匠雅音の家族についてのブックレビュー    国境の超え方−国民国家論序説|西川長大

国境の超え方
 国民国家論序説
お奨度:

著者: 西川長大(にしかわ ながお)−平凡社、2001年  ¥1、300−

 著者の略歴− 1934年朝鮮に生まれる.京都大学文学部文学研究科博士課程修了.現在,立命館大学国際開係学部教授。主な著書に,『地球時代の民族=文化理論』新曜社1995,『国民国家論の射程』柏書房1998,『フランスの解体?』人文書院1999など。主な編著書に,『世紀転換期の国際秩序と国民文化の形成』柏書房1999共編,『20世紀をいかに越えるか』平凡社2000年共編など。主な訳書に,ルイ・アレチュセール『マルクスのために』平凡社1994共訳,リン・ハント『フランス革命と家族ロマンス』平凡社1999年共訳など.

 国家というものは、近代の産物ではない。
人類が産業を手に入れたときから、国家はある。
しかし、国民国家になると、話は別である。
国民なる概念が近代の産物であるように、国民国家は近代になってから誕生した。
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 律令国家や封建時代の武士政権を、過酷な庶民搾取の典型のように考えているかもしれない。
しかし、農業が主な産業だった時代の国家は、現在の国民国家ほど強力ではない。
地域共同体や宗教教団が、独自の力をもち、国家の力は必ずしも個人をとらえてはいなかった。
現在の国民国家こそ、人類の歴史上もっとも強力な国家である。

 国民国家とは近代国家と言いかえても良い。
本書は、現在の愛国心が形作られた背景を考えながら、国民国家の国境をこえる、
つまり国家というものを相対化しようとする試みである。
本書は、冒頭で好きな国、嫌いな国として、地球上に現存する国を実名で挙げている。
韓国と北朝鮮は、わが国にとって特別な国だという。

 日本人と朝鮮人のあいだの心理的葛藤は構造的なものである。天皇や大臣が日本人の過去の犯罪的な行為をたとえ心から謝罪したとしても、日本人に対する朝鮮人の反感を生みだしている構造的なものを改めないかぎり、日本は朝鮮人にとって嫌いな国のトップに位置し続けるであろうし、日本人は疾しさを感じながらも心の奥では差別の感情をぬぐいきれないだろう。
 ではその構造的なものとは何か。私は国内的には現在の日本社会自体に内在している差別の構造であり、対外的には国境の存在だと思う。社会は差別を必要とし、国家は仮想敵を必要とする。(中略)国家と国境が存在するかぎり、隣国問題が存在するのだ。国境の問題でトラブルを起こしていない国家があるだろうか。重要なのは国益や国家エゴの衝突の場で、どれだけの人間的な知恵や倫理が発揮されるかであろう。民族や国民のイメージは結局は国家のイデオロギーが作りだした幻影であって、およそ実体とはかけ離れたものである。P46

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 筆者の立論の根拠が判らない。
国際関係学部の教授であるから、政治学者だと思ったら、
文学研究科の博士課程を修了したとある。
個人の観念と国家というのは、ともに観念=約束された価値ではある。
が、そのあり方は異なった次元に存在する。
筆者は、個人の位相と国家の位相を、同一レベルでとらえているらしく、
個人の感覚が国家の話に敷衍されている。
政治学者もしくは社会科学者なら、決してやらないような論の展開にとまどった。

 個人が国家より先に存在するようでありながら、個人はある面では国家を超えられない。
つまり、個人が物心ついたときには、ある言葉でしか自己認識できない。
自分で母語を選ぶことはできない。
人間は親を選べないように、誕生の地を選べないのだ。
しかも、国家はある一つもしくは数個の言葉によって、国家観念を形成している。
国家を嫌悪するとしても、母語なる言葉から逃れることはできない。

 西欧と非西欧の文化を語るときには、サィードが好んで引用される。
本書も例外ではない。
次の言葉を引用して、何かを語ったつもりになっている。
 
 「アラブ・イスラム世界は全体として、西洋の市場体系にしっかりとつなぎとめられている。……それは単に、大石油会社が合衆国の経済システムによって制御されているという意味ばかりではない。マーケッティング、市場調査、産業マネージメントはおろか、アラブの石油収入そのものが、合衆国に基礎をおいているという意味なのである。その結果石油で富んだアラブは、たちまちのうちに合衆国の輸出品の巨大な消費者に変容した」(328頁)

