匠雅音の家族についてのブックレビュー    成熟と喪失−母の崩壊|江藤淳

成熟と喪失 母の崩壊 お奨度:

著者:江藤淳(えとう じゅん)−河出書房、1967年 (絶版)
講談社文芸文庫 1993年  ¥980− 

著者の略歴−
 1967年に出版された本書は、わが国の近代化を<母の崩壊>として考えたものである。
本書では、「抱擁家族」「沈黙」「月と星は天の穴」など、当時の現代文学が俎上にあげられている。
それらを通じて、農耕社会から近代工業社会への転換を、筆者は日本的特性として捉える。

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 筆者が、新人として文壇に登場した当初、体制批判的なスタイルをとっていたので、多くの人は左翼と勘違いしていた。
しかし、本書を読むと筆者が後年、日本回帰した芽が読みとれる。
出版された当時は、かなり話題になったが、その後もある程度の影響力を保ち続けている。

 本書が書かれたのは、筆者がアメリカから帰ったばかりだったことも手伝って、本書はアメリカとの比較で始まる。
アメリカでは父と子の関係が語られるが、母と子供は疎遠なままである。
それにたいして、わが国では母と子の関係が強調され、父と子の関係は疎遠である、といわれる。
それを筆者は、

 静的な文化の中では、いわば父親そっくりに子供を育てることが母のつとめであり、そのためにこそ母子の密着した結びつきが生じてくるからである。P9

といっている。第三の新人たちを、子供であり続けようとした大人だと言い、
彼等は母との結びつきを隠している、と展開する。
「抱擁家族」においても、主人公が妻に求めるのは、母の代替としてであり、
個人と個人の関係ではないという。

 なぜなら「成熟」するとはなにかを獲得することではなく、喪失を確認することだからである。だから実は、母と息子の肉感的な結びつきに頼っている者に「成熟」がないょうに、母に拒まれた心の傷を「母なし仔牛」に託してうたう孤独なカウボーイにも「成熟」はない。拒否された傷に託して抒情する者には「成熟」などはない。抒情は純潔を誇りたい気持から、死ぬために大草原を行く「母なし仔牛」の群に、その仔牛のやさしい瞳とやわらかな毛並に自分の投影を見ようとするナルシシズムから生れるからである。P28

 「成熟」するとは、喪失感の空洞のなかに湧いてくるこの「悪」をひきうけることである。実はそこにしか母に拒まれ、母の崩壊を体験したものが「自由」を回復する道はない。P29

 日本的な状況をことさらにうたう筆者は、近代化の過程を普遍なものとしてとらえつつも、わが国の女性を特殊化する。
たしかに筆者がいうように、母が育てた息子もまた、恥ずかしく思った父親になるというパラドックスは、進歩の否定につながりかねない。
わが国における進歩とは、西洋化のことだから、進歩の否定は西洋化の否定につながるのである。
 
 筆者は進歩の過程で、社会が急速に崩壊していくといっているが、はたしてそうだろうか。
崩壊とは同時に、新生でもあるのだ。
後年、母の問題は、河合隼雄によって「母性社会日本の病理」として描かれる。
日本の特殊性は本当だろうか。近代化の過程に表れる必然的なもの、と考えることはできないだろうか。

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 本書を読んでいると、小説に限らず、活字化された表現というものは、きわめて時代の子だと感じる。
永井荷風や谷崎潤一郎にしても、第三の新人にしても、今から見れば大昔の人であり、江藤淳もまた大昔の人である。
筆者の後年の生き方が物語るように、彼は農耕社会に色濃く残った立場的な人間だった。
筆者は自由に浮遊する個人としては思考していないように感じる。
その視点が本書を、すでに時代の中へと位置づけてさえいる。

 もし『刺青』が明治40年代の日本の社会心理にひそんでいた不安を象徴するなら、 『抱擁家族』は明らかに昭和30年代の社会心理に底流する深い喪失感を反映している。私はこの章の最初の部分で、日本の農耕社会が近代産業社会に移行しはじめたのは日露戦争直後のことだといった。だとすれば昭和30年代は、まさに日本全国が「近代化」、あるいは「産業化」の波にまきこまれて、ついに近代工業国に変貌をとげた時代である。この全面的な産業化の過程で、一番大きな心理的原動力となったのが、「置き去りにされる」不安だったことはいうまでもない。P108
 
 本書が書かれたのが、昭和40年頃(1965年)だったことを思い返して欲しい。
そして、「置き去りにされる」不安こそ、最も根元的な女性的なものだ、と筆者はいう。
この不安が共有された理由を、母性的な農耕社会に求める。
そして、それを肯定するように感じる。筆者は何と女性的であることか。

 筆者は、カソリックの父性やプロテスタントの神との直結など、母をめぐる問題を考えている。

 「牧師の細君」というイメイジに含まれているのは、中性化した女性、あるいは男性を模倣しようとする女性のイメイジである。プロテスタンティズムがこうしてキリスト教から聖母によって代表されていた女性原理を追放したとき、それとひきかえに近代産業社会の労働力となるにふさわしい女性、つまり女性であることを嫌悪して限りなく男性を模倣しょうとする女性の原型がつくり出されたことは疑えない。いいかえれば、プロテスタンティズムは文字通り「母」を崩壊させたのである。P162

