匠雅音の家族についてのブックレビュー   クレージ・ライク・アメリカ−心の病はいかに輸出されたか|筆者 亀井俊介

クレージ・ライク・アメリカ
心の病はいかに輸出されたか
お奨度:

筆者 イーサン・ウォッターズ  紀伊國屋書店  2013年 ¥2000−

編著者の略歴−アメリカのジャーナリスト。『ニューヨーク・タイムズ・マガジン』や『ディスカバー』、『Wired』などに執筆。著書に、『Urban Tribes: A Generation Redefines Friendship,Family,and Commitment』、共著に、『Making Monsters:FalseMemories,Psychotherapy,and Sexual Hysteria』ほかがあり、年度ごとに刊行される『Best American Science and Nature Writing』シリーズにもエッセイが収録されている。また、サンフランシスコに「作家のための洞窟(Writer's Grotto〉」というワークスペースを設立、ライティングの講師もつとめる。
 文明の進んだ社会、言い替えると近代化が進んだ社会は、圧倒的な力を持っている。
経済力はもちろん軍事力も、途上国が束になっても対抗するのは難しい。
そのうえ、文化的にも進んでいると、途上国から思われている。
だから、ハリウッド映画は世界中で見られるのだし、アップルの製品が熱狂的に迎えられるのだ。

 我が国は今でこそ先進国の仲間入りをしているようだが、つい暫く前までは西洋諸国から文物を輸入してきた。
その結果、今では西洋諸国とよく似た文明をつくっている。
しかし、男尊女卑など文化的な面では古いものが残り、いわゆる西欧先進国とはいささか違う様相をもっている。
固有の伝統文化といって、日本の独自性を強調するのは保守派だけではない。

 文明では西洋に対抗できなかったので、文明=物質と、精神=文化に分けて考え、物質面では負けたが精神面では負けなかったという人がいる。
しかし、両者は緊密に支え合っており、本来からすると物質と精神とは、分けることができなかったはずである。
たとえば、日本刀という物質は、日本の精神によって作られた。
中国の精神は青竜刀を作ったのだ。

 物質的な面と精神的な面に分けて考えるのが、最近では普通になっている。
実はこの考え自体、デカルトの心身二元論などに影響を受けている。
それでも百歩譲って、物質的な面は地球上のどこでも同じ法則が支配している、と見なしてみよう。
それを科学と呼ぶのだから。

 医学も科学であった。おそろしい伝染病も科学的な西洋医学によって克服されてきた。
東洋にも医学はあったが、伝染病にはあまり役に立たなかった。
我が国のコレラの流行を止めたのは西洋医学だった。
それ以来、我が国では医学というと、西洋医学を指すようになった。

 本書は精神的な病も、科学の名の下に、西洋医学が世界中に進出する様子を批判したものだ。
西洋文明は難病を科学の力を持って克服してきた。
西洋医たちは人々を苦痛から救うために、誠心誠意に努力をしている。
そのまじめな努力が、精神病の克服には害悪になっていると筆者はいう。
それを例証するために、次の4つの例を示す。

1.香港で大流行する拒食症
2.スリランカを襲った津波とPTSD
3.変わりゆくザンジバルの統合失調症
4.メガマーケット化する日本のうつ病


 精神疾患は時代と相関関係がある。
19世紀ヨーロッパを襲ったヒステリーは、女性に特有に病気だったが、いつの間にか消えてなくなった。
我が国でも、自律神経失調症が流行ったのは30年前くらいだろうか。
しかし、今ではあまり聞かなくなった。

 精神疾患が時代と関係があるとすると、それぞれの社会とも固有の関係があるのではないだろうか。
精神疾患を治療する医学は、はたして科学と呼んで良いのだろうか。
数学や物理のように、純粋に論理だけを追って、精神疾患が治療できるのだろうか。
しかし、精神病の治療にも、グローバリゼーションの波が押し寄せている。

 拒食症という精神疾患の増加を理解するために、「近代家族の形成」を書いた歴史家のエドワード・ショーターの名前が本書に挙がっている。
ショーターは拒食症はポリオなどと異なり、その土地の文化とつながりがあると言っている。
彼はフェミニズムの女性論者から悪し様に言われたが、この部分を読む限り、どうも彼のほうが正しかったようだ。
 香港で激増した拒食症について、治療に当たったリン医師は次のように言う。

