匠雅音の家族についてのブックレビュー    住居論|山本理顕

住居論 お奨め度:

著者:山本理顕(やまもと りけん)
住まいの図書館出版局、1993年 ¥2、330−

著者の略歴−建築家。1945年北京生まれ。68年、日本大学理工学部建築学科卒業、71年、東京芸術大学大学院美術研究科建築専攻修了、71〜73年まで、東京大学生産技術研究所・原研究室に研究生として在室。73年、山本理顕設計工場を設立、現在に至る。この間、東洋大学、横浜国立大学、東京工業大学、東北大学、早稲田大学、日本女子大学の講師、88年から90年には京都精華大学助教授を勤める。「雑居ビルの上の住居」(GAZEBO、ROTUNDA) にて、87年度日本建築学会賞作品賞受賞。
 出版されてすでに10年近くが経過しているが、内容は未だに古びてはいない。
建築家である筆者が、住宅をとおしてというか、住宅へのというか、家族について考え続けた建築的な軌跡である。
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住居論 (住まい学大系)

 もし家族が<共同体内共同体>であるなら、家族はそれだけをひとつの単位として取り出してその内側だけの問題として取り扱うことはできない。つまり上位の共同体との関係としてでしか記述することができないということである。そしてそれは逆に、もし家族が<共同体内共同体>であるなら、家族という共同体の特性はその上位の共同体との関係として記述できるということである。P10

 家族はその社会によって規定されると、当然のことを言っているに過ぎないが、近代の住宅を作るうえでは必ずしもそうではなかった。
近代は世界中に同じ価値観を振りまいたので、住宅もそれにならって理想の住宅がイメージされた。
その社会に応じた家族像があるのではなく、近代的な家族像があると想定され、その想定にしたがって住宅が作られた。
そして、家族構成員が平等の人権をもつ理想図が描かれた。

 前近代では、住宅にしたがって家族が住んだ。
だが、近代では家族にしたがって住宅が作られた。
だから、あるべき家族像・住宅像が決定的に重要になった。
これは当然のこととして、住宅の像の混乱を生んだ。

 実際の家族はもうすっかり多様化してしまっているというのに、いざ住宅との関係で自分の家族を見ようとすると突然理想の家族にめざめてしまうのである。誰だって住宅に住んでいる。住み替えることも建て替えることも、きっと誰だってあると思う。そのときである。住宅といっしょになにやらほのぼのとした家族像なんか思い浮かべてしまうのだ。その住宅にあらゆる期待が込められる。(中略)
 ところが実際にそんな期待と現実の生活がびったり一致しているなんてことがあるはずがない。最近とくにそのへんははっきりしてきて、そのずれはあきれるほど広がってきていると私には思えるのだが、それでも住宅に対する期待は何故か相変わらず、一家団欒、夫婦の愛情、正しい子供という画一化された幻想なのである。P64
 
 一家団欒、夫婦の愛情、正しい子供が、近代家族の理想像とされた。
前近代の農耕社会では、職住が一致していたから家族が離れることができなかった。
一家団欒状態以外にはありようがなかったから、一家団欒などと改めて言う必要がなかった。
近代化は、男性を家から引きずりだし、外の職場へと賃金労働に誘った。

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 男性の賃金労働化で、家族がバラバラになり始めた。
だから、一家団欒をあらためて主張しなければ、家族が崩壊しかねなかった。
家族の崩壊をくい止めるために、一家団欒が言われた。
しかし、産業構造の変質が、家族を崩壊させたことは周知だろう。

 前近代では、一家団欒、夫婦の愛情、正しい子供、こうしたことは住宅と関係なかった。
前近代の住宅は、数百年の長きにわたって住み続けられたから、家族と住宅は関係のもちようがなかった。
そして、夫婦は愛情よりも、生活の必要性で同居していたのだし、同居していればそれなりに愛情も芽ばえた。

 前近代では、子供なる概念がなかったのだから、正しい子供などありようがなかった。
働く場所と住む場所の分離、つまり近代工業の影響は決定的だった。
近代がいかに、前近代とは違った価値観に支えられているか、本当に驚くばかりである。

 誰もが理想的だと思うような、そんな生活像に応じて住宅というものができあがっているのだとしたら、その住宅にはさまざまな理想的だと思えるような場面が仮定されているはずである。というよりそうしたさまざまな場面の組み合わせで住宅は組み立てられているのである。すでに述べたように、一家団欒、夫婦の愛情、子供との正しい関係といったような、そういう場面である。そしてたぶんそうした場面がことごとく形骸化しているということに私たちはすでに気がついてしまったということなのだと思う。そうした場面によって象徴される家族という関係が形骸化していると言ってもいい。P71

 家族が崩壊したところでは、家族をとおすことなく、人間の関係性が成り立つようになる。
今では家族は一緒に住んではいても、それぞれの人間関係がそのまま家の中まで持ち込まれ、すでにばらばらになっている。
個人としての生活が、家族としての生活に優先するようになった。
これは大家族から核家族へと、家族概念の組み替えがあったのと同様に、核家族も家族概念の組み替えにあっている。
もちろんそれは、工業社会から情報社会への変化を反映した、核家族から単家族への変化である。

