匠雅音の家族についてのブックレビュー    近代の意味−制度としての学校・工場|桜井哲夫

近代の意味
 制度としての学校・工場
お奨度:

著者:桜井哲夫(さくらい てつお)−日本放送協会、1984年  ¥870−

著者の略歴− 1949年栃木県に生まれる、1979年東京大学大学院社会学研究科(国際関係論)博士課程修了、広島大学総合科学部助手を経て,現在 東京経済大学教授、専攻 理論社会学,現代社会史。著書「知識人の運命」三一書房,「ことばを失った若者たち」講談社現代新書,「家族のミトロジー」新曜社ほか、訳書 ジャン・ボードリヤール「記号の経済学批判」共訳,法政大学出版局
 人は現在を生きるのに精一杯である。
そのため、現在とは違った社会があることに、なかなか想像が届かない。
どこにも舗装道路があり、鉄道が走っているし、電気や水道があるのは当たり前だと思いがちである。
しかし、私たちの親が子供だった頃には、水道がないところもあったし、もちろんテレビなどなかった。
現代の生活を称して近代的な生活というが、近代的な生活はここ100年くらいの間に、実現されたのである。
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 物質的な社会事象の変化ばかりではなく、それにともなって人間の行動様式まで大きく変わった。
そのうえ、精神構造まで変化したといっても、過言ではない。
今日では店に入って買い物をしなくても、別段とがめられることはない。
しかし、かつては商店に入ることは、買い物することを意味した。
冷やかしで店に入るのは、不謹慎な行動だった。
デパートの出現が、人間の商行動を変えたのである。

 値段というものは、あってなきがごときものなのであって、売り手と買い手とのかけひきによってはじめて決まるものであった。そうした売り手と買い手のゲームの場を崩壊させたのが、デパートの出現なのである。(中略)定価というものの設定である。そしてさらに、定価商法とは、客が買う義務を負わずに自由に店に入ってくることができるというスタイルを生みだしたのである。いうなれば、19世紀前半までは、店に入るということは、なんらかの品物を買うということを意味していた。P16

 デパートが新しいものなら、学校や病院・工場・鉄道・アパートなど、すべて近代の産物である。
まずなによりも近代以前は、日本という国がなかった。
近代以前に国という言葉が意味したのは、藩であり各地方のことだった。
そのうえ、それぞれの地域によって言葉が違っており、九州の人と北海道の人では言葉が通じなかった。
それを統一したのは、何といっても学校と軍隊である。

 わが国の江戸時代、文字が読めたのは男性の約半分、女性の20%といわれている。
それは西洋諸国でも変わりはなく、1830年頃のフランスでは、男性の半分が文字を読めなかった。
そこで国家は公教育の普及をめざすのだが、それはキリスト教教会との対立を意味した。
学校の普及は、教会−家庭というつながりから、子供を媒介にして、学校−家庭というつながりへと切り替えることだった。
そして学校が教えたのは、手作業と農作業をやめて、学問を志すことだった。
学問さえ身につければ、当時の貧しい暮らしから脱して、裕福な生活ができると、学校は教えたのである。

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 前近代にあっては、生まれとか血筋といった属性が人間をしばり、人間の一生を決めてしまった。
近代になると、外面的な規制は撤廃された。

 みんなが等しい条件のもとで競争するようになったら、誰もそこに不正を認めはしないだろうし、理想的だとも思うかもしれない。だが、いつになっても遺伝、つまり生まれつきの才能の遺伝の問題は残るのである。
 「したがって、この自然の恩恵に恵まれなかった人々に、出生の偶然のめぐりあわせに由来する劣った地位を甘受させる、ある種の道徳的規律もまた必要であろう。分配は万人にたいして平等でなければならない、もっとも有用な人間も功労のあった人間も、それがために利益を与えられてはならない、とまで主張する者もいる。しかしそれならば、そのような人間に、凡人や無能力者とまったく変わらない待遇を受けいれさせるために、別の意味で強力な道徳的規律がなければなるまい」。P77


 近代という新たな社会が始まっても、社会には秩序がなければ生活ができない。
とすれば、身分に代わる秩序を打ち立てる必要があった。
身分といった外部の規制から、何か精神的な自分が心から納得する基準、そうしたものを用意しないと、社会は円滑に動かない。
権力への服従ではなく、人間の内面的な規範によって、自発的に国家秩序のために行動する。
本人の主観的な意図をこえ、精神の内面に規制を移動する、その役割を担ったのが学校だった。

 もちろん、ここで時間の概念が大きく変わっている。
農業は自然に従う産業だから、人間の生活も自然の秩序に従った。
農繁期には朝から暗くなっても働き、農閑期には骨休めとして仕事を休んだのである。
自然の暦が、人間の生活を律していた。
しかし、農業の時間とは無関係に、学校の授業はおこなわれた。
そこでは機械の時間が支配し、やがて人間は自然の時間から機械の時間へと、自分の規準を移していった。
それは工場労働に移行するためには、絶対に必要だったのである。
そして、その結果、

