匠雅音の家族についてのブックレビュー    <帝国>−グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性|アントニオ・ネグリ

<帝国>
グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性
お奨度:☆☆

著者:アントニオ・ネグリマイケル・ハート   以文社  2003年  ¥5600−

著者の略歴− アントニオ ネグリ:1933年生まれ。元パドヴァ大学政治社会科学研究所教授。60年代にイタリアの非共産党系左派の労働運動の潮流(オペライスモ[労働者主義])の理論的指導者として頭角を現わし,70年代にはアウトノミア運動の中心人物となる。しかし79年,運動に対する弾圧が高まるなか、テロリストという嫌疑をかけられ逮捕・投獄される.その後,81年に獄中で執筆された画期的なスピノザ論『野生のアノマリー』を出版、83年にフランスに亡命。以後14年間にわたりパリ第8大学などで研究・教育活動に携わったのち、97年7月、イタリアに帰国し、ローマ郊外のレビッビア監獄に収監されたが,現在は自由の身となり、研究/著述活動を続けている。邦訳書に,フェリックス・ガタリとの共著『自由の新たな空間』(丹生谷貴志訳,朝日出版社、1986),『構成的権力』(杉村昌昭・斉藤悦則訳,松穎社,1999),『未来への帰還』(杉村昌昭訳,インパクト出版会,1999),『転覆の政治学』(小倉利丸訳、現代企画室,2000)がある。
 マイケル ハート:1960年生まれ。現在,デューク大学教授(比較文学).ワシントン大学で比較文学を修めたのち,パリ第8大学で当時フランスに亡命中のアントニオ・ネグリに師事.ネグリのスピノザ論『野生のアノマリー』を英訳(1991)、著書として『ドゥルーズの哲学』(田代真他訳,法政大学出版局,1996)があり,目下,パゾリーニ論を準備中.また,ネグリとの共著に『デイオニソスの労働』(1994),パオロ・ヴイルノとの共編著に『イタリアにおけるラディカルな思想』(1996),キヤシイ・ウイークスとの共編著に『ジェイムソン・リーダー』(2000)がある。

 いままで帝国主義といえば、資本主義が金融資本主義の段階、つまり最終段階に入った時をいうと教えられてきた。
金融恐慌がいわれる昨今、まさに帝国主義の段階なのだろうが、本書がいう<帝国>は、帝国主義とは違う概念である。
500ページを超える大著で、情報社会の主流を論じている。
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 農業社会から工業社会へ、そして、いま情報社会へと転じている。
だから、国民国家から主権が移動しはじめ、<帝国>は拡散を開始したという。
それでありながら、<帝国>の中心にはアメリカがあるという。
こうした認識は、本サイトとほとんど重なるものだ。

 世界が国境を越えて活動するようになり、いわゆるグローバル化してきた。
そのため、近代の産物である国民国家の役割が、徐々に低下してきた。
それに代わって、新たな世界秩序が登場してきた。
その世界秩序を、本書は<帝国>と言っている。
 
 <帝国>への移行は近代的主権が終わりにさしかかったころ、その黄昏のなかから姿を現わす。帝国主義とは対照的に、<帝国>は権力の領土上の中心を打ち立てることもなければ、固定した境界や障壁にも依拠しない。<帝国>とは、脱中心的で脱領土的な支配装置なのであり、これは、そのたえず拡大しつづける開かれた境界の内部に、グローバルな領域全体を漸進的に組み込んでいくのである。<帝国>は、その指令のネットワークを調節しながら、異種混交的なアイデンティティと柔軟な階層秩序、そしてまた複数の交換を管理運営するのだ。要するに、帝国主義的な世界地図の国別にきっちりと塗りわけられた色が、グローバルな<帝国>の虹色のなかに溶け込んでいったわけである。P5

 本書は近代が終わって、時代は後近代へと入っていることを認識し、有形物の生産から無形の情報が生産の対象になっていると書いている。
しかも、グローバルな動きに、ローカルを対峙するのは誤りだという。
ローカル性を防衛しようとすると、グローバルななかにある解放性を否定することになりさえする。