 筆者は、個人が直接社会に向き合うような住宅を設計している。
1992年に完成したそれは、今までの住宅とは明らかに違う。
しかし、ここには新たな可能性がある。
下の図を見て欲しい。
現代における個人と住む関係が明らかになっている。

 
中庭に面して、上が厨房、右が個室群、
左が風呂・トイレ−岡山の住宅:P93

 近代のコミュニティ論は、血縁共同体としての家族の領域を認めた上で、さらにその領域の集合 による地域的な共同体を想定しているように思う。だがそんなコミュニティ論がことごとく失敗の 結果に終わったことを私たちは知っている。すでに見てきたように、家族の自律性を保存したまま その集合によるひとつの共同体を目指そうとすれば、そこにはきわめて権力的な中心を想定せざ るを得ないはずなのである。あるいは権力的な中心を排除して、かまどを軸とするような地域的な 共同体を想定するなら、逆に家族の自立性は失われる。P207

 どんな共同体にも、属性による何らかの秩序がある。
だから、すべての人間が平等になった社会で、共同体を想定することは困難である。
ましてや血縁と地域は、何の関係もないものだから、両者を一体化した家族を想定することは無理である。
血縁にこだわれば家族は地域から孤立するし、地域にこだわれば血縁の家族は溶融する。

 家族の全員が、単家族として生きる。
直接に人間と人間がつながる社会とは、どんなものなのだろうか。
人間が生まれてしばらく誰かの保護下にないと、成長できないと言う事実が家族の根拠だとしたら、その段階をすぎれば家族は家族でいる必要性がない。
前近代と同様に、子供なる概念は消失していくだろう。
大人は単家族に耐えることができるし、単家族を歓迎するだろう。
しかし、幼児と大人の線をどう引いていくか。
何歳から大人と見なすか。
今後は子供にとって、厳しい時代である。
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参考:
赤松啓介「夜這いの民俗学」明石書店、1984
岡田秀子「反結婚論」亜紀書房、1972
信田さよ子「脱常識の家族づくり」中公新書、2001
今一生「ゲストハウスに住もう!」晶文社、2004年
クライブ・ポンティング「緑の世界史 上・下」朝日新聞社、1994
ダイアン・コイル「脱物質化社会」東洋経済新報社、2001
谷田部英正「椅子と日本人のからだ」晶文社、2004
塩野米松「失われた手仕事の思想」中公文庫 2008(2001)
青山二郎「青山二郎文集」小沢書店、1987
エドワード・T・ホール「かくれた次元」みすず書房、1970
オットー・マイヤー「時計じかけのヨーロッパ」平凡社、1997
ロバート・レヴィーン「あなたはどれだけ待てますか」草思社、2002

谷田部英正「椅子と日本人のからだ」晶文社、2004年 
ヘンリー・D・ソロー「森の生活」JICC出版局、1981
野村雅一「身ぶりとしぐさの人類学」中公新書、1996
永井荷風「墨東綺譚」新潮文庫、1993
服部真澄「骨董市で家を買う」中公文庫、2001
エドワード・S・モース「日本人の住まい」八坂書房、2000
高見澤たか子「「終の住みか」のつくり方」集英社文庫、2008
矢津田義則、渡邊義孝「セルフ ビルド」旅行人、2007
黒沢隆「個室群住居」住まいの図書館出版局、1997
増田小夜「芸者」平凡社 1957
福岡賢正「隠された風景」南方新社、2005
イリヤ・プリゴジン「確実性の終焉」みすず書房、1997
エドワード・T・ホール「かくれた次元」みすず書房、1970
オットー・マイヤー「時計じかけのヨーロッパ」平凡社、1997
ロバート・レヴィーン「あなたはどれだけ待てますか」草思社、2002
増川宏一「碁打ち・将棋指しの誕生」平凡社、1996
宮本常一「庶民の発見」講談社学術文庫、1987
青木英夫「下着の文化史」雄山閣出版、2000
瀬川清子「食生活の歴史」講談社、2001
鈴木了司「寄生虫博士の中国トイレ旅行記」集英社文庫、1999
李家正文「住まいと厠」鹿島出版会、1983
ニコル・ゴンティエ「中世都市と暴力」白水社、1999
武田勝蔵「風呂と湯の話」塙書店、1967
ペッカ・ヒマネン「リナックスの革命」河出書房新社、2001
R・L・パーク「私たちはなぜ科学にだまされるのか」主婦の友社、2001
平山洋介「住宅政策のどこが問題か」光文社新書、2009
松井修三「「いい家」が欲しい」三省堂書店(創英社)
匠雅音「家考」学文社
バーナード・ルドルフスキー「さあ横になって食べよう」鹿島出版会、1985
黒沢隆「個室群住居」住まいの図書館出版局、1997
S・ミルグラム「服従の心理」河出書房新社、1980
李家正文「住まいと厠」鹿島出版会、1983
ペッカ・ヒマネン「リナックスの革命 ハッカー倫理とネット社会の精神」河出書房新社、2001
マイケル・ルイス「ネクスト」アウペクト、2002

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