

 大切なのは、あなたらしく、自分らしく生きることだと言うが、人間存在は関係性の中にある。
自分らしくという具体性だけが、どくりつして存在することはない。
自己は他者を鏡として自己認識する。
だから人間の意識は、関係のなかに成立するのであり、自分らしくをここまで敷衍するのは、ちょっと疑問に思う。
やはり女装趣味者だと思う。

 趣味を通り越したところにあるのが、性同一性障害による性転換だろう。
性器を取りさることを、入れ墨と同様に考えるのは、ちょっと難しい。
男性から女性にしても、女性から男性にしても、性器を取りさってしまうと、もう戻れない。
そこまでする行為を、趣味というには余りに重大である。

 性転換手術をともなう性同一性障害については、ディアドラ・N・マクロスキー「性転換」、虎井ま さ衛「ある性転換者の記録」、吉永みち子「性同一性障害」、上川あや「変え てゆく勇気」や杉山文野「ダブルハッピネス」を参照して欲しい。  (2010.10.27) 
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参考:
岡田秀子「反結婚論」亜紀書房、 1972
フランチェスコ・アルベローニ「エロティシズム」中央公論 1991
ジョルジュ・バタイユ「エロスの涙」ちくま学芸文庫、2001
佐藤哲郎「性器信仰の系譜」三一書房、1995
アンドレア・ドウォーキン「インターコース」青土社、1989
カミール・パーリア「セックス、アート、アメリカンカルチャー」河出書房新社、1995
シャノン・ベル「売春という思想」青弓社、2001
シャノン・ベル「セックスワーカーのカーニバル」第三書館、2000
アラン・コルバン「娼婦」藤原書店、1991
曽根ひろみ「娼婦と近世社会」吉川弘文館、2003
アレクサ・アルバート「公認売春宿」講談社、2002
バーン&ボニー・ブーロー「売春の社会史」筑摩書房、1991
編著:松永呉一「売る売らないはワタシが決める」ポット出版、2005
エレノア・ハーマン「王たちのセックス」KKベストセラーズ 2005 
高橋 鐵「おとこごろし」河出文庫、1992
正保ひろみ「男の知らない女のセックス」河出文庫、2004
ロルフ・デーゲン「オルガスムスのウソ」文春文庫、2006
ロベール・ミュッシャンプレ「オルガスムの歴史」作品社、2006
菜摘ひかる「恋は肉色」光文社、2000
ヴィオレーヌ・ヴァノイエク「娼婦の歴史」原書房、1997
ジャン・スタンジエ「自慰」原書房、2001
ジュリー・ピークマン「庶民たちのセックス」KKベストセラーズ、2006
松園万亀雄「性の文脈」雄山閣、2003
ケイト・ミレット「性の政治学」ドメス出版、1985
謝国権「性生活の知恵」池田書店、1960
山村不二夫「性技−実践講座」河出文庫、1999
ディアドラ・N・マクロスキー「性転換」文春文庫、2001
赤川学「性への自由/性からの自由」青弓社、1996
佐藤哲郎「性器信仰の系譜」三一書房、1996
ウィルヘルム・ライヒ「性と文化の革命」勁草書房、1969
田中貴子「性愛の日本中世」ちくま学芸文庫 2004
ロビン・ベイカー「セックス・イン・ザ・フューチャー」紀伊國屋書店、2000
酒井あゆみ「セックス・エリート」幻冬舎、2005  
大橋希「セックス・レスキュー」新潮文庫、2006
アンナ・アルテール、ベリーヌ・シェルシェーヴ「体位の文化史」作品社、2006
石川弘義、斉藤茂男、我妻洋「日本人の性」文芸春秋社、1984 
石川武志「ヒジュラ」青弓社、1995
村上弘義「真夜中の裏文化」文芸社、2008 
赤松啓介「夜這いの民俗学」明石書店、1994
岩永文夫「フーゾク進化論」平凡社新書、2009
ビルギット・アダム「性病の世界史」草思社、2003
メイカ ルー「バイアグラ時代」作品社、2009
イヴ・エンスラー「ヴァギナ・モノローグ」白水社、2002
橋本秀雄「男でも女でもない性」青弓社、1998
エヴァ・C・クールズ「ファロスの王国」岩波書店、1989
岸田秀「性的唯幻論序説」文春文庫、1999
能町みね子「オカマだけどOLやってます」文春文庫、2009
レオノア・ティーフアー「セックスは自然な行為か?」新水社、1988
井上章一「パンツが見える」朝日新聞社、2005
吉永みち子「性同一性障害」集英社新書、2000
三橋順子「女装と日本人」講談社現代新書、2008
宮崎留美子「私はトランスジェンダー」株)ねおらいふ、2000

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