 ヨーロッパの工業社会がアジアを襲ったとき、農業社会のままでは対抗できなかった。
近代におきた工業というグローバリゼーションは、農業というローカル性の存続を許さなかった。
日本だけが近代化しえたので、かろうじて独立を守ったが、ほかのアジア諸国は植民地化されていった。
新たな産業が勃興したときに、古い産業で拮抗しようとするのは、それだけで反動的なのだ。

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 独立運度や独立戦争が勝利するまでは、一体性をもって解放闘争を戦える。
しかし、途上国が発揮する統一の力は、進歩的であると同時に反動的である。
遅れた国々は、自国の独自性に固執し、バナキュラーなものを大切にしたい。

 グローバル化に抗して、我が国の伝統や独自な文化を訴えることが、遅れた国では共感をえる。
ローカルである自分を見れば、自国をセンチメンタルに見がちである。
ヨーロッパは遅れているし、筆者の母国であるイタリアは、もっと遅れている。
本書はきわめて冷静に論を進める。

 情報社会化というグローバルな流れがあるときに、工業社会という物つくり的な発想では拮抗できない。
物つくりに拘ることは、時代に反する行動であり、むしろ自分の首をしめる。
いかに物つくりに優れた技術があっても、それはローカルでもはや古い技術なのだ。

 本書は、グローバル化が労働者の貧困を招いていることを認識している。
しかし、労働者の立場に立つがゆえに、ローカルへの拘りを否定する。
この立場にも、ボクは同意する。
工業社会の農業が、農業機械なしで成り立たないように、情報社会の工業もソフトなしには機能しない。
物つくりも情報社会化しなければ、工業社会としてさえ存続できない。
 
 新たな情報経済の出現にさいして資本主義的生産が生起するまえに必要となるのは、情報のある種の蓄積である。 情報は−内部と外部に関するそれ以前の考え方を断ち切りつつ、しかしまた同時に、本源的蓄積をそれまで規定してきた時間軸上の進歩を縮減しながら−、 そのネットワークを通じて富と生産の指令を伝達する。言いかえるなら、情報的蓄積は、(マルクスが分析した本源的蓄積と同じく)それ以前に存在していた さまぎまの生産過程を破壊したり、または少なくともそれらの構造を解体したりするものであるが、しかしそれは、(マルクスの考える本源的蓄積とは異なり) それらの生産過程を自己のネットワークのなかにただちに統合して、さまぎまに異なる生産領域を横断しながら、それらに最高度の生産性を生み出させるのである。P337

 <帝国>の労働政治が何よりもまずもくろむのは、労働価格を引き下げることである。結局これは、本源的蓄積の過程、再プロレタリア化の過程のようなものなのだ。 過去2世紀をとおして社会主義の政治にとって真の要石であった労働日の規制は、完膚なきまでにくつがえされてしまった。労働日はしばしば週末もなければ長期休暇もなしに、 12時間、14時間、16時間もつづく。男性にも女性にも、子どもにも、高齢者にも障害者にも、誰にも労働がある。<帝国>は万人に労働をあたえるのだ!  搾取の体制が無規制になればなるほど、働き口も増えていく。(中略)働き口が増えれば増えるほど、賃金は低下する。P427

 近代の資本主義が誕生するとき、資本の本源的蓄積が残酷にすすんだ。
それは新たな社会の誕生には、不可避に発生する厳しい現実なのだ。
情報社会の誕生にも、本源的蓄積が残酷にすすむ。
労働者は賃金を下げられ、時とすると職場を奪われる。
しかし、だからといって情報社会化に反対すると、もっと酷いことになる。
現在は新たな秩序の形成過程だから過酷なのだ。

 上記のような認識をもった上で、筆者は情報社会化を支持する。
これも本サイトと同じ姿勢である。
現状がどんなに厳しくても、前の時代よりは良くなっている。
前近代より近代のほうが、より多くの人が生活できるようになった。
不衛生だった前近代から、乳幼児死亡率は劇的に低下した。
だから、新たな時代を否定するだけでは無意味なのだ。
危機を乗りこえる手段は、主体の存在論的な転位にあるという。

 <帝国>に抗する存在として、マルチチュードという概念を、筆者は提出する。
マルチチュードの生産様式は、搾取に抵抗し、所有に抵抗し、自由の名のもとに腐敗に抵抗しながら現れるという。
しかし、マルチチュードという概念は、新しいがゆえに判りにくい。
訳者のあとがきには、次のように書かれている。
  