 プロテスタンティズムは母を崩壊させたのではなく、世俗化させたのである。
カソリックの母が、聖母像として差し出されたとすれば、
プロテスタントはそれを拒否し、母を現実社会の中に引きずり出し、すべての女性を母としたのである。
それまで神との関係で語られた女性は、母となることによって神に祝福されたのである。

 これが現実社会でも母が否定されるのは、情報社会になってからである。
これは「近代の終焉と母殺し」や「フェミニズムの誕生と母殺し」で展開したので、くり返さない。
しかし、母という立場の崩壊=死が、個人の登場を促すという筆者の指摘は、充分に肯首できる。
そして、そこから小説がかかれるという指摘も、妥当なものである。
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参考:
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J・F・グブリアム、J・A・ホルスタイン「家族とは何か その言説と現実」新曜社、1997
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田川建三「イエスという男 逆説的反抗者の生と死」三一書房、1980
ヘンリー・D・ソロー「森の生活」JICC出版局、1981
野村雅一「身ぶりとしぐさの人類学」中公新書、1996
永井荷風「墨東綺譚」新潮文庫、1993
エドワード・S・モース「日本人の住まい」八坂書房、2000
福岡賢正「隠された風景」南方新社、2005
イリヤ・プリゴジン「確実性の終焉」みすず書房、1997
エドワード・T・ホール「かくれた次元」みすず書房、1970
オットー・マイヤー「時計じかけのヨーロッパ」平凡社、1997
ロバート・レヴィーン「あなたはどれだけ待てますか」草思社、2002
増川宏一「碁打ち・将棋指しの誕生」平凡社、1996
宮本常一「庶民の発見」講談社学術文庫、1987
青木英夫「下着の文化史」雄山閣出版、2000
瀬川清子「食生活の歴史」講談社、2001
鈴木了司「寄生虫博士の中国トイレ旅行記」集英社文庫、1999
李家正文「住まいと厠」鹿島出版会、1983
ニコル・ゴンティエ「中世都市と暴力」白水社、1999
武田勝蔵「風呂と湯の話」塙書店、1967
ペッカ・ヒマネン「リナックスの革命」河出書房新社、2001
匠雅音「家考」学文社

M・ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」岩波文庫、1989
アンソニー・ギデンズ「国民国家と暴力」而立書房、1999
江藤淳「成熟と喪失:母の崩壊」河出書房、1967
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G・エスピン=アンデルセン「福祉国家の可能性」桜井書店、2001
G・エスピン=アンデルセン「ポスト工業経済の社会的基礎」桜井書店、2000
桜井哲夫「近代の意味:制度としての学校・工場」日本放送協会、1984
ソースティン・ヴェブレン「有閑階級の理論」筑摩学芸文庫、1998
オルテガ「大衆の反逆」白水社、1975
E・フロム「自由からの逃走」創元新社、1951
アラン・ブルーム「アメリカン・マインドの終焉」みすず書房、1988
イマニュエル・ウォーラーステイン「新しい学」藤原書店、2001
ポール・ファッセル「階級「平等社会」アメリカのタブー」光文社文庫、1997
橋本治「革命的半ズボン主義宣言」冬樹社、1984
石井光太「神の棄てた裸体」新潮社 2007
梅棹忠夫「近代世界における日本文明」中央公論新社、2000
小林丈広「近代日本と公衆衛生」雄山閣出版、2001
前田愛「近代読者の成立」岩波現代文庫、2001
フランク・ウェブスター「「情報社会」を読む」青土社、2001
ジャン・ボードリヤール「消費社会の神話と構造」紀伊国屋書店、1979
エーリッヒ・フロム「自由からの逃走」創元新社、1951
ハワード・ファースト「市民トム・ペイン」晶文社、1985
成松佐恵子「庄屋日記に見る江戸の世相と暮らし」ミネルヴァ書房、2000
デビッド・ノッター「純潔の近代」慶應義塾大学出版会、2007
北見昌朗「製造業崩壊」東洋経済新報社、2006
小俣和一郎「精神病院の起源」太田出版、2000
松本昭夫「精神病棟の20年」新潮文庫、2001
斉藤茂太「精神科の待合室」中公文庫、1978
ハンス・アイゼンク 「精神分析に別れを告げよう」批評社、1988
吉田おさみ「「精神障害者」の解放と連帯」新泉社、1983
古舘真「男女平等への道」明窓出版、2000
三戸祐子「定刻発車」新潮文庫、2005
ケンブリュー・マクロード「表現の自由VS知的財産権」青土社、2005
フリードリッヒ・ニーチェ「悦ばしき知識」筑摩学芸文庫、1993
ソースティン・ヴェブレン「有閑階級の理論」筑摩学芸文庫、1998
リチヤード・ホガート「読み書き能力の効用」晶文社、1974
ガルブレイス「ゆたかな社会」岩波書店、1990
ヴェルナー・ゾンバルト「恋愛と贅沢と資本主義」講談社学術文庫、2000
C.ダグラス・ラミス「ラディカル デモクラシー」岩波書店、2007
オリーブ・シュライナー「アフリカ農場物語」岩波文庫、2006
エマニュエル・トッド「新ヨーロッパ大全」藤原書店、1992


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