匠雅音の家族についてのブックレビュー    アメリカンマインドの終焉|アラン・ブルーム

アメリカンマインドの終焉 お奨度:

著者:アラン・ブルーム−みすず書房、1988  ¥4、000−

著者の略歴−1930−1992年、インディアナポリスでユダヤ人として生まれた。子供時代をシカゴで過ごし、シカゴ大学・大学院を修了。イェール大学を経て、コーネル大学で教鞭をとる。その後、トロント大学からシカゴ大学へと移る。専攻は、古代ギリシャの修辞家イソクラテスの研究。

 1987年にアメリカで出版された本で、はやくも翌年にはわが国でも出版されて、話題になった本である。
結論からいうと、きわめて良心的な保守主義者の主張である。
過ぎさりゆく時代への考察において、傾聴にあたいするものが多かった。

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アメリカン・マインドの終焉
 アメリカは近代社会からはじまっている。
新世界といわれるように、古い歴史をもった国ではない。
ヨーロッパが前近代の倫理から抜け出せなかった時代に、アメリカは近代社会を創ることをめざした人たちによって開国された。
当初は、アメリカはヨーロッパの植民地であり、アメリカの体現する価値観は、ヨーロッパの亜流でしかなかった。

 しかし、古い時代から拘束されないということは、近代がそのまま始まったということであった。
価値相対化がアメリカの立脚点だったと言っていい。
だから、アメリカは最初からニーチェの末裔として出発したのである。
それが新たな価値観を、次々に生んでは壊すという、無限の石つみをさせているのであろう。

 本書は、アメリカ人学生は真理が相対的だと信じている、という文章からはじまる。
アメリカは多様を許容するし、信仰の自由もある。
職業選択の自由もある。
真理相対性はアメリカの道徳である。
しかし、公民権運動がたかまりを見せ、その次の段階へと進んだとき、事情は大いに変わったのである。
たとえば、黒人運動は黒人を黒人として尊重せよと迫り、女性運動は女性を女性として尊重せよと迫った。
これらはいずれも、人間として普遍的な存在の要求ではなかった。
個別性の尊重は、社会性と錯綜する。

 ギリシャ人にはギリシャ人の祖先があり、イギリス人にはイギリス人の祖先がある。
シェクスピアはイギリス人にとって自分たちの祖先である。
しかし、アメリカ人にとって、ホメロスもダンテもシェクスピアも、すべて万人の財産であり、文明に属するものだ。
だから、アメリカ人は安心してどんな文明でも吸収できる。
そうでありながら、すでにアメリカ式の生活様式がある。
それを共有するから、アメリカが成り立つのである。

 アメリカでは最近おきた運動によって、性関係のつくりかたが変わった。
まずひとつは、セックス革命つまりヒッピーの運動とリンクしたもので、原罪をうたう清教徒的な遺産に反発するものだった。
もう一つは、フェミニズムだった。
フェミニズムがもたらしたものは、男性と女性の等価性だった。
前者は自由を、後者は平等を主張した。

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 自由と平等は両立しない。
女性が子供を持とうとしたとき、近代的な社会は彼女の欲求を支持しない。
もはや男女は等価なのだから、女性は自分の願望は自力で実現しなければならなくなった。
新しい正義によって解体された男女関係に変わるものがあるだろうか、と筆者は疑問を投げかけている。

 「神は死んだ」とニーチェは宣言した。しかし、ニーチェはこれを勝ち誇った口調で、初期の無神論者のものの言い様で−圧制者は王位を剥奪された、いまや人間は自由である、という調子で−口にしたのではなかった。むしろニーチェは、この上なく強烈でこの上なく繊細な敬虔の感情が固有の対象を奪われた、という悲痛な調子で、それを口にしたのである。神を愛し神を必要とした人間は、復活の可能性もないまま、その父なる神と救世主キリストを失った。P213

 合理主義は文化もしくは魂を支配することはできず、合理主義は自らを理論的に弁護できない。
科学者は自らを弁護できないのだ。
だから、混沌がはじまったのである。
そういって、筆者はソクラテスからハイデッカーまでを総覧してみせる。
こうした展開は、教養人というのが存在したことを思わせるし、知識人の基礎とは何かがよく伝わってくる。

しかし、1960年代にそれは大きく崩れる。

 自然科学者は、ニュートンが時間についてどう考えたかとか、微分をめぐつてライプニッツとどんな論争をしたかとかいうことには無関心である。また、アリストテレスの目的論は、彼らにとり考慮にも値しない馬鹿げた考えである。彼らの信念によると、村学の進歩は、ベーコン、デカルト、ヒユーム、カントやマルクスといった人物が科学の本性に加えたような総合的反省にはもはや依拠していない。こうした反省は歴史的研究の対象にすぎず、最も偉大な科学者でさえ、久しくガリレオやニュートンについて考えるのをやめてしまっている。P383