 <帝国>の秩序と権力に抗するデモクラシーの運動、言いかえれば、対抗−<帝国>を根底的に捉えるために、ネグリとハートは17世紀オランダの特異な政治哲学者スピノザに由来する、「マルチチュード」という概念を導き入れる。「マルチチュード」には「群集」「多数性」「多性」などこれまでさまざまな訳語が当てられているが、定訳はない。(中略)それがたんに集合体としての人間の多元的性格の指摘にとどまるものではなく、能動的な社会的行為体、つまり、特異的かつ集合的な主体性をも意味していると考えるからである。P514

 これだけ言われても、やはりよく判らない。
しかし、いま新たな時代の胎動期にあり、本源的蓄積が残酷にすすんでいるのだとは判る。
とすれば、<帝国>に抗する主体は、まったく新たな形をとって登場するのは当然である。
現実は緑で、理論は灰色であり、ミネルバのフクロウは夕暮れにしか飛翔できない。
100年に一度の不況が来たくらいで、へこたれてしまうような理論では役に立たない。
近代が終わっているという認識を、本書の筆者と共有するがゆえに、海図のない困難な道を歩もうと思う。   (2009.5.5)
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参考:
木村英紀「ものつくり敗戦」日経プレミアシリーズ、2009
アントニオ ネグリ & マイケル ハート「<帝国>」以文社、2003
三浦展「団塊世代の戦後史」文春文庫、2005
クライブ・ポンティング「緑の世界史」朝日選書、1994
ジェイムズ・バカン「マネーの意味論」青土社、2000
柳田邦男「人間の事実−T・U」文春文庫、2001
山田奨治「日本文化の模倣と創造」角川書店、2002
ベンジャミン・フルフォード「日本マスコミ「臆病」の構造」宝島社、2005
網野善彦「日本論の視座」小学館ライブラリー、1993
R・キヨサキ、S・レクター「金持ち父さん貧乏父さん」筑摩書房、2000
クライブ・ポンティング「緑の世界史 上・下」朝日新聞社、1994
ダイアン・コイル「脱物質化社会」東洋経済新報社、2001
谷田部英正「椅子と日本人のからだ」晶文社、2004
塩野米松「失われた手仕事の思想」中公文庫 2008(2001)
シャルル・ヴァグネル「簡素な生活」講談社学術文庫、2001
エリック・スティーブン・レイモンド「伽藍とバザール」光芒社、1999
村上陽一郎「近代科学を超えて」講談社学術文庫、1986
吉本隆明「共同幻想論」角川文庫、1982
大前研一「企業参謀」講談社文庫、1985
ジョージ・P・マードック「社会構造」新泉社、2001
富永健一「社会変動の中の福祉国家」中公新書、2001
大沼保昭「人権、国家、文明」筑摩書房、1998
東嶋和子「死因事典」講談社ブルーバックス、2000
エドムンド・リーチ「社会人類学案内」岩波書店、1991
リヒャルト・ガウル他「ジャパン・ショック」日本放送出版協会、1982
柄谷行人「<戦前>の思考」講談社学術文庫、2001
江藤淳「成熟と喪失」河出書房、1967
森岡正博「生命学に何ができるか」勁草書房 2001
エドワード・W・サイード「知識人とは何か」平凡社、1998  
オルテガ「大衆の反逆」ちくま学芸文庫、1995
小熊英二「単一民族神話の起源」新曜社、1995
佐藤優「テロリズムの罠 左巻」角川新書、2009
佐藤優「テロリズムの罠 右巻」角川新書、2009
S・ミルグラム「服従の心理」河出書房新社、1980
北原みのり「フェミの嫌われ方」新水社、2000
M・ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」岩波文庫、1989
デブラ・ニーホフ「平気で暴力をふるう脳」草思社、2003
藤原智美「暴走老人!」文芸春秋社、2007
成田龍一「<歴史>はいかに語られるか」NHKブックス、2001
速水融「歴史人口学で見た日本」文春新書、2001
J ・バトラー&G・スピヴァク「国家を歌うのは誰か?」岩波書店、2008
ドン・タプスコット「デジタルネイティブが世界を変える」翔泳社、2009

斉藤美奈子「モダンガール論」文春文庫、2003
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