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 『DSM』や欧米の診断分類が幅をきかせていった過程で、患者個人の病気の体験を形づくるミクロな文化が打ち捨てられつつあります。これは世界中で起きている現象で、拒食症だけではなく、うつ病や注意欠陥多動性障害(ADHD)や心的外傷(トラウマ)といったほかの疾病でも同じです。残念ながら、比較文化精神医学の分野は、精神医学の主流に影響を与えるほどにはなっていません。正直にいって、まったく興味を持たれていないようです。P78

 2004年、スリランカに津波があった時に、スリランカに住んでいたアメリカ人の心理学者フエルナンドは次のように言う。

 フエルナンドは、スリランカ人のトラウマ体験が大きく二つの点でアメリカ人のものとは異なる、という結論にいたった。PTSDの症候学で言われているのとは違い、津波で家族を失うなど悲しい目に遭った人が、関節痛や筋肉痛や胸の痛みを訴えるなど、スリランカ人は恐ろしい出来事のあとに身体的症状を呈することが多かった。欧米人のような心身二元論とは異なり、スリランカ人は身体に衝撃を受けたかのように災害に反応するのだ。
 以上のような身体的症状に加えて、もっと細かな違いもあった。スリランカ人は、トラウマに対してPTSDの症状チェックリストにあるような心の状態(不安、恐怖、無感覚など)に沿った病的反応を、概して起こさない。むしろ、今回の津波のような出来事で結果的にマイナスとなるのは、それが社会的な関係性を壊す点にあった。恐怖体験のずっとあとまで苦しみつづけている人は、社会的なつながりから孤立した人や、親族のなかでうまくやっていけなくなった人だということが彼女の調査からわかっている。要は、津波によって損なわれたのは、自分たちの心ではなく、社会環境である、と彼らが捉えているということだ。
P112

 PTSDのチェックリストには、スリランカ人が心の苦しみを体験する時につかう文化固有の方法が反映されていないという。
これではスリランカでは使えないだろう。PTSDはアメリカにおいて公式に認められて、たかだか30年くらいの歴史しかない。
しかもその間、内容が何度も変わっている。
当サイトでは、矢幡洋の「怪しいPTSD」を取り上げているように、PTSDに対しては必ずしも諸手を挙げて賛同しない。

 ザンジバルにおける統合失調症の例は、話がとても込み入っている。
要は西洋人たちは統合失調症を脳の個人的な故障だと見るので、ザンジバルにある患者と家族や社会の関係を切りかねないという。
ここでは宗教との関係も述べられており、社会と統合失調症砥の関係が詳述されている。
この部分は説明しにくいので、ここではこれ以上立ち入らない。

 次の例は日本である。うつ病の紹介に入る前に、我が国のPTSDについても触れている。

 阪神大震災後、欧米、特にアメリカが、PTSDやうつ病といった病的な心の状態の科学的理解においてはるかに進んでいるという世論が幅をきかせるようになった。日本が遅れているという危惧を受けて、広告やウェブサイトや待合室に置かれたパンフレットなどを通して、SSRIは最先端の医学の象徴であるという考えが宣伝された。脳内で自然分泌される化学物質のバランスを整えるSSRIの導入によって日本も時代に追いつくのだ、と。
 GSK社は日本の第一線の研究者や精神科医を味方につけるべく、躍起になってメッセージを送りつづけた。カーマイヤーが出席したような豪華絢爛たる会議は、ちょつとしたお礼にすぎなかった。製薬会社は、自社の薬を援護する研究に助成金を提供し、新薬に有利な結果を出した研究者は、気づけば研究費の助成の申し出を受けていた。当該の新薬が安全で効果的だと示した研究結果は喧伝され、研究者は顧問料をもらえることも多かった。さらに研究者は、製薬会社が後援する専門学会で話すことで謝礼を受けとった。
P273

 ここでは利益の拡大をのぞむアメリカ資本が、未開拓の日本に入るために、金にものを言わせている様子が描かれている。
しかし、問題は製薬会社の利益の追求にだけあるのではない。
我が国のほうでも、アメリカ式の精神分析を受け入れたほうが良い、と思い始めている。

