著者の略歴−1941年兵庫県生まれ。東京大学経済学部卒。同大学院英文科修士課程修了。文芸評論家。漱石論により群像新人文学賞、「マルクスその可能性の中心」により亀井勝一郎賞受賞。元法政大学教授。現在、近畿大学文芸学部特任教授、コロンビア大学比較文学科客員教授。著書に「畏怖する人間」「意味という病」「反文学論」「日本近代文学の起源」「内省と遡行」「言葉と悲劇」「探究T・U」「終焉をめぐって」「ヒユーモアとしての唯物論」「坂口安吾と中上健次」がある。 講演をもとに加筆したものであるためか、本書はとても読みやすい。 若いと思っていた筆者だが、1941年生まれということは、今年は60才になるのだ。 文学が人の口に上がらなくなって、もうずいぶんと時間がたつ。 ましてや文芸評論など、もはや誰も見向きもしない。 しかし、一度始めてしまった仕事は、当人の習い性になり、止めるわけにはいかないのである。 年齢のいった筆者は、近代と文学にこだわる。
これらをつらぬくモチーフは、近代と言文一致である。 近代の国民国家が誕生するには、普遍的な概念を、土着的な感情がこめやすい言葉におきかえる必要があった。 西ヨーロッパでは、ラテン語から土着後としてのフランス語やドイツ語が、誕生して初めてフランスやドイツといった意識が生まれたのだという。 しかもそれは、書かれた言葉としての共通語があり、それを話し言葉におきかえることによって、土着化したのだという。 その過程は、わが国でも変わらない。 漢文という素養を、全国の支配者たちが共有しており、それにかぶせる形で話し言葉が合わされていったという。 西ヨーロッパの国民国家は、ラテン語から土着語の翻訳の完成と平行現象である。 ダンテはイタリア語で書いたのではない。 彼の書いた俗語がイタリア語になったのである。 ルターの訳した聖書がドイツ語になり、デカルトの書いた文章がフランス語になったのだという。 口語的な土着語の誕生によって、文章と人間の内面がつながったのであり、近代国家をうみだしたのだという。 言文一致というと、書き言葉を話し言葉にあわせたように聞こえるが、 書き言葉をもって話し言葉へと、滑り込ませていったのだという。 むしろ、話し言葉こそ書き言葉に影響を受け、話し言葉が変わったのだ、と筆者はほのめかす。 言語の肉体化いいかえると内面化は、書き言葉が書かれるためだけに使われている限り、相当な困難があろう。 書くという行為が、そのまま思考につながらない。 話すつまり内語運動が、そのまま言葉として記されて初めて、思考が外在化しうるのであろう。 思考は外在化しなければ、自覚もできないのだから、思考を認識できにくいだろう。 そしてもう一つ、日本語の特徴は、漢字仮名交じり文であり、 それが我々の主体性のなさと、何でもありを現出した根本的な原因だという。 漢字仮名交じり文によって、外来ものと土着ものが並置され、両者は混交しなかった。 そのために、強烈な自我が形成されなかったという。 筆者は、この2つをメスに近代とを考えている。 近代こそ解明される必要がある時代であり、それにはそれほど遡る必要はないという。 近代の根は、それほど深くはないという指摘には、私も同意する。 たとえば、天皇制の解明に明治以前まで遡ったり、 フェミニズムの歴史を19世紀まで遡ってしまうがごとく、 むしろ近代で表れた概念が、歴史を遡ってしまうことが問題だろう。 歴史の長さが、ことの正当性を保証するといった心性があるのだろうか。
それ以前とは違う行動様式が支配し始めたという。 ネーションとは日本語にしにくい言葉だが、あえていえば国民国家だろうか。 江戸時代において、武士は主君のために死ぬという武士道を確立していました。しかし、これは、いってみれば部族に属することです。武士でない人たちも、それぞれに宗教をもっていたでしょう。しかし、ネーションのために死ぬという考えはなかったはずです。たとえば、明治天皇が死んだとき殉死した乃木将軍のような人は、天皇を封建的な主君の代理にしていました。殉死が封建的な主君に対する武士のみの形式であることに注意すべきです。彼が際立って見えたのは、近代のネーション=ステートを理解していなかったアナクロニズムのためです。(中略) 西ヨーロッパにおいて、このような「ネーション」が形成されるのは、18世紀以来啓蒙主義によって宗教が否定されてしまったあとからです。それはロマン主義としてあらわれます。つまり、ネーションのために生き、そのために死ぬ、それによって永遠の同一性のなかにつながるという意識が、ロマン派とともにはじめて出現したわけです。近代日本のネーションも、従来の諸観念の継承のなかに求めることはできません。むしろ、その否定のなかに見いだされる。P29 筆者は、近代を前近代からの断絶として捉えている。 これは基本的に正しいだろう。 