匠雅音の家族についてのブックレビュー    近代家族の形成|エドワード・ショーター

近代家族の形成 お奨め度:

著者:エドワード・ショーター−−昭和堂、1987年 ¥3、914−(絶版)

著者の略歴−アメリカ生まれで、カナダに帰化した社会史家。「女の体の歴史」勁草書房、1992
 1975年に出版されるや、本書は大きな非難を浴びた。
とりわけ、フェミニストやマルクス主義者からは、非難が殺到した。
現在でもフェミニストは本書を非難する人は多い。
しかし、本書のほうが正しかったことは、その後フランスのアナル派が台頭したことを見れば明らかである。
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近代家族の形成

 本書では、庶民階級の平均的な女性にとって、すくなくとも彼女たちの立場から みて、「資本主義」は全体として恩恵をもたらしたことが示されている。本書では、 多くの人びとが、性抑圧の世紀とされている19世紀に、伝統的な農村社会の強烈な性抑圧から解放されたことが示されている。

と、筆者がペーパーバック版への端書きで書いているとおり、資本主義を悪とする人たちからは徹底的に嫌悪された。
資本主義が男女差別を拡大したとしても、女性の環境はずっと良くなったのは事実である。
女性の環境が向上した以上に、男性の環境が向上したので男女差は開いたが、絶対的な女性の環境は向上している。
 つまり、資本主義によって全体が底上げされたので、女性も古い桎梏から解放された。
しかし、「女工哀史」などを持ちだして、資本主義は女性を抑圧したといって、通俗フェミニストたちはそれを認めない。
資本主義は女性だけを抑圧したのではないのに、彼女たちにはそれが分からないのである。

 筆者の立場は、前近代は立場が人間の行動を決めたのである。
近代になって初めて個人は解放されたのだ、と言っているに過ぎない。
だから、前近代の性関係は手段的つまり経済関係のためであり、近代のそれは愛情的だという。

 数世紀前には人びとは通常愛情ではなく財産やリネージのために結婚したこと、 夫婦が互いを思いやったり顔をつきあわす機会を最小限に抑え、まず生活を支えて いくためにこの冷淡な家族関係をむしろ大事にしたこと、そして、仕事の分担や性 役割を厳格にして、感情をでさるだけもたないようにしたことである。現代の夫婦なら、 表情豊かに振る舞い、抱擁しあい、見つめ合って互いの心を確かめるが、伝統社会 の夫婦には、そうした触れ合いはほとんどみられなかった。P56

 これを読むと、不思議に感じるかもしれない。
しかし、わが国の男女関係と近代化した国の男女関係を比べれば、それは一目瞭然であろう。
恋愛など近代の話で、前近代にあっては生きることが優先したのは、当然である。
最近でこそ、わが国の夫婦も愛情を云々するが、一時代前の夫婦を見ていれば、冷淡な家族関係を大切にしたのは素直に肯首できる。
筆者は、家族関係が冷淡だったと言ってはいない。
冷淡な家族関係を大事にした、という言葉をよく読むべきである。
 
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 私が主張しようとしているのは少し議論が大さくなるが、伝統社会で女性が家庭内 で特定の領域を支配していたとしても、それは経済全体からは隔絶された領域であっ て、それゆえ女性は社会の従属的な役割から解放されることはなかったのであり、女 性が市場経済に直接かかわるようになってはじめて、女性はこのような従属的役割か ら最終的に解放されるということである。P69

 表現に抵抗があるかもしれないが、大筋ではこの通りである。
男女関係に愛情が持ち込まれたのは、それほど昔のことではない。
母子関係についても、母親は子供に無関心だったと言っているのは過激に聞こえるが、フィリップ・アリエスも同じことを言っている。
母親だって種族保存より個体維持が優先するのは当然である。

 核家族の定義に関しても、きわめて説得的である。

 核家族というのは、世帯構成における特定の構造とか型とかを示すものではなく、むしろ一つの心の 状態をあらわすものである。(中略)西ヨーロッパ社会において核家族−父母と子からなる−と他の家 族の型とを事実上区別するのは、核家族が自分たちだけの単位として家庭を考え、それを周囲の共同 体と切りはなす固有の団結意識をもっていることである。P214

 ここで筆者が問題にしているのは、核家族という形態ではなく、核家族という特殊な心性である。
上記の心性を持たなければ、父母と子からなる家族であっても、それは核家族ではないといっている。
時代や社会を見るとき、そこに規則性を発見するわけだから、筆者のように言って間違いないだろう。
平均的な家族構成員数が、5人だから核家族だったというのは早計である。
家族の原型を、マードックが言うように核家族だというのも、間違いだろう。

 心性という分析手法は、その後の家族社会学では大いに使用されるようになったが、本書の出版時にはまだ馴染みがなかったのである。
ロンアティック・ラヴではなく、母子関係こそが、近代家族形成の核になったという指摘も、わが国の母子関係を見れば了解せざるを得ない。
伝統社会ではセックスが行われたのは、春から初夏に集中していた、といった指摘も積極的に再検討すべきだろう。

 表現が微妙な部分もあり、本書のすべてが正しいとは言わないが、多くの点において肯定的に再検討すべき提言をもっている。
女性は正しいというフェミニズムのイデオロギー体質が、本書を悪し様にいわせるのだ。
しかし、きちんと評価すべきはする、評価しない部分は評価しないと、冷静に読むべき本であることは間違いない。
少なくとも、わが国の女性フェミニストたちが書いた物より、はるかに衝撃的だし知的に刺激的である。
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参考:
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