匠雅音の家族についてのブックレビュー    表現の自由VS知的財産権−著作権が自由を殺す?|ケンブリュー・マクロード

表現の自由VS知的財産権
著作権が自由を殺す?
お奨度:

著者:ケンブリュー・マクロード   青土社、2005年    ¥2800−

 著者の略歴−1970年生まれ。米アイオワ大学コミュニケーション学科教授。ジャーナリスト、アクティヴィスト、アーティスト。『ローリングストーン』『ヴィレッジヴォイス』などで音楽評論を執筆、音楽業界にかんするドキュメンタリーも制作している。他の著書に「Owing Culture」2001がある。

 著作権は守られるべきだと聞くと、思わずその通りと答えたくなる。
我が国では、創造することは大切にされていないが、
音楽にしても小説にしても、個人の創意工夫の産物は、大切にされるべきだとは思う。
しかし、最近の知的所有権にかんする議論は、権利の囲い込みにみえて、何だか胡散臭く思っていた。

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 著作権を保護するのは、保護によって既得権を守るためではなく、
保護によってより多くの人に、その恩恵が広まるからだろう。
創造物を放置してしまえば、誰もが真似をして、やがて苦労してまで創造する人がいなくなる。
だから、創造物を著作権で保護することによって、それ以後の創造活動の活発化を願っていたはずである。
著作権の保護は、創造を活発化することが目的だったのであり、表現の自由のためにあった。

 知的産物は、それを公開することによって、
より一層の創意工夫が加えられ、ますます洗練され改良されていく。
しかし最近では、著作権を保護するとは、既得権を守ることのためにのみ働き、
表現の自由を促進させるどころか、表現領域を狭めているようだ。
本書は、遺伝子、音楽などの世界を中心に、知的産物の私的所有に疑問を呈していく。

 財産は確かに守られるべきだ。個人や企業が、自らが創造したものの保護を求めることは理解可能だが、著作権を「私有財産」の一つだとする考えは、自然でもなければ所与でもない。私の意見は常識に反しているように見えるかもしれないが、著作権は法的保護としては一時的、限定的なものであって、私有財産を守る不撓の法と受け取られるようになったのはごく最近である。米国憲法によれば、著作権保護は、所有者にその作品の流通や消費について全的な管理権を付与するものではない。
 憲法制定からおよそ二世紀になるが、裁判所の解釈では、著作権とは、作者たちが、社会を利し、いずれは社会に帰属するような文化財を創造するのを奨励するものなのである。P118


 著作権は創られたものを守るものだから、
あまりに著作権を保護すると、すでに出来た権利のみを強固にしてしまう。
その結果、過去の産物に制限を受け、新たなものが育たなくなってしまう。
しかも、知的財産権はその当否が裁判によって決定されるので、
お金のない者は裁判費用を負担できず、結局、お金のある企業を保護することになる。

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 最近も、ジャストシステムの一太郎が、小さな問題をあげつらわれて、著作権侵害で提訴された。
提訴したのは、巨大企業の松下電器である。
ジャストシステムは零細企業ではないが、松下に比べればはるかに小企業である。
しかも、問題となったのは、誰でも知っていて、発明などとは呼べない些細なアイコンを、松下電器は自社の特許だと言ったのである。

 ベンチャー企業が、独自のソフト開発しようとしても、巨大企業が著作権をたてに提訴する。
零細な者の自由な発明は、訴訟を恐れて萎縮していく。
これは著作権保護が目的としたこととは反対である。
別名マネシタという巨大企業が、弱者をつぶしていく醜悪な例である。
松下には恥を知れと言いたいが、個別の問題だけではなく、著作権制度の問題であろう。

 上記のような危惧から、エリック・スティーブン・レイモンドが「伽藍とバザール」で書くように、
ソフトの世界では、オープンソースの考え方がひろまってきた。
これはマイクロソフトなどとは反対に、コードを公開して、ソフトの改良を大衆にゆだねたのである。
公開することによって、経済的な利益は独占できないが、
より一層の改良が期待でき、社会の発展に資する。

 表現の自由によって、我々はさまざまなものを生み出してきた。
その恩恵は囲い込まれるべきではなく、多くの人が受けるべきである。
現在の著作権制度のあり方は、お金持ちや大企業にきわめて有利に出来ている。
このままでは著作権の保護が、その目的とは反対に、創意工夫を疎外していく。
そういった危機感が本書を貫いている。
 