本質を探るといったかたちで、歴史を連続したものとして考え、遡るのはむしろ歴史を見えなくしてしまう。 たとえば、学校の歴史を探るために、寺子屋や藩校を探ったりするのは、 学ぶというとことでは括れても、学校そのものを見えなくしてしまう。 学校は、近代の工業社会の要求にこたえたものであり、前近代の学ぶシステムとはまったく違うのである。 また、自由にかんしても、近代のなかで考察する。自由は勝手気ままではない。 ここで少し極端にいうと、「自由」とは私的所有権ということになります。(中略)「私的所有」は、たんに私有財産の問題ではありえないのです。たとえば、「職業の自由」は、各人が自分の労働力を私有するということですし、「表現の自由」は同時に、表現を私有すること(著作権)と 切り離せない。個人が共同体に属する存在であるならば、こうした自由はありえません。というわけで、私的所有権は、あらゆる近代的な「自由」を凝縮するものです。そして、これを制度的に保証することが近代の革命だとすれば、それは本質的に「ブルジョア革命」ということができるのです。P71 ところで、筆者の行動を支えている原理は何だろうか。 共産主義が崩壊したいま、資本主義に拮抗するものはない。 湾岸戦争に反対し、アメリカを批判する根拠は何だろうか。 アメリカとイスラムがぶつかったとき、イスラムのほうに立つのはいかなる理由でか。 確かに体制を支える人間にならないとすれば、批判者として立つのだが、批判の根拠は必要だろう。 むしろ批判者であればあるだけに、根拠の提示が望まれる。 本書を読んでいると、賛同する部分はたくさんあり、教えられることも多い。 しかし、批判の根拠が不明で、遅れてしまった賢者という感が、どうしても否めないのである。 筆者の次の言葉には、心から同意する。 もし今後にファッシズムがあるとすれば、けっしてかつてのようなファッシズムとしては出てこないでしょう。それは「民主主義」として出てきます。さらに、そのときに抵抗しうるのは、社会民主主義者ではなく、頑固な自由主義者だけであろうということをつけ加えておきます。P98 本書の<戦前>とは、太平洋戦争だけではない。 これからも来るであろう戦争の前という意味だそうで、筆者は危機意識を強くもっている。 ところで、評論とは結局のところ随伴者に過ぎない。 だから、いかなる領域であれ評論をするものは、私をも含めて存在基盤が問われていることは確かである。 とりわけ近代が終了しつつある現在、資本主義批判が資本主義にのってなされるのは、もう無理である。 おそらく近代の次、つまり後近代がすぐそこまで迫っているのだ。 後近代の認識において、筆者はいささか遅れをとっているように感じた。
参考: M・ハリス「ヒトはなぜヒトを食べたか 生態人類学から見た文化の起源」ハヤカワ文庫、1997 杉山幸丸「子殺しの行動学:霊長類社会の維持機構をさぐる」北斗出版、1980 エドワード・ショーター「近代家族の形成」昭和堂、1987 フィリップ・アリエス「子供の誕生」みすず書房、1980 J・F・グブリアム、J・A・ホルスタイン「家族とは何か その言説と現実」新曜社、1997 磯野誠一、磯野富士子「家族制度:淳風美俗を中心として」岩波新書、1958 黒沢隆「個室群住居:崩壊する近代家族と建築的課題」住まいの図書館出版局、1997 アラン・ブルーム「アメリカン・マインドの終焉」みすず書房、 I・ウォーラーステイン「新しい学 21世紀の脱=社会科学」藤原書店、2001 レマルク「西部戦線異常なし」新潮文庫、1955 田川建三「イエスという男 逆説的反抗者の生と死」三一書房、1980 ヘンリー・D・ソロー「森の生活」JICC出版局、1981 野村雅一「身ぶりとしぐさの人類学」中公新書、1996 永井荷風「墨東綺譚」新潮文庫、1993 エドワード・S・モース「日本人の住まい」八坂書房、2000 福岡賢正「隠された風景」南方新社、2005 イリヤ・プリゴジン「確実性の終焉」みすず書房、1997 エドワード・T・ホール「かくれた次元」みすず書房、1970 オットー・マイヤー「時計じかけのヨーロッパ」平凡社、1997 ロバート・レヴィーン「あなたはどれだけ待てますか」草思社、2002 増川宏一「碁打ち・将棋指しの誕生」平凡社、1996 宮本常一「庶民の発見」講談社学術文庫、1987 青木英夫「下着の文化史」雄山閣出版、2000 瀬川清子「食生活の歴史」講談社、2001 鈴木了司「寄生虫博士の中国トイレ旅行記」集英社文庫、1999 李家正文「住まいと厠」鹿島出版会、1983 ニコル・ゴンティエ「中世都市と暴力」白水社、1999 武田勝蔵「風呂と湯の話」塙書店、1967 ペッカ・ヒマネン「リナックスの革命」河出書房新社、2001 匠雅音「家考」学文社 