 精神病というのは、各文化に固有のつながりがあり、それぞれの文化を切り離しては考えられない。
にもかかわらず、我が国は遅れているという理由で、文化的な背景の異なったアメリカの治療方法を受け入れる。
お金に良心を売ったという問題ではなく、文化と切断されたところで、精神を考えることが可能かという問題が捨象されている。

 筆者はアメリカ式の治療を異文化の患者に施すと、かえって症状が悪くなるといっている。
 
 グローバル化によって起こつた心理的ストレスを改善しようとして、最新の欧米のメンタルケア理論を提供しても、けっして解決にはならないのだ。なぜなら、それ自体が原因の一部でもあるからだ。治療に関する現地の考え方や、文化的に形づくられた自己の概念などの土台を壊すことで、欧米人は世界中にある心の苦しみの中心で、混乱や変化を加速させている。これは、繊維の奥深くに隠れた雑菌がもたらす被害を考えずに、病気の住民に毛布を手渡すに等しい。P301

 フロイト流の精神分析に端を発したとは言え、西洋諸国ではもはや精神分析は主流ではない。
西洋の精神医学は、今では薬剤の投与が中心な治療方法である。
かつてのような強固な身体的な社会的不適合だけではなく、ちょっと気分が優れないと言った症状まで、精神病扱いにしてしまう現代のアメリカ医学。
こうしたアメリカ医学に、いまや世界中が浸食されている。

 欧米人がほかの文化圏に輸出している考え方は、アメリカン・ブランドの超内観的[心的変化や精神状態を口頭で表現しようという考え]な超個人主義が中心となっていることが多い。これらはいまだに、デカルトの心身二元論やフロイトの意識と無意識の二元論に深く影響されており、一個人の健康と集団の健康を切り離して考えようと勧める自助哲学や、数ある心理療法の学派ともつながっている。脳機能に関する生物医学的かつ科学的な興味深い研究でさえ、心を、その背景となる社会や文化から切り離して扱っている。
P302

 上記のように言う筆者の気持ちは充分に理解する。
精神が形成されてくる過程は、その文化の中でなされるのだから、文化を切り離することができないはずだ。
にもかかわらず、PTSDのチェックリストは英語で書かれていたし、現地の人の症状とは適合しなかった。
外国語で精神を分析できるのだろうか。

  西洋文明を受け入れるところでは、部分的に選択して受け入れることはできない。
たとえば、我が国では絵画と言えば油絵であり、日本画ではない。
建築だって日本建築ではない。
大学では西洋建築しか教えていない。
もちろん着物を着ている人はほとんどおらず、ほぼ100%が洋服を着ている。

 精神を分析するという発言自体が、すでにアメリカ文化に浸食されている。
文明と文化は分けることができない。文明を受け入れたら、文化も浸食されることは覚悟しなければならない。
文化も充分に浸食されたから、我が国は先進国の仲間入りができたのだ。

