匠雅音の家族についてのブックレビュー    定刻発車−日本の鉄道はなぜ世界で最も正確なのか?|三戸祐子

定刻発車
日本の鉄道はなぜ世界で最も正確なのか?
お奨度:☆☆

著者:三戸祐子(みと ゆうこ) 新潮文庫、2005年    ¥590− 

 著者の略歴− 1956(昭和31)年東京生れ。1979年慶応義塾大学経済学部卒。数理経済学を学ぶ。80年、時間の 問題を軸に政府と市場の関係を論じた「大きい政府か小さい政府か」で、日本経済新聞社『選択の自由』出版記念論文優秀賞。83年より経済・経営ライターとして、 経済誌を中心に各種レポートを行う。鉄道との出会いは鉄道誌でレポートを書きはじめたこと。2002(平成14)年『定刻発車』でフジタ未来経営賞(書籍の部) と交通図書賞(技術の部)を受賞。最近は、人とシステムの関わりをテーマに執筆。講演活動も行う。趣味は歌舞使鑑賞、美術鑑賞、自転車、将棋など。 ホームページ・アドレスはhttp://club.pep.ne.jp/~mito.yuko/   Email:mito.yuko2001@pep.ne.jp

 本サイトの書評基準は、進展する情報社会化をみながら、
新たな家族のあり方を考えるものである。
本書は鉄道にかんする本だから、読み始めたときには、サイトに取り上げる気はなかった。
しかし、読み進むうちに、本書は単に鉄道のことを語っているのではなく、
日本の文化そして近代という歴史そのもを扱っている、と思えてきた。
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 為政者の音頭取りだけでは、鉄道の運行はできない。
鉄道の維持・運行には、庶民レベルでの意志と能力が必要である。
たとえば途上国の庶民には、鉄道に乗るほどの収入がないので、鉄道事業が採算に乗らない。
メンテナンス費用が負担できない。
鉄道部品は高価なので、住民によって盗まれてしまう。
鉄道の運行は、国民全体が支えているという。
まさにその通りである。

 我が国の列車運行は、決められたダイヤ通りになされる。
その正確さにおいて世界に例を見ない。
また、2分間隔といった高密度で運転されていることも、外国ではほとんど例がない。
そういった我が鉄道の素晴らしい特徴を、筆者は渾身の力を込めて、しかも平易な文章で詳細に書き記している。

 我が国にはじめて鉄道が開通したのは、明治になってからだとは誰でも知っている。
しかし、本書は江戸時代に遡る。
ここがまず慧眼である。
一つものの誕生には、必ず歴史の背景があり、歴史の中からうまれてくる。
鉄道が社会の上に成り立つものである以上、その社会の歴史を紐解くのはきわめて自然である。

 先進国の鉄道が、我が国と同じような基準で定時運行されていない以上、
近代化を達成する背景と、定時運行の原因を同視することはできない。
筆者は、1.江戸時代には時間概念があった。
2.参勤交代という大規模移動があった。
3.庶民の旅が一般化していた。
4.都市間が狭く、鈴なり状態だった。
と4つの理由を挙げて、定刻運行を可能にする基礎が、江戸時代にあったという。
そして大正時代には、はやくも定時運行が始まっていると記している。

 昭和2年3月発行の『省線電車史綱要』によれば、東京の電車は大正3年において主要駅の停車時分は1分ないし2分、中間駅では30秒であった。それが大正7年には主要駅全部が1分となり、驚くべきことに、大正14年10月には中央線以外は主要駅中間駅とも全部標準20秒停車となっている。
 2分だった停車時分が、大正年間のわずか10年ほどのうちに20秒になってしまうのだから、鉄道空間における移動のテンポは恐ろしく早くなっている。乗客の乗り降りを秒単位でカウントする時代がやってくる。
 乗客もこの時期から本格的に乗車テクニックを身に付けてゆく。日本の鉄道は停車時分を短くするための乗り降りのテクニックを積極的に教え込み、乗客は、それに素直にしたがってゆくのである。P126


 筆者の慧眼は、乗客をも定時運行の協力者と見ていることだ。
事実その通りで、来日して日の浅い外国人は、乗車の訓練を受けていないので、
我が国の通勤電車に乗れないことがある。
フランス人の友達はホームに取り残されて、車内の私を呆然と見送ったのである。
こんな乗客ばかりだったら、定時運行はとても出来ないだろう。
もちろん、定時運行の主役は、鉄道員たちである。

 定時運行への努力は、涙ぐましいまでに続けられており、
筆者は愛情のこもった筆致で、それをなめるように記述している。
鉄道の施設や車両といったハード面、そして、運行を制御するソフト面と、両面にわたって細かく検討されている。
建築が設計から始まるように、鉄道もダイヤを組むことから始まって、設備の設計・設置が検討されるのは当然だろう。

