匠雅音の家族についてのブックレビュー    近代読者の成立|前田愛

近代読者の成立 お奨度:

著者:前田愛(まえだ あい)
岩波現代文庫、2001年(有精堂出版、1973年)  ¥1、200−

著者の略歴−1932〜1987年。神奈川県生まれ。国文学者。1957年東京大学文学部卒、1970年より立教大学で教鞭をとる。近世文学、近代文学の独創的研究で知られる。著書に『幕末・維新期の文学』『成島柳北』『都市空間のなかの文学』『樋口一葉の世界』等。『前田愛著作集』(全6巻)がある。
 明治初期の文学読者が、多くは音読によって作品を享受していたことは、現在ではおそらく常識になっているであろう。ヨーロッパ文学においても、この事情は同様であって、音読から黙読への転換が、近代読者を作り出し、近代文学が支えられたとは、アルベール・チボーデの翻訳や伊藤整のチボーデを援用した評論によって、1950年代には日本でも確認されたはずであった。近代小説が「密室の芸術」であるということ、おそらく、この部分に異論を挟む人はないだろう。P388

という飛鳥井雅道氏の<あとがき>にもあるように、近代は文字をめぐっても人々の態度を大きく変えた。
もちろん、識字率が前近代では40〜50%に満たなかったこと。
時代を遡れば遡るほど識字率は下がっていくことにより、現代とは大きく異なるコミュニケーションの方法があったことは、かんたんに想像がつく。
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 わが国の被支配層の、広範囲にわたる識字・計数能力が、決してただちに自由と民主主義を保証することにならず、かえって支配者の「専制的」な統治を容易にする場合もありうることを、日本の幕藩体制はよく示していると、網野善彦氏の「日本論の視座」が言うとき、いささか本書との齟齬を感じるが、それでも前近代は今日とは違うと言っていいだろう。

 通常は、文字は支配のためのものであった。
自然のなかに自然の掟に従って生活していた前近代人には、文字は不必要だった。
文字が読めなくても、生活には困らなかった。
農耕社会という繰り返しの支配する世の中では、子供は親の仕事を繰り返したに過ぎない。

 前近代にあっては、学校で教えられる学問といったものは、庶民には不要のものだった。
庶民は生きる術を、先達から身をもって習い覚えた。
しかし、幕藩体制の崩壊は、農業以外にも生活術があることを教えた。
新たな技術を身につければ、農業に従事するよりずっと裕福な生活が待っていた。
「学問のすすめ」が、ベストセラーになったことは周知であろう。

 本書は、出版された図書ではなく、本を読む人のほうに焦点を当てたものである。
近代の胎動は、江戸時代の中期に始まっているのも定説である。
だから、本書が江戸時代の人情本から話を始めるのも自然である。

 人情本はまもなく峻厳な匡正令・倹約令の対象となるはずの市中風俗の諸相に、その素材を仰いでいたばかりでなく、流行の尖端をいちはやく紙上に紹介することで婦女子の歓心を迎え、全国的な人気を博していた。貸本屋の背に運ばれて、二倍三倍にも回転した人情本の読者の数が、寛政度の洒落本のそれをはるかに上回っていたことも勿論である。P2

 木版本を中心とした貸本屋が、東京から姿を消していくのは、明治15、6年から20年にかけてのことらしい。
新聞を初めとした活字本の隆盛に押されて、前近代の貸本文化が消滅していく。
もちろん、この貸本は声を出して読まれていたに相違なく、ここでも古い文化は途絶していく。
こうした歴史を見ていると、最近になって伝統の断絶とか、文化の死滅を嘆く声の愚かしさに、何と言っていいか対応に困る。

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 前近代の美風が、近代化によって変質していくのは、理の当然であり、それを嘆いても詮方ないことである。
そこには善悪の判断を超えた歴史の必然があって、嘆きの対象だけを保護することはできない。
近代読者の誕生と銘打ちながら、本書にもいささかそう言った嫌いがないでもない。

 リースマンはピユーリタニズムとの関連において黙読の習慣の成立を把えようとする。印刷術の発明された15世紀から、ピユーリタニズムのもとに個人的、内面的な読書の方式が一般化する18世紀までは、活字文化の前期ないしは準備期として規定されるのである。「じつにグーテンベルグが出た後でさえ、現代の読書の方式が一般化するまでには長い時を要した。書物は独りで読まれる時ですら、声をあげて朗読された。P185

 わが国でも、漢文を声をだして素読する習慣は、随分と長く続いた。
おそらく音読は、小学校で始められるように、もっとも初歩的な学習なのであろう。
そして、時代が下るに従って、文字は多くの読者を獲得していく。
それまで文字には馴染みのなかった、女性という広大な分野を獲得していくのである。