 筆者の言う問題は、そのとおりだと思う。
しかし、文明とともに文化も、進んだほうから遅れたほうに流れるのは止めようがない。
文化という雑菌まみれの毛布を、我が国を初め途上国が喜んで受け入れるのだ。
雑菌の含まれた毛布を無菌化することは、受け入れる方がしなければならないのだろう。アメリカ文化を輸出するほうから、本書のような指摘が出るのは頭が下がる。
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参考:
伊藤友宣「家庭という歪んだ宇宙」ちくま文庫、1998
永山翔子「家庭という名の収容所」PHP研究所、2000
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J・S・ミル「女性の解放」 岩波文庫、1957
イヴォンヌ・クニビレール、カトリーヌ・フーケ「母親の社会史」 筑摩書房、1994
江藤淳「成熟と 喪失:母の崩壊」河出書房、1967
田中美津「いのちの女たちへ」現代書 館、2001
末包房子「専業主婦が消える」 同友館、1994
梅棹忠夫「女と文明」中央公論社、 1988
ラファエラ・アンダーソン「愛ってめんどくさい」ソニー・マガジ ンズ、2002
まついなつき「愛はめんどくさい」メディアワー クス、2001
J・S・ミル「女性の解放」岩波文庫、 1957
ベティ・フリーダン「新しい女性の創造」 大和書房、1965
クロンハウゼン夫妻「完全なる女性」河出書 房、1966
松下竜一「風成(かざなし)の女たち」現 代思想社、1984
モリー・マーティン「素敵なヘルメット職 域を広げたアメリカ女性たち」現代書館、1992
小野清美「アンネナプキンの社会史」 宝島文庫、2000(宝島社、1992)
ジェーン・バートレット「「産まない」時代の女たち」 とびら社、2004
楠木ぽとす「産んではいけない!」新 潮文庫、2005
山下悦子「女を幸せにしない「男女共同参 画社会」 洋泉社、2006
小関智弘「おんなたちの町工場」 ちくま文庫、2001
エイレン・モーガン「女の由来」どうぶつ社、 1997
シンシア・S・スミス「女は結婚すべ きではない」中公文庫、2000
シェア・ハイト「女はなぜ出世できないか」 東洋経済新報社、2001
中村うさぎ「女という病」新潮社、2005
内田 樹「女は何を欲望するか?」 角川ONEテーマ21新書 2008
三砂ちづる「オニババ化する女たち」光文社、 2004
大塚英志「「彼女たち」 の連合赤軍」角川文庫、2001
鹿野政直「現代日本女性史」 有斐閣、2004
ジャネット・エンジェル「コールガール」筑摩書房、 2006
ダナ・ハラウエイ「サイボーグ・フェミニズム」 水声社 2001
山崎朋子「サンダカン八番娼館」筑摩書房、 1972
水田珠枝「女性解放思想史」筑摩書房、1979
フラン・P・ホスケン「女子割礼」明石書 店、1993
細井和喜蔵「女工哀史」岩波文庫、 1980
サラ・ブラッファー・フルディ「女性は進化しなかったか」 思索社、1982
赤松良子「新版 女性の権利」岩波書 店、2005
マリリン・ウォーリング「新フェミニスト 経済学」東洋経済新報社、1994
ジョーン・W・スコット「ジェンダーと歴史学」 平凡社、1992
清水ちなみ&OL委員会編「史上最低 元カレ コンテスト」幻冬舎文庫、2002
モリー・マーティン「素敵なヘルメット」 現代書館、1992
R・J・スミス、E・R・ウイスウェル「須恵村の女たち」お茶の 水書房、1987
荻野美穂「中絶論争とアメリカ社 会」岩波書店、2001
山口みずか「独身女性の性交哲学」 二見書房、2007
田嶋雅巳「炭坑美人」築地書館、 2000
ヘンリク・イプセン「人形の家」角川文庫、 1952
スーザン・ファルーディー「バックラッシュ」新潮社、 1994
杉本鉞子「武士の娘」ちくま文庫、 1994
ジョンソン桜井もよ「ミリタリー・ワイフの生活」 中公新書ラクレ、2009
斉藤美奈子「モダンガール論」文春文 庫、2003
光畑由佳「働くママが日 本を救う!」マイコミ新書、2009
エリオット・レイトン「親を殺した子供たち」 草思社、1997
奥地圭子「学校は必要 か:子供の育つ場を求めて」日本放送協会、1992
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ジェシ・グリーン「男 だけの育児」飛鳥新社、2001
末包房子「専 業主婦が消える」同友館、1994
熊沢誠「女性労働 と企業社会」岩波新書、2000
ミレイユ・ラジェ「出産の社会史  まだ病院がなかったころ」勁草書房、1994
信田さよ子「母が重くてたまらない」春秋社、2008
匠雅音「核家族か ら単家族へ」丸善、1997
ミシェル・ペロー編「女性史は可能か」藤原書店、1992
マリリン・ヤーロム「<妻>の歴史」慶應義塾大学出版部、2006
ジャーメン・グリア「去勢された女」ダイヤモンド社、1976
シモーヌ・ド・ボーボワール「第二の性」新潮文庫、1997
亀井俊介「性革命のアメリカ」講談社、1989
イーサン・ウォッターズ「クレージ・ライク・アメリカ」紀伊國屋書店、2013

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