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 新しい鉄道の誕生には、まずダイヤが組まれる。
ダイヤを組んで、そのダイヤを運行するための、設備を設置するのだという。
ダイヤというソフトが、設備や車両というハードに優先している。
事業の企画において、ハードよりもソフト優先の発想は当然なのだが、我が国ではハードが優先しがちである。

 乗降客の市場調査が、列車の必要性を決定するのであり、
列車が走っているから乗客が生まれるのではない。
乗客のいないところに鉄道を引いても、誰も乗らないから採算が合わず、
鉄道が成立しないのは当たり前である。
そうした前提に立って、なぜ定時運行が必要になったのか、我が国の特性を良く捉えて、本書は実に説得的である。

 驚かされるエピソードも、たくさん書かれている。
 
 大石氏は『鉄道ジャーナル』誌(1997年9月号)で、そのときのお召し列車のことを、
「運転区間は東京〜新大阪間で、停車駅の名古屋・京都・新大阪はプラスマイナス5秒以内、停車位置はプラスマイナス1センチ以内の許容しかなかった」と述べている。(中略)。
さらに驚くのは大石氏がこう続けていることだ。
「一見したところ大変きびしいようであるが、運転士はつねに速度・時間の距離を計算しながら運転しているので、通常でも特別な事情がない限り、誰でもほぼこの範囲内で運転している」P146


 鉄道システムが、仮に実験室のような環境で稼動するのなら(線路や車両などの設備装置の整備は完璧、外界撹乱ゼロとして)、運転士の運転技術の高さをもってすれば、日本の鉄道はおそらくどんなに長い距離でも「1分違わぬ」どころか、「10秒違わぬ」、ことによっては「1秒違わぬ」正確さで運行することだってできるだろう。
 実際に、天候の落ち着いた日に行われる新型車両の試験走行では、その通りのことが起きる。担当者の話によると、たとえば東京〜盛岡間496.5キロを走行しても、実測値はあらかじめ設定された理論値から10秒と狂わないという。P170


 実際の営業運行では、定時運行を妨げる数々の「撹乱要因」がある。
撹乱要因を排除するために、鉄道員は日々の仕事をしているが、
彼等の希望の上位には、「乗客に自殺をしないで欲しい」というものがあるという。
鉄道自殺があると、列車を止めなければならない。
当然ダイヤに乱れが生じる。だから、自殺しないで欲しいのだ。

 本書は、鉄道全体を一つのシステムと見ており、
そのシステムは社会と密接に関連しているという。
まったくその通りである。そして、筆者は将来を見て、次のようにいうのも忘れない。

 日本の定時運転は、鉄道員や乗客の犠牲の下に成立してきた側面は否定できない。(中略)もう少し鉄道員にとっても、乗客にとってもゆとりのある鉄道はつくれないものか。鉄道員の感慨深い仕事ぶりも、乗客の協力的な態度も、永遠に続くとは思えないのである。(中略)
 くすぶり続けてきた不満を、これからの乗客は、いままでのように駅員や鉄道企業にぶつけるのではない。もっとクールだ。黙って鉄道を離れてゆく。
 特に都市間輸送においては、人々はすでに、目的に応じて、より便利で、より快適で、より低価格な交通手段を選べる環境を得ている。P314


 大衆社会の原則が崩れ、人それぞれの違いが強調されだしている中で、いま日本の鉄道の一番の弱点は、鉄道空間が依然として公共スペースのままであることではないだろうか。鉄道空間が、厳しいルールが支配する公共スペースになってしまっているからこそ、人は早く目的地に着きたいと思うし、5分の遅れでも文句をいいたくなる。P367

 頭脳が肉体に負っている以上、情報社会になっても肉体労働はなくならない。
新幹線の保線には、3000人が深夜労働に従事しているという。
鉄道も現場仕事が安全や定時運行を支えている。
しかし、工業社会から情報社会へと転換している現在、
鉄道だけが工業社会の論理で生き残れるはずはない。
筆者は現業部門への目配りを確保しながら、情報社会での鉄道のあり方にも論及している。

 今後の柔軟な鉄道のあり方を、考察しているのも、本書の結論として充分なものである。
また、参考文献だけでなく引用した人の言葉など、
出典が明記されているのも、とても好感を持った。
そのうえ筆者の意見と、先人の意見を分けて書いているも、なかなかできないことで頭の下がる思いだった。
名著というべきだろう。
本書には星を2つ献呈する。     (2006.5.31)
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参考:
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イリヤ・プリゴジン「確実性の終焉」みすず書房、1997
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武田勝蔵「風呂と湯の話」塙書店、1967
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