 これはなにも、今日のアラブとアメリカに限ったことではない。
強力な文化圏が対峙するときには、どこでも起きることではないだろうか。
そして、文化や文明というのも、国家の枠組み内にあるという。
これは同義反復だろう。
この事実を、わが国に当てはめて、歴史を論じる。

 「文明」は日本の民衆によって概して歓迎されたのではないかと思う。アジアの他の諸国に比べても、「文明」に対する拒絶反応がこれほど弱い国は少なかったであろう。それは明治政府の開化政策が支持されたということではなく、それ以前に異文化を受けいれる土壌ができていたのではないかと思う。そのことは逆にいえば、民衆には「文明」に反対するためのよりどころ(例えば強力な道徳や宗教)が欠けていたことになるだろう。P248

 この違いは、何なのだろう。
筆者は国民国家といいながら、近代と前近代の区別がついていないようだ。
個人と国家を同位相に並べたり、イスラムという前近代国家を、近代国家と同等に論じたりしている。

 補論において、多文化主義を唱える筆者だが、それを<私文化>という言葉で表す。
そして、筆者の言う私文化は、国民国家をモデルにした文化をはみだし、
否定するものである、という。
私文化をどう担保するのかが、考察されておらず、個人的な良心が国民国家を超える。
そう言っているようで、筆者は良心的かもしれないが、センチメンタルな空論としか聞こえない。

 国民国家論序説と副題がうたれているが、地獄への途は善意で敷き詰められていることが、理解できないのだろう。     (2004.3.19)
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参考:
アマルティア・セン「貧困と飢饉」岩波書店、2000
石井光太「絶対貧困」光文社、2009
上原善広「被差別の食卓」新潮新書、2005
ジュリー・オオツカ「天皇が神だった頃」アーティストハウス、2002
G・エスピン=アンデルセン「福祉国家の可能性」桜井書店、2001
G・エスピン=アンデルセン「ポスト工業経済の社会的基礎」桜井書店、2000

六嶋由岐子「ロンドン骨董街の人びと」新潮文庫、2001
エヴァ・クルーズ「ファロスの王国 T・U」岩波書店、1989
バーナード・ルドルフスキー「さあ横になって食べよう:忘れられた生活様式」鹿島出版会、1985

高尾慶子「イギリス人はおかしい」文春文庫、2001
瀬川清子「食生活の歴史」講談社学術文庫、2001
西川恵「エリゼ宮の食卓 その饗宴と美食外交」新潮文庫、2001
アンソニー・ボーデン「キッチン・コンフィデンシャル」新潮社、2001
ジョン・ハワード「18世紀ヨーロッパ監獄事情」岩波文庫、1994
会田雄次「アーロン収容所」中公新書、1962
今一生「ゲストハウスに住もう!」晶文社、2004
レナード・ショッパ「「最後の社会主義国」日本の苦悩」毎日新聞社 2007
岩瀬達哉「新聞が面白くない理由」講談社文庫、1998
山本理顕「住居論」住まいの図書館出版局、1993
古島敏雄「台所用具の近代史」有斐閣、1996
久家義之「大使館なんかいらない」角川文庫、2001
田中琢&佐原真「発掘を科学する」岩波新書、1994
臼田昭「ピープス氏の秘められた日記」岩波新書、1982
パット・カリフィア他「ポルノと検閲」青弓社、2002

下川裕治「バンコクに惑う」双葉文庫、1994
清水美和「中国農民の反乱」講談社、2002  
編・暁冲「汚職大国・中国」文春文庫、2001
顧蓉、葛金芳「宦官」徳間文庫、2000
金素妍「金日成長寿研究所の秘密」文春文庫、2002
邱永漢「中国人の思想構造」中公文庫、2000
中島岳志「インドの時代」新潮文庫、2009
山際素男「不可触民」光文社、2000
潘允康「変貌する中国の家族」岩波書店、1994
須藤健一「母系社会の構造」紀伊国屋書店、1989
宮本常一「宮本常一アフリカ・アジアを歩く」岩波書店、2001
コリンヌ・ホフマン「マサイの恋人」講談社、2002
川田順造「無文字社会の歴史」岩波書店、1990
ジェーン・グドール「森の隣人」平凡社、1973
阿部謹也「ヨーロッパ中世の宇宙観」講談社学術文庫、1991
永松真紀「私の夫はマサイ戦士」新潮社、2006

オルテガ「大衆の反逆」白水社、1975
小熊英二「単一民族神話の起源」新曜社、1995

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