 娯楽産業の重役たちの多くが、本気で怯えていることを、私は疑わない。アーティストたちも企業に劣らず、新たな録音、複製、流通テクノロジーによって、自分たちの作品が無料で無限にコピーされるとなると、生活の糧が失われると心配してきた。しかしこの心配はこれまで現実のものとはなっていないし、おそらく今後もそうだろう。こうした最近のテクノロジーは、旧来の文化産業よりも多様に、民主的に、芸術作品を広める可能性を持つのだ。P304

 映画を見ない人はビデオも買わないし、音楽に無縁の人はCDも買わない。
コピーをする人のほうが、オリジナルもたくさん買う。
最初はコピーソフトを使っても、やがてオリジナルを買う。
つまり媒体の進歩は、ソフトの享受者を増やし、マーケット全体が拡大する。
だから、著作権によって過大に保護しなくても、結局のところ新たな技術の進歩は、作品の浸透に優位に働く。

 著作権の過度な保護は、大衆文化の音楽や映像の利用を制限し、場合によっては引用を違法とさえ言う。
しかし、それは作品=文化が私有されているからであり、
私有は私的独占を許すから、表現の自由と衝突することになる。
表現の自由のないところには、新たな創造はない。
現在の民事法は、法人も個人も同じ法的な主体として扱う。
こうした制度の中では、知的著作権制度は、創造性を抑圧するものだ。

 知的財産権の保護強化が、独創性の発表を萎縮させ、
結果として創造性を阻害していくのではないか。
筆者はそう言って、著作権保護の強化に警鐘を鳴らす。
知的財産権の保護とは、私有財産性の強化に他ならず、
創造の自由とは両立しないと考え、当サイトも、基本的にこの筆者に賛同する。 
(2006.4.02)
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参考:
木村英紀「ものつくり敗戦」日経プレミアシリーズ、2009
アントニオ ネグリ & マイケル ハート「<帝国>」以文社、2003
三浦展「団塊世代の戦後史」文春文庫、2005
クライブ・ポンティング「緑の世界史」朝日選書、1994
ジェイムズ・バカン「マネーの意味論」青土社、2000
柳田邦男「人間の事実−T・U」文春文庫、2001
山田奨治「日本文化の模倣と創造」角川書店、2002
ベンジャミン・フルフォード「日本マスコミ「臆病」の構造」宝島社、2005
網野善彦「日本論の視座」小学館ライブラリー、1993
R・キヨサキ、S・レクター「金持ち父さん貧乏父さん」筑摩書房、2000
クライブ・ポンティング「緑の世界史 上・下」朝日新聞社、1994
ダイアン・コイル「脱物質化社会」東洋経済新報社、2001
谷田部英正「椅子と日本人のからだ」晶文社、2004
塩野米松「失われた手仕事の思想」中公文庫 2008(2001)
シャルル・ヴァグネル「簡素な生活」講談社学術文庫、2001
エリック・スティーブン・レイモンド「伽藍とバザール」光芒社、1999
村上陽一郎「近代科学を超えて」講談社学術文庫、1986
吉本隆明「共同幻想論」角川文庫、1982
大前研一「企業参謀」講談社文庫、1985
ジョージ・P・マードック「社会構造」新泉社、2001
富永健一「社会変動の中の福祉国家」中公新書、2001
大沼保昭「人権、国家、文明」筑摩書房、1998
東嶋和子「死因事典」講談社ブルーバックス、2000
エドムンド・リーチ「社会人類学案内」岩波書店、1991
リヒャルト・ガウル他「ジャパン・ショック」日本放送出版協会、1982
柄谷行人「<戦前>の思考」講談社学術文庫、2001
江藤淳「成熟と喪失」河出書房、1967
森岡正博「生命学に何ができるか」勁草書房 2001
エドワード・W・サイード「知識人とは何か」平凡社、1998  
オルテガ「大衆の反逆」ちくま学芸文庫、1995
小熊英二「単一民族神話の起源」新曜社、1995
佐藤優「テロリズムの罠 左巻」角川新書、2009
佐藤優「テロリズムの罠 右巻」角川新書、2009
S・ミルグラム「服従の心理」河出書房新社、1980
北原みのり「フェミの嫌われ方」新水社、2000
M・ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」岩波文庫、1989
デブラ・ニーホフ「平気で暴力をふるう脳」草思社、2003
藤原智美「暴走老人!」文芸春秋社、2007
成田龍一「<歴史>はいかに語られるか」NHKブックス、2001
速水融「歴史人口学で見た日本」文春新書、2001
J ・バトラー&G・スピヴァク「国家を歌うのは誰か?」岩波書店、2008
ドン・タプスコット「デジタルネイティブが世界を変える」翔泳社、2009

斉藤美奈子「モダンガール論」文春文庫、2003
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