匠雅音の家族についてのブックレビュー    青山二郎文集|青山二郎

青山二郎文集 お奨度:

著者:青山二郎(あおやま じろう) ちくま学芸文庫、2003年 
上 ¥1470−    下 ¥1470−

著者の略歴− 1901−1979、東京に生まれる。日本大学法科、創元社を中心に活動し、多くの装幀を手がける。独特の鑑定眼をもち、多くの文人たちとの交友を楽しんだ。「眼の哲学:利休伝ノート」講談社文芸文庫、1994
 本の装幀家といわれるが、とうとう一生職業につかなかった。
骨董の鑑定家としても有名だった。
華麗な交友範囲は驚異的で、小林秀雄、中原中也、大岡昇平、宇野千代をはじめ、今日に名を残している人たちが綺羅星のごとくにいる。
一部からはすこぶる不評だったこともあり、不思議な人物だったらしい。
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青山二郎全文集〈上〉
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 本書から立ち上ってくるのは、近代的なものでもなく、日本の土着的なものでもない。
同感する部分が多いが、青山二郎の体臭なのだろうか。
まずなによりも同感するのは、民芸を下手物といっていることだ。
25才の時に、柳宗悦と一緒に「日本民芸美術館」の設立準備に携わりながら、彼の民芸を見る目は厳しい。

 最近でこそ民芸はもてはやされなくなったが、柳宗悦が全盛だった頃、宮本憲吉、河井寛次郎、濱田庄司、バーナード・リーチと飛ぶ鶏を落とす勢いだった。
その民芸に対して下手物というのだから、なかなかに勇気があったと思う。
もとより、鑑定ということは、自分の目を信じることだから、他人の意向などどうでも良かったのかもしれない。
他人の意見を聞いていたら、鑑定などできるわけがない。

 民芸に対して、筆者は52才の時にこう言っている。

 民藝の理論を「抽象化した物」は、一つ見れば皆分るといふ滑稽な欠点を持つてゐる。古い陶器や木工品にしても、それが民藝だの「げてもの」として取上げられると、一つ見れば皆分るといふ抽象性が其虞に現はれる。だから民藝の理論を鵜呑みにしたファンは、民藝館のやうな家を建て、下手物の食器なぞ並べて、井戸の茶碗も元をたゞせば「げてもの」だと論じ去る始末になつた。P100

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 けだし名言である。
心ある人は、銘品と下手物をきちんと分けているだろうが、多くは味噌も糞もごったまぜという感じがしてならない。
とりわけ最近は、好きなら何でもかまわない、といった風潮を感じるの私だけだろうか。
筆者の見る目は、中国磁器から日本陶器へと評価を移しているようにも感じるが、芸術としての焼き物はやはり中国磁器にとどめを刺すだろう。
中国磁器がただ見るだけのものだとしても、だからこそ芸術作品のだ。
焼き物を弄ぶには、中国磁器は斬れすぎるとは、筆者も同意するだろう。

 中原中也を評価していたのも、人並みはずれていた。
中原中也をおいて、近代日本の詩は語れないが、中也の存命中は必ずしも評価は高くなかった。
誰かまわずに喧嘩を売る中也の性格からすれば、友人が離れていくのは当然だった。
人間関係で動く文壇・出版界であってみれば、中也が評価されないのも必然だったろう。
しかし、筆者は性格と作品の評価を分けていた。
鑑定家の鑑定家たる所以である。

 私が中原を書かずに此の章で奥さん許り書いてゐるのは、中原の女性に封する愛情が彼を更生させてゐたからである。極めて素朴な石頭の、家ねずみの様な若い女性−下駄屋も詩人も区別すること無く、亭主だから亭主にして、女房だから女房になつた、恁ういふ女性に結ばれた時期を中原は愛してゐる様子だつた。私が昔淋病に成つたことがあると言ふだけで、中原は私の所へ来てもお茶を飲むことを奥さんに禁じられてゐた。P254

いい話だと思う。
繊細で神経質な詩人の困惑がよくわかるし、詩人がヤクザそこのけの生き方をしているのも伝わってくる。

 淋病では、小林秀雄に面白い話が書かれていた。

 淋病は治らない、淋病が治るやうな奴は馬鹿だと言ふのが小林の主張である。淋病が治せたら澄界一の金持になる、と確に宮田重雄も言つてゐた。小林は慶應病院の宮田の処へ、それでも時々通つてゐたが、宮田に言はせると「俺も只の病人は随分診てやつたが、来る度びに、電車賃を五十銭呉れつて持つて行く奴は、小林だ」と舌を巻いてゐた。P407

