著者の略歴−1863〜1941、ドイツの経済学者、社会学者。 ベルリン商科大学教授,ベルリン大学教授を 歴任。著書に「近代資本主義」等がある。 マックス・ウェーバーは資本主義の成立を、プロテスタンティズムの禁欲的倫理に求めた。 筆者は、贅沢こそ資本主義を誕生させたのだ、と論じた。 どちらが正しいのだろうか。 本書は1912年に初版が出ており、すでに90年近い年月が過ぎている。 その間、ウェーバーの名前はますます高まったが、筆者の名声は聞かれることがない。
わが国では、主流とされる学説を全員が信じてしまう。 とりわけ海外の高名な学者の説を、人脈の頂点に立つ東大教授あたりが、 いかにももっともらしく公開すると、あとは全員が右へならへである。 丸山真男にしても、彼の業績自体だけのためではない。 彼が東大教授として、おおくの弟子達をもったので、あれだけの名声を獲得したように思う。 そう考えると、筆者の学説が支持されるには、わが国の思想的な状態は余裕がなかったのだろう。 贅沢が消費を促した、というのは納得できる。 前近代の農耕社会では、大量消費が期待できる大衆が存在せず、庶民は自給自足の地味な生活をしていた。 とすれば、贅沢で奢侈ともいえる消費は、王侯・貴族達にしか求められない。 つまり、大衆による大量消費はなかったが、王侯・貴族達が大量消費に励んだのである。 消費がさかんになることは、社会を活性化させた。 それが、資本主義へとつながっていく、と筆者はいう。 今日では通説となっている恋愛は近代的なものだというのも、こんなに早い発言は瞠目に値する。 古い社会、そして新しい社会の生活のすべての動きにとって、中世からロココ時代までにかけて行なわれた両性関係の変化よりも重要であった出来事を私は知らない。とくに近代資本主義の発生を理解することは、この最重要事を処理するにあたってとられてきた措置がいかに根本から変化していったかを正しく評価することと、密接に結びついている。 まず、愛情と恋愛関係についての考え方がどのように変化してきたかという内的な過程を把握するには、二つの認識方法が考えられる。すなわち、ひとつは代表的な人物(特別な場合は代表的女性)の発言、もうひとつは実際に愛しあった人たちの行動からおしはかることである。P90
王侯・貴族達は世襲的な相続をし、自分たちの地位を守るために結婚した。 だから、年齢のひどく離れた結婚もあったし、 何よりも親たちが決めた政略結婚だった。 そこには愛情といった要素がからむことはなく、夫婦関係と愛情関係は別物だった。 子供が生まれても、そこには子供が生まれたという事実だけがあり、愛情を伴った男女関係は別のところでみたされた。 それは愛人である。 男性も女性も、夫婦関係とは別のところで、愛人関係をもっていたのが前近代である。 庶民達にあっては、愛情によって結ばれるというより、 生活の必要性から同居していたと言ったほうが良い。 性愛にかんする好み、つまり性的な快感を味わうことはあっただろうが、それと愛情とは別物だった。 聖書などを読んでも判るように、 女性は男性の所有物とみなされていたから、他人の所有物に手をだすことは厳禁だった。 そして女性が、他の男性の子供を妊娠することは、歓迎されなかった。 しかし、人の女房とできたのが発覚してしまったときは、酒の一升で解決した時代でもあった。 愛は、人が愛以外のものにかかずりあうことを憎む。愛は、愛とはまったく異質の根拠によって結ばれた関係、すなわち魅力や美と少なくとも同様の比重で、家柄、財産などをはかりにかけたうえで結ばれる結婚と同一視されたくはないと思っている。人は愛のためだけによって結婿するのではない。愛以上とはいわないまでも、愛と同程度に、子孫や家族のために結婚するわけだ。P106 筆者は贅沢から資本主義が誕生した過程を、丁寧に論じている。 これはこれで、傾聴にあたいする意見だと思う。 (旧式の)女性崇拝と砂糖との結合は、経済史的にはきわめて重要な意味がある。なぜなら、初期資本主義期に女が優位に立つと砂糖が迅速に愛用される嗜好品になり、しかも砂糖があったがために、コーヒー、ココア、紅茶といった興奮剤がヨーロッパで、いちはやく広く愛用されるようになったからだ。しかもこの四つの産物についての商業、ヨーロッパ各国の植民地におけるココア、コーヒー、砂糖の生産、ヨーロッパ内部におけるココアの加工、ならびに粗糖の精製は、資本主義発展のうえで大きな役割をはたした。P204 部分的な事情で、社会全体の変化を論証しようとするきらいはある。 ウェーバーも同様だが、精神的な原因で、社会の変化を説明しようとする。 精神は社会によってつくられるのであり、これは逆転した発想である。 しかし、定説以外に論理を認めない。 もしくは、定説の理解が学問だという風潮は、わが国の後進性をあらわすものだろう。 ソースティン・ヴェブレンの「有閑階級の理論」ほどの重要性は感じないが、本書を読んで損はない。
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