 自然科学においては、もはや古典は死滅したのである。
人文科学においては、古典の扱いは煮え切らない。
人文科学でも、古典は生き生きとした理解の対象ではなく、文献解釈学でしかない。
社会科学は最も新しい分野だったがゆえに、正当性が問題になった。
社会科学が、戦場として残された。

 マルクス、フロイトやウェーバーが、また哲学者や世界の解釈者が、アメリカが迎えるはずの知的成熟の先駆者であった時代、若者が学問と自己認識の魅力に接した時代は過ぎ去った。人間に関する普遍的理論が登場するだろう、そしてそれはヨーロッパの知的深さとその遺産とをアメリカの活力に結びつけることによって大学を統合し、進歩に貢献してくれるだろう、と人々が期待した時代は過ぎ去った。P407

 本書は、大学教育を中心にして、アメリカ精神の空洞化をえがいたものである。
同時に1980年後半のアメリカ論でもある。
黒人学が黒人の、女性学が女性の知的水準を下げた、という指摘は鋭い。
性差別主義者とか、保守主義者といった批判はできるが、本書の訴えるものはそれだけにはとどまらない。
近代社会のその後を考察しているという意味で、情報社会論への橋渡しでもあった。
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参考:
木村英紀「ものつくり敗戦」日経プレミアシリーズ、2009
アントニオ ネグリ & マイケル ハート「<帝国>」以文社、2003
三浦展「団塊世代の戦後史」文春文庫、2005
クライブ・ポンティング「緑の世界史」朝日選書、1994
ジェイムズ・バカン「マネーの意味論」青土社、2000
柳田邦男「人間の事実−T・U」文春文庫、2001
山田奨治「日本文化の模倣と創造」角川書店、2002
ベンジャミン・フルフォード「日本マスコミ「臆病」の構造」宝島社、2005
網野善彦「日本論の視座」小学館ライブラリー、1993
R・キヨサキ、S・レクター「金持ち父さん貧乏父さん」筑摩書房、2000
クライブ・ポンティング「緑の世界史 上・下」朝日新聞社、1994
ダイアン・コイル「脱物質化社会」東洋経済新報社、2001
谷田部英正「椅子と日本人のからだ」晶文社、2004
塩野米松「失われた手仕事の思想」中公文庫 2008(2001)
シャルル・ヴァグネル「簡素な生活」講談社学術文庫、2001
エリック・スティーブン・レイモンド「伽藍とバザール」光芒社、1999
村上陽一郎「近代科学を超えて」講談社学術文庫、1986
吉本隆明「共同幻想論」角川文庫、1982
大前研一「企業参謀」講談社文庫、1985
ジョージ・P・マードック「社会構造」新泉社、2001
富永健一「社会変動の中の福祉国家」中公新書、2001
大沼保昭「人権、国家、文明」筑摩書房、1998
東嶋和子「死因事典」講談社ブルーバックス、2000
エドムンド・リーチ「社会人類学案内」岩波書店、1991
リヒャルト・ガウル他「ジャパン・ショック」日本放送出版協会、1982
柄谷行人「<戦前>の思考」講談社学術文庫、2001
江藤淳「成熟と喪失」河出書房、1967
森岡正博「生命学に何ができるか」勁草書房 2001
エドワード・W・サイード「知識人とは何か」平凡社、1998  
オルテガ「大衆の反逆」ちくま学芸文庫、1995
小熊英二「単一民族神話の起源」新曜社、1995
佐藤優「テロリズムの罠 左巻」角川新書、2009
佐藤優「テロリズムの罠 右巻」角川新書、2009
S・ミルグラム「服従の心理」河出書房新社、1980
北原みのり「フェミの嫌われ方」新水社、2000
M・ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」岩波文庫、1989
デブラ・ニーホフ「平気で暴力をふるう脳」草思社、2003
藤原智美「暴走老人!」文芸春秋社、2007
成田龍一「<歴史>はいかに語られるか」NHKブックス、2001
速水融「歴史人口学で見た日本」文春新書、2001
J・バトラー&G・スピヴァク「国家を歌うのは誰か?」岩波書店、2008
ドン・タプスコット「デジタルネイティブが世界を変える」翔泳社、2009
匠雅音「性差を越えて 」新泉社、1992

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