匠雅音の家族についてのブックレビュー    <戦前>の思考|柄谷行人

<戦前>の思考 お奨度:

著者:柄谷行人(からたに こうじん)−−講談社学術文庫、2001 ¥900−

著者の略歴−1941年兵庫県生まれ。東京大学経済学部卒。同大学院英文科修士課程修了。文芸評論家。漱石論により群像新人文学賞、「マルクスその可能性の中心」により亀井勝一郎賞受賞。元法政大学教授。現在、近畿大学文芸学部特任教授、コロンビア大学比較文学科客員教授。著書に「畏怖する人間」「意味という病」「反文学論」「日本近代文学の起源」「内省と遡行」「言葉と悲劇」「探究T・U」「終焉をめぐって」「ヒユーモアとしての唯物論」「坂口安吾と中上健次」がある。
 講演をもとに加筆したものであるためか、本書はとても読みやすい。
若いと思っていた筆者だが、1941年生まれということは、今年は60才になるのだ。
文学が人の口に上がらなくなって、もうずいぶんと時間がたつ。
ましてや文芸評論など、もはや誰も見向きもしない。
しかし、一度始めてしまった仕事は、当人の習い性になり、止めるわけにはいかないのである。
年齢のいった筆者は、近代と文学にこだわる。

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 本書には、1990年頃に発表された9本の論文が収録されている。
これらをつらぬくモチーフは、近代と言文一致である。
近代の国民国家が誕生するには、普遍的な概念を、土着的な感情がこめやすい言葉におきかえる必要があった。

 西ヨーロッパでは、ラテン語から土着後としてのフランス語やドイツ語が、誕生して初めてフランスやドイツといった意識が生まれたのだという。
しかもそれは、書かれた言葉としての共通語があり、それを話し言葉におきかえることによって、土着化したのだという。
その過程は、わが国でも変わらない。
漢文という素養を、全国の支配者たちが共有しており、それにかぶせる形で話し言葉が合わされていったという。

 西ヨーロッパの国民国家は、ラテン語から土着語の翻訳の完成と平行現象である。
ダンテはイタリア語で書いたのではない。
彼の書いた俗語がイタリア語になったのである。
ルターの訳した聖書がドイツ語になり、デカルトの書いた文章がフランス語になったのだという。
口語的な土着語の誕生によって、文章と人間の内面がつながったのであり、近代国家をうみだしたのだという。

 言文一致というと、書き言葉を話し言葉にあわせたように聞こえるが、
書き言葉をもって話し言葉へと、滑り込ませていったのだという。
むしろ、話し言葉こそ書き言葉に影響を受け、話し言葉が変わったのだ、と筆者はほのめかす。

 言語の肉体化いいかえると内面化は、書き言葉が書かれるためだけに使われている限り、相当な困難があろう。
書くという行為が、そのまま思考につながらない。
話すつまり内語運動が、そのまま言葉として記されて初めて、思考が外在化しうるのであろう。

 思考は外在化しなければ、自覚もできないのだから、思考を認識できにくいだろう。
そしてもう一つ、日本語の特徴は、漢字仮名交じり文であり、
それが我々の主体性のなさと、何でもありを現出した根本的な原因だという。
漢字仮名交じり文によって、外来ものと土着ものが並置され、両者は混交しなかった。
そのために、強烈な自我が形成されなかったという。

 筆者は、この2つをメスに近代とを考えている。
近代こそ解明される必要がある時代であり、それにはそれほど遡る必要はないという。
近代の根は、それほど深くはないという指摘には、私も同意する。
たとえば、天皇制の解明に明治以前まで遡ったり、
フェミニズムの歴史を19世紀まで遡ってしまうがごとく、 
むしろ近代で表れた概念が、歴史を遡ってしまうことが問題だろう。
歴史の長さが、ことの正当性を保証するといった心性があるのだろうか。

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 筆者は、近代は新しい発想が誕生したのであり、
それ以前とは違う行動様式が支配し始めたという。
ネーションとは日本語にしにくい言葉だが、あえていえば国民国家だろうか。