 大正時代のいわゆる「新しい女」を産み出した基盤は、この中等教育の機会に恵まれた新中間層の女性群であった。彼女らは良妻賢母主義の美名のもとに、家父長制への隷属を強いられていた従来の家庭文化のあり方に疑問を抱き、社会的活動の可能性を摸索しはじめる。男性文化に従属し、その一段下位に置かれていた女性文化の復権を要求しはじる。P220

 そして、ラジオの登場は、人々の生活をまたまた変える。
庶民は興味のあるものに手を伸ばす。
文化人から強要されても、面白くないものには手をださない。
通俗小説と馬鹿にされながらも、「君の名は」の影響力を強烈なものがあった。

 ボーナスもなく、出来高払いの賃銀という劣悪な労働条件のもとにおかれていた桐生のハタオリ女工が、『君の名は』の放送をきくために、暮の12月に朝4時からハタをおらせるようにした力が何なのか、報告者の大野は性急に結論を出そうとはしていない。しかし、このエピソードは竹内の提唱した国民文学論がその壮大な意図にもかかわらず、いわゆる大衆文化時代の到来とともに急速に色褪せて行った所以を、そのもっとも深い所で証しているようにおもわれる。P376

 本書は、さまざまなところに書いたものを、「近代読者の成立」というくくりで1冊にまとめたので、まとまりが悪いところがある。
もう少し社会的な背景から、細かく追って欲しかった。   (2002.7.19)
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参考:
M・ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」岩波文庫、1989
アンソニー・ギデンズ「国民国家と暴力」而立書房、1999
江藤淳「成熟と喪失:母の崩壊」河出書房、1967
桜井哲夫「近代の意味:制度としての学校・工場」日本放送協会、1984
G・エスピン=アンデルセン「福祉国家の可能性」桜井書店、2001
G・エスピン=アンデルセン「ポスト工業経済の社会的基礎」桜井書店、2000
桜井哲夫「近代の意味:制度としての学校・工場」日本放送協会、1984
ソースティン・ヴェブレン「有閑階級の理論」筑摩学芸文庫、1998
オルテガ「大衆の反逆」白水社、1975
E・フロム「自由からの逃走」創元新社、1951
アラン・ブルーム「アメリカン・マインドの終焉」みすず書房、1988
イマニュエル・ウォーラーステイン「新しい学」藤原書店、2001
田川建三「イエスという男」三一書房、1980
ポール・ファッセル「階級「平等社会」アメリカのタブー」光文社文庫、1997
橋本治「革命的半ズボン主義宣言」冬樹社、1984
石井光太「神の棄てた裸体」新潮社 2007
梅棹忠夫「近代世界における日本文明」中央公論新社、2000
小林丈広「近代日本と公衆衛生」雄山閣出版、2001
前田愛「近代読者の成立」岩波現代文庫、2001
黒沢隆「個室群住居」住まいの図書館出版局、1997
フランク・ウェブスター「「情報社会」を読む」青土社、2001
ジャン・ボードリヤール「消費社会の神話と構造」紀伊国屋書店、1979
エーリッヒ・フロム「自由からの逃走」創元新社、1951
ハワード・ファースト「市民トム・ペイン」晶文社、1985
成松佐恵子「庄屋日記に見る江戸の世相と暮らし」ミネルヴァ書房、2000
デビッド・ノッター「純潔の近代」慶應義塾大学出版会、2007
北見昌朗「製造業崩壊」東洋経済新報社、2006
小俣和一郎「精神病院の起源」太田出版、2000
松本昭夫「精神病棟の20年」新潮文庫、2001
斉藤茂太「精神科の待合室」中公文庫、1978
ハンス・アイゼンク 「精神分析に別れを告げよう」批評社、1988
吉田おさみ「「精神障害者」の解放と連帯」新泉社、1983
古舘真「男女平等への道」明窓出版、2000
ジル・A・フレイザー「窒息するオフィス」岩波書店、2003
三戸祐子「定刻発車」新潮文庫、2005
ケンブリュー・マクロード「表現の自由VS知的財産権」青土社、2005
フリードリッヒ・ニーチェ「悦ばしき知識」筑摩学芸文庫、1993
ソースティン・ヴェブレン「有閑階級の理論」筑摩学芸文庫、1998
リチヤード・ホガート「読み書き能力の効用」晶文社、1974
ガルブレイス「ゆたかな社会」岩波書店、1990
ヴェルナー・ゾンバルト「恋愛と贅沢と資本主義」講談社学術文庫、2000
C.ダグラス・ラミス「ラディカル デモクラシー」岩波書店、2007
オリーブ・シュライナー「アフリカ農場物語」岩波文庫、2006
エマニュエル・トッド「新ヨーロッパ大全」藤原書店、1992

ジョン・デューイ「学校と社会」講談社学術文庫、1998
ユルク・イエッゲ「学校は工場ではない」みすず書房、1991
ポール・ウィリス「ハマータウンの野郎ども」ちくま学芸文庫、1996
フィリップ・アリエス「子供の誕生」みすず書房、1980

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