 第一次世界大戦後、フランス社会では、「合理化」 という言葉は、一種の魔法の杖ごとき趣きをもって広められた。アメリカニズムの成就した生産の合理化は、「革命」と並列して使われさえしたのである。たとえば、サミイ・ブラッシヤの 『合理化と革命』 (1930)は、基本的には、ジョルジユ・ヴァロアの影響を受けつつ、組合国家への道を説いた著作であるが、そこでは、資本制経済は、生産と富の流通との均衡関係が維持できないのだから、本質的に不合理だと論じ、完全な合理化を実現するのは、職能集団の連合による組合国家だと論じられていたのである。そして、「合理化」の達成が、アメリカの社会では、労働者の半数以上が自動車をもてるような高賃金を生みだしたのだから、わが国でも、と自動車会社シトロエンの社長アンドレ・シトロエンが論ずるというありさまであった。P151

 わが国にはキリスト教教会がなかったので、近代化は恐ろしい勢いで進んだ。
上級の学校に進んだ若者が、農業に戻ってくるとは思われなかった。
だから、親たちは必ずしも進学を歓迎したわけではない。
しかし、国家主導による進学率の向上は、全国の隅々まで及び、ときには警察官を動員して、子供たちを学校へつれだした。

 本書は、そうした近代化の過程を手際よくまとめており、近代化に学校が果たした役割を知ることができる。
しかし、近代化における負の面を考察するとき、月並みになっているのは残念である。
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参考:
下田治美「ぼくんち熱血母主家庭 痛快子育て記」講談社文庫、1993
奥地圭子「学校と社会・子どもとカリキュラム」講談社学術文庫、1998  
広岡知彦「静かなたたかい:広岡知彦と憩いの家の30年」朝日新聞社、1997
クレイグ・B・スタンフォード「狩りをするサル」青土社、2001
天野郁夫「学歴の社会史」平凡社、2005
浜田寿美男「子どものリアリティ 学校のバーチャリティ」岩波書店、2005
佐藤秀夫「ノートや鉛筆が学校を変えた」平凡社、1988
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寺脇研「21世紀の学校はこうなる」新潮文庫、2001
桜井哲夫「近代の意味:制度としての学校・工場」日本放送協会、1984
ユルク・イエッゲ「学校は工場ではない」みすず書房、1991
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アンソニー・ギデンズ「国民国家と暴力」而立書房、1999
江藤淳「成熟と喪失:母の崩壊」河出書房、1967
桜井哲夫「近代の意味:制度としての学校・工場」日本放送協会、1984
G・エスピン=アンデルセン「福祉国家の可能性」桜井書店、2001
G・エスピン=アンデルセン「ポスト工業経済の社会的基礎」桜井書店、2000
桜井哲夫「近代の意味:制度としての学校・工場」日本放送協会、1984
ソースティン・ヴェブレン「有閑階級の理論」筑摩学芸文庫、1998
オルテガ「大衆の反逆」白水社、1975
E・フロム「自由からの逃走」創元新社、1951
アラン・ブルーム「アメリカン・マインドの終焉」みすず書房、1988
イマニュエル・ウォーラーステイン「新しい学」藤原書店、2001
田川建三「イエスという男」三一書房、1980
ポール・ファッセル「階級「平等社会」アメリカのタブー」光文社文庫、1997
橋本治「革命的半ズボン主義宣言」冬樹社、1984
石井光太「神の棄てた裸体」新潮社 2007
梅棹忠夫「近代世界における日本文明」中央公論新社、2000
小林丈広「近代日本と公衆衛生」雄山閣出版、2001
前田愛「近代読者の成立」岩波現代文庫、2001
黒沢隆「個室群住居」住まいの図書館出版局、1997
フランク・ウェブスター「「情報社会」を読む」青土社、2001
ジャン・ボードリヤール「消費社会の神話と構造」紀伊国屋書店、1979
エーリッヒ・フロム「自由からの逃走」創元新社、1951
ハワード・ファースト「市民トム・ペイン」晶文社、1985
成松佐恵子「庄屋日記に見る江戸の世相と暮らし」ミネルヴァ書房、2000
デビッド・ノッター「純潔の近代」慶應義塾大学出版会、2007
北見昌朗「製造業崩壊」東洋経済新報社、2006
小俣和一郎「精神病院の起源」太田出版、2000
松本昭夫「精神病棟の20年」新潮文庫、2001
斉藤茂太「精神科の待合室」中公文庫、1978
ハンス・アイゼンク 「精神分析に別れを告げよう」批評社、1988
吉田おさみ「「精神障害者」の解放と連帯」新泉社、1983
古舘真「男女平等への道」明窓出版、2000
ジル・A・フレイザー「窒息するオフィス」岩波書店、2003
三戸祐子「定刻発車」新潮文庫、2005
ケンブリュー・マクロード「表現の自由VS知的財産権」青土社、2005
フリードリッヒ・ニーチェ「悦ばしき知識」筑摩学芸文庫、1993
ソースティン・ヴェブレン「有閑階級の理論」筑摩学芸文庫、1998
リチヤード・ホガート「読み書き能力の効用」晶文社、1974
ガルブレイス「ゆたかな社会」岩波書店、1990
ヴェルナー・ゾンバルト「恋愛と贅沢と資本主義」講談社学術文庫、2000
C.ダグラス・ラミス「ラディカル デモクラシー」岩波書店、2007
オリーブ・シュライナー「アフリカ農場物語」岩波文庫、2006
エマニュエル・トッド「新ヨーロッパ大全」藤原書店、1992


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