 江戸時代において、武士は主君のために死ぬという武士道を確立していました。しかし、これは、いってみれば部族に属することです。武士でない人たちも、それぞれに宗教をもっていたでしょう。しかし、ネーションのために死ぬという考えはなかったはずです。たとえば、明治天皇が死んだとき殉死した乃木将軍のような人は、天皇を封建的な主君の代理にしていました。殉死が封建的な主君に対する武士のみの形式であることに注意すべきです。彼が際立って見えたのは、近代のネーション=ステートを理解していなかったアナクロニズムのためです。(中略) 西ヨーロッパにおいて、このような「ネーション」が形成されるのは、18世紀以来啓蒙主義によって宗教が否定されてしまったあとからです。それはロマン主義としてあらわれます。つまり、ネーションのために生き、そのために死ぬ、それによって永遠の同一性のなかにつながるという意識が、ロマン派とともにはじめて出現したわけです。近代日本のネーションも、従来の諸観念の継承のなかに求めることはできません。むしろ、その否定のなかに見いだされる。P29

 筆者は、近代を前近代からの断絶として捉えている。
これは基本的に正しいだろう。
本質を探るといったかたちで、歴史を連続したものとして考え、遡るのはむしろ歴史を見えなくしてしまう。
たとえば、学校の歴史を探るために、寺子屋や藩校を探ったりするのは、
学ぶというとことでは括れても、学校そのものを見えなくしてしまう。
学校は、近代の工業社会の要求にこたえたものであり、前近代の学ぶシステムとはまったく違うのである。

 また、自由にかんしても、近代のなかで考察する。自由は勝手気ままではない。

 ここで少し極端にいうと、「自由」とは私的所有権ということになります。(中略)「私的所有」は、たんに私有財産の問題ではありえないのです。たとえば、「職業の自由」は、各人が自分の労働力を私有するということですし、「表現の自由」は同時に、表現を私有すること(著作権)と 切り離せない。個人が共同体に属する存在であるならば、こうした自由はありえません。というわけで、私的所有権は、あらゆる近代的な「自由」を凝縮するものです。そして、これを制度的に保証することが近代の革命だとすれば、それは本質的に「ブルジョア革命」ということができるのです。P71

 ところで、筆者の行動を支えている原理は何だろうか。
共産主義が崩壊したいま、資本主義に拮抗するものはない。
湾岸戦争に反対し、アメリカを批判する根拠は何だろうか。
アメリカとイスラムがぶつかったとき、イスラムのほうに立つのはいかなる理由でか。

 確かに体制を支える人間にならないとすれば、批判者として立つのだが、批判の根拠は必要だろう。
むしろ批判者であればあるだけに、根拠の提示が望まれる。
本書を読んでいると、賛同する部分はたくさんあり、教えられることも多い。
しかし、批判の根拠が不明で、遅れてしまった賢者という感が、どうしても否めないのである。

 筆者の次の言葉には、心から同意する。

 もし今後にファッシズムがあるとすれば、けっしてかつてのようなファッシズムとしては出てこないでしょう。それは「民主主義」として出てきます。さらに、そのときに抵抗しうるのは、社会民主主義者ではなく、頑固な自由主義者だけであろうということをつけ加えておきます。P98

 本書の<戦前>とは、太平洋戦争だけではない。
これからも来るであろう戦争の前という意味だそうで、筆者は危機意識を強くもっている。
ところで、評論とは結局のところ随伴者に過ぎない。
だから、いかなる領域であれ評論をするものは、私をも含めて存在基盤が問われていることは確かである。

 とりわけ近代が終了しつつある現在、資本主義批判が資本主義にのってなされるのは、もう無理である。
おそらく近代の次、つまり後近代がすぐそこまで迫っているのだ。
後近代の認識において、筆者はいささか遅れをとっているように感じた。
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参考:
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杉山隆男「自衛隊が危ない」小学館101新書、2009
伊藤桂一「兵隊たちの陸軍史」新潮文庫、1969

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