M・ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」岩波文庫、1989 アンソニー・ギデンズ「国民国家と暴力」而立書房、1999 江藤淳「成熟と喪失:母の崩壊」河出書房、1967 桜井哲夫「近代の意味:制度としての学校・工場」日本放送協会、1984 G・エスピン=アンデルセン「福祉国家の可能性」桜井書店、2001 G・エスピン=アンデルセン「ポスト工業経済の社会的基礎」桜井書店、2000 桜井哲夫「近代の意味:制度としての学校・工場」日本放送協会、1984 ソースティン・ヴェブレン「有閑階級の理論」筑摩学芸文庫、1998 オルテガ「大衆の反逆」白水社、1975 E・フロム「自由からの逃走」創元新社、1951 アラン・ブルーム「アメリカン・マインドの終焉」みすず書房、1988 イマニュエル・ウォーラーステイン「新しい学」藤原書店、2001 ポール・ファッセル「階級「平等社会」アメリカのタブー」光文社文庫、1997 橋本治「革命的半ズボン主義宣言」冬樹社、1984 石井光太「神の棄てた裸体」新潮社 2007 梅棹忠夫「近代世界における日本文明」中央公論新社、2000 小林丈広「近代日本と公衆衛生」雄山閣出版、2001 前田愛「近代読者の成立」岩波現代文庫、2001 フランク・ウェブスター「「情報社会」を読む」青土社、2001 ジャン・ボードリヤール「消費社会の神話と構造」紀伊国屋書店、1979 エーリッヒ・フロム「自由からの逃走」創元新社、1951 ハワード・ファースト「市民トム・ペイン」晶文社、1985 成松佐恵子「庄屋日記に見る江戸の世相と暮らし」ミネルヴァ書房、2000 デビッド・ノッター「純潔の近代」慶應義塾大学出版会、2007 北見昌朗「製造業崩壊」東洋経済新報社、2006 小俣和一郎「精神病院の起源」太田出版、2000 松本昭夫「精神病棟の20年」新潮文庫、2001 斉藤茂太「精神科の待合室」中公文庫、1978 ハンス・アイゼンク 「精神分析に別れを告げよう」批評社、1988 吉田おさみ「「精神障害者」の解放と連帯」新泉社、1983 古舘真「男女平等への道」明窓出版、2000 三戸祐子「定刻発車」新潮文庫、2005 ケンブリュー・マクロード「表現の自由VS知的財産権」青土社、2005 フリードリッヒ・ニーチェ「悦ばしき知識」筑摩学芸文庫、1993 ソースティン・ヴェブレン「有閑階級の理論」筑摩学芸文庫、1998 リチヤード・ホガート「読み書き能力の効用」晶文社、1974 ガルブレイス「ゆたかな社会」岩波書店、1990 ヴェルナー・ゾンバルト「恋愛と贅沢と資本主義」講談社学術文庫、2000 C.ダグラス・ラミス「ラディカル デモクラシー」岩波書店、2007 オリーブ・シュライナー「アフリカ農場物語」岩波文庫、2006 エマニュエル・トッド「新ヨーロッパ大全」藤原書店、1992 石原寛爾「最終戦争論」中公文庫、2001 多川精一「戦争のグラフィズム」平凡社、2000 レマルク「西部戦線異常なし」レマルク、新潮文庫、1955 ジョージ・F・ケナン「アメリカ外交50年」岩波書店、2000 アミン・マアルーフ「アラブが見た十字軍」筑摩学芸文庫、2001 アンソニー・ギデンズ「国民国家と暴力」而立書房、1999 戸部良一ほか「失敗の本質:日本軍の組織論的研究」ダイヤモンド社、1984 田中宇「国際情勢の見えない動きが見える本」PHP文庫、2001 横田正平「私は玉砕しなかった」中公文庫、1999 ウイリアム・ブルム「アメリカの国家犯罪白書」作品社、2003 佐々木陽子「総力戦と女性兵士」青弓社、2001 多川精一「戦争のグラフィズム 「FRONT」を創った人々」平凡社、2000 秦郁彦「慰安婦と戦場の性」新潮選書、1999 佐藤文香「軍事組織とジェンダー」慶応義塾大学出版会株式会社、2004 別宮暖朗「軍事学入門」筑摩書房、2007 西川長大「国境の超え方」平凡社、2001 三宅勝久「自衛隊員が死んでいく」花伝社、2008 戸部良一他「失敗の本質」ダイヤモンド社、1984 ピータ・W・シンガー「戦争請負会社」NHK出版、2004 佐々木陽子「総力戦と女性兵士」青弓社 2001 菊澤研宗「組織の不条理」ダイヤモンド社、2000 ガバン・マコーマック「属国」凱風社、2008 ジョン・ダワー「敗北を抱きしめて」岩波書店、2002 サビーネ・フリューシュトゥック「不安な兵士たち」原書房、2008 デニス・チョン「ベトナムの少女」文春文庫、2001 横田正平「私は玉砕しなかった」中公文庫、1999 読売新聞20世紀取材班「20世紀 革命」中公文庫、2001 ジョン・W・ダワー「容赦なき戦争」平凡社、1987 杉山隆男「兵士に聞け」新潮文庫、1998 杉山隆男「自衛隊が危ない」小学館101新書、2009 伊藤桂一「兵隊たちの陸軍史」新潮文庫、1969
|