 これを書いているのは、筆者が54才、小林秀雄は53才の時である。
現物の手応えが感じられる筆者の文章に、私は親近感を持ってしまう。
学者の文章に、胡散臭さと信用できないものを感じるのは、私の偏見だろうか。
(2002.11. 1)
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参考:
ヘンリー・D・ソロー「森の生活」JICC出版局、1981
野村雅一「身ぶりとしぐさの人類学」中公新書、1996
永井荷風「墨東綺譚」新潮文庫、1993
服部真澄「骨董市で家を買う」中公文庫、2001
エドワード・S・モース「日本人の住まい」八坂書房、2000
高見澤たか子「「終の住みか」のつくり方」集英社文庫、2008
矢津田義則、渡邊義孝「セルフ ビルド」旅行人、2007
黒沢隆「個室群住居」住まいの図書館出版局、1997
増田小夜「芸者」平凡社 1957
福岡賢正「隠された風景」南方新社、2005
イリヤ・プリゴジン「確実性の終焉」みすず書房、1997
エドワード・T・ホール「かくれた次元」みすず書房、1970
オットー・マイヤー「時計じかけのヨーロッパ」平凡社、1997
ロバート・レヴィーン「あなたはどれだけ待てますか」草思社、2002
増川宏一「碁打ち・将棋指しの誕生」平凡社、1996
宮本常一「庶民の発見」講談社学術文庫、1987
青木英夫「下着の文化史」雄山閣出版、2000
瀬川清子「食生活の歴史」講談社、2001
鈴木了司「寄生虫博士の中国トイレ旅行記」集英社文庫、1999
李家正文「住まいと厠」鹿島出版会、1983
ニコル・ゴンティエ「中世都市と暴力」白水社、1999
武田勝蔵「風呂と湯の話」塙書店、1967
ペッカ・ヒマネン「リナックスの革命」河出書房新社、2001
R・L・パーク「私たちはなぜ科学にだまされるのか」主婦の友社、2001
平山洋介「住宅政策のどこが問題か」光文社新書、2009
松井修三「「いい家」が欲しい」三省堂書店(創英社)
匠雅音「家考」学文社

M・ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」岩波文庫、1989
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江藤淳「成熟と喪失:母の崩壊」河出書房、1967
桜井哲夫「近代の意味:制度としての学校・工場」日本放送協会、1984
G・エスピン=アンデルセン「福祉国家の可能性」桜井書店、2001
G・エスピン=アンデルセン「ポスト工業経済の社会的基礎」桜井書店、2000
桜井哲夫「近代の意味:制度としての学校・工場」日本放送協会、1984
ソースティン・ヴェブレン「有閑階級の理論」筑摩学芸文庫、1998
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E・フロム「自由からの逃走」創元新社、1951
アラン・ブルーム「アメリカン・マインドの終焉」みすず書房、1988
イマニュエル・ウォーラーステイン「新しい学」藤原書店、2001
田川建三「イエスという男」三一書房、1980
ポール・ファッセル「階級「平等社会」アメリカのタブー」光文社文庫、1997
橋本治「革命的半ズボン主義宣言」冬樹社、1984
石井光太「神の棄てた裸体」新潮社 2007
梅棹忠夫「近代世界における日本文明」中央公論新社、2000
小林丈広「近代日本と公衆衛生」雄山閣出版、2001
前田愛「近代読者の成立」岩波現代文庫、2001
黒沢隆「個室群住居」住まいの図書館出版局、1997
フランク・ウェブスター「「情報社会」を読む」青土社、2001
ジャン・ボードリヤール「消費社会の神話と構造」紀伊国屋書店、1979
エーリッヒ・フロム「自由からの逃走」創元新社、1951
ハワード・ファースト「市民トム・ペイン」晶文社、1985
成松佐恵子「庄屋日記に見る江戸の世相と暮らし」ミネルヴァ書房、2000
デビッド・ノッター「純潔の近代」慶應義塾大学出版会、2007
北見昌朗「製造業崩壊」東洋経済新報社、2006
小俣和一郎「精神病院の起源」太田出版、2000
松本昭夫「精神病棟の20年」新潮文庫、2001
斉藤茂太「精神科の待合室」中公文庫、1978
ハンス・アイゼンク 「精神分析に別れを告げよう」批評社、1988
吉田おさみ「「精神障害者」の解放と連帯」新泉社、1983
古舘真「男女平等への道」明窓出版、2000
ジル・A・フレイザー「窒息するオフィス」岩波書店、2003
三戸祐子「定刻発車」新潮文庫、2005
ケンブリュー・マクロード「表現の自由VS知的財産権」青土社、2005
フリードリッヒ・ニーチェ「悦ばしき知識」筑摩学芸文庫、1993
ソースティン・ヴェブレン「有閑階級の理論」筑摩学芸文庫、1998
リチヤード・ホガート「読み書き能力の効用」晶文社、1974
ガルブレイス「ゆたかな社会」岩波書店、1990
ヴェルナー・ゾンバルト「恋愛と贅沢と資本主義」講談社学術文庫、2000
C.ダグラス・ラミス「ラディカル デモクラシー」岩波書店、2007
オリーブ・シュライナー「アフリカ農場物語」岩波文庫、2006
エマニュエル・トッド「新ヨーロッパ大全」藤原書店、1992


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