編著者の略歴−1943年熊本生まれ。九州大学教育学都卒業、同大学大学院教育学研究科博士課程中退。現在安田女子大学教授。専攻:社会学(家族社会学・福祉社会学).父子家庭、不登校、障害者・高齢者介護の問題を迫究する。著書に、『父子家庭を生きる−男と親の間』『介護とジェンダー−男が看とる女が看とる』『介護にんげん模様−少子高齢社会の「家族」を生きる』『いま家族とは』(共著)等。 1994年に出版され、2000年になって現代文庫に収録されたものである。 現代文庫版あとがきには、1990年前後に書いたものであるとあるから、初出からは25年もたっていることになる。 家族の個別的な事例を、筆者の感想を交えながら綴ったもので、当時の雰囲気をよく伝えている。
1943年生まれの筆者とすれば、本書のような感想は当然だろう。 戦後の貧しかった時代、誰でもが生きることそれ自体に必死だった。 親たちだって自分が生きることに精一杯で、子供の育て方に斟酌しているヒマはなかったろう。 とにかく食べさせて、中学をだしてやれば充分だった。 筆者の子供時代には、大学進学率は10%程度だったはずで、筆者のように大学まで進学させるのは大変だったろう。 しかも、筆者は女性である。 女に学問は不要といわれた時代、貧しい中での進学には、大きな困難があったはずである。 貧しい時代には、誰も生きることになど悩みはしない。 生きることに悩むのは、食べることには事欠かないようになった豊かな社会だからである。 貧しかった社会では、子供はほっておかれた。 それでも子供は育った。 しかし、豊かな社会では、そうはいかない。 親が子供をほっておかないのだ。 貧しさから脱しようとすれば、肉体労働者ではなく会社員や医者といった、デスクワーカーにならなければならない。 現場労働者では高給取りにはなれないと知った親たちは、子供たちには高等教育を与えようとした。 そのため、子供たちを受験戦争へと叱咤激励したのである。
高度成長経済の中で性別役割分業が浸透し、親たちは豊かさと安定した生活を手に入れた。 そうしたなかで、親たちの関心は子供を出世させることに注がれたので、家庭は子供中心になっていった。 「子ども中心」=「教育中心」の現代家族。そこでは、子どもを首尾よく一人前の大人に育てあげることが、親の最重要課題である。子どもが世間並の基準からはずれると子育てに失敗した「駄目な親」、高い評価を受ければ「立派な親」。子どものできの良し悪しは、即、親の社会的評価につながる。 そういう社会では、親が親としての自負を持てば持つほど、子どもへの愛の名において、子育てがナルシシズムとしての親の自己愛の発現の場になりかねない。P25 いわば親の自己満足のために、子供を育て始めたのである。 性別役割分業に従った家族では、父親が稼ぎに精をだし、母親が子育ての専従者になった。 しかし、当時の親たちはまだ古い家族制度の親子意識が抜けていなかった。 そして、高等教育を与えた後の子供の人生には、何の方向性も見いだしてはいなかった。 筆者はこうした社会背景のなかで生じてきた家族の事件を記述していく。 大家族の時代なら長男だけが家督を相続したから、家の責任も長男だけが引き受けた。 もちろん年老いた親の面倒を見るのは、長男夫婦の義務である。 戦後の民法では、子供は全員が平等である。 財産は均等に分割して相続する。 しかし、親は分割するわけにはいかないから、誰かが引き受けることになる。 年老いた親の介護を巡って、家族は大きな騒動を引き起こしていた。 2000年までの状況は、本書が書いているとおりだろう。 2000年に介護保険制度が導入されて、民間の力が入って事情は随分と変わってきた。 かつてに比べて施設がたくさんでき、必ずしも家族だけで介護に当たらなくても済むようになった。 また、親を施設に預けることにも、社会的・心理的な抵抗がずっと減ってきた。 それでも介護を担当するヘルパーへの、家族愛的な要求がでたり、妙な家族意識が露出してくることがある。 そうした事情を見ながら、筆者は次のようにいう。 家族のなかの「弱者」である子どもや高齢者に寄り添う視点は、容易に、親や介護者に対する過大な「家族愛」の要求につながってしまう。「弱者」の生を豊かに保障しょうとするとき、それが親や介護者から「過大な家族愛」を搾取する視点に転じないようにするためには、家族が「家族愛」を育みうる社会的文化的条件こそ保障されていかなければならない。P225 筆者は気付いているかどうか判らないが、弱者という視点はきわめて危険なのだ。 かつて女性が弱者といわれてきた。 そして、弱者の視点からの女性論が、たくさん提起されてきた。 本書の指摘を男女関係に置きかえてみると、<弱者>である女性に寄り添う視点は、容易に、男性に対する過大な<夫婦愛>の要求につながってしまう、となる。 具体的な現実から、分析の糸を紡ぎ出すのはもちろんだが、そこで止まっていては徒労である。 家族の機能が低下したのではなく、かつてのような大家族は因習に満ちており、家族全員の犠牲の上に成り立っていた。 しかし、生産力が低かった時代には、大家族しか選べなかったのだ。 工業社会から情報社会へと転じる今、個人を個人のままで尊重するシステムをつくることだ。 少なくとも大家族より核家族のほうが優れており、より多くの人が幸福になれた。 とすれば核家族から単家族へと転じるために、社会の制度を整備すべきなのである。 (2013.1.29)
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