著者の略歴−1936年,神奈川県生まれ。東京大学大学院修士課程修了。東京大学教育学部教授,同学部長を経て,現在,東京大学名誉教授。専攻,教育社会学.著書に,『試験の社会史』『日本の高等教育システム』(いずれも東京大学出版会),『教育と近代化』『大学改革のゆくえ』(いずれも玉川大学出版部)ほか多数. 1992年に新潮社から上梓されたが、絶版になっていたらしく、平凡社から再販された幸運な本である。 本書からは色々と教えられるところがあり、良書だと思うので、再販は大歓迎である。 しかし、読んだはずにもかかわらず、内容は完全に忘れ去っている。 すでに新潮社版を持っていながら、また平凡社版を買ってしまったという愚かさである。
「学歴の社会史」という題名であるが、むしろ副題の<教育と日本の近代>のほうが適切だと思うほど、明治期の教育制度を克明にあらっている。 教育を必要としたのは、何よりも武士たちだった。 この指摘は当たり前のようでいて、きわめて鋭いものだ。 農民は教育を必要とはしていなかった。 ここを見ずして、近代は語れない。 近代は人間はみな平等といって、貴族や武士を否定して始まった。 近代は大衆の時代であり、大衆こそが主人公だから、あたかも大衆が正しいことの体現者であるかのごとくに思われている。 そのため、武士が教育に熱心だったと言うより、庶民が寺子屋で勉強していたことのほうを、強調しがちである。 そして、江戸時代の識字率の高さなど、庶民絶賛へと続くことが多い。 しかし、自発的に知を求めていたのは、武士などの支配階級だった。 江戸から明治になって、幕府はなくなっても、支配機構は必要である。 江戸時代には武士が占めていた位置に、明治になって庶民もつけるようになったのだが、多くの庶民には支配の意味が分からなかった。 支配するには文字が読め、演算ができないと成立しない。 支配には教育を受けた者が、大量に必要なのだ。支配階級に連なる意味を、時の政府は教える必要があった。 身分制度が廃止され、四民平等となった「文明開化」の世の中で、これら「知識職業」(=官公吏、教員、巡査などの俸給生活者のこと)が自動的に親から子へと世襲されることはなくなった。これらの職業に就きたいと思えば、まず教育をうけ、一定の資格を手に入れなければならない。教育が生計の手段になりうることを、これほどはっきり思い知らせてくれる職業はない。しかも、これらの職業が与えてくれる収入や威信は、いまとはくらべものにならぬほど高かった。 「今日ではサラリーマンと云へば、直ちに准プロレタリヤといふ程に安っぽくなって来たが、自分の中学時代の月給取は大したものだった。何しろ病気で休んでも、日曜日であっても、乃至夏休みまでも一定の給料が貰へて、其の日稼ぎの労働者や、農民などとはとても比較にならぬ収入があり、世間からは尊敬されて、衆人羨望の的となったものだった。それも最下級のものは必ずしもさうでもなかったが、上下の懸隔が非常に大きく、上級の者は為に贅沢のし放題といふのであったから、世間から羨やまれたに無理はなかった」(「」内は歴史学者である喜田貞吉からの引用)P59 高等教育を受けて支配の片棒を担げば、その収入たるや莫大なものであることを、大衆に知らせる。 とにかく支配機構を支える人材がいなかった。 当初は幕府に仕えた人を、支配機構を支える人として、そのまま流用した。 その後、大衆を支配に組み込むことによって、支配機構を強固にする。 それが誕生したばかりの日本政府の実情だった。 江戸時代までは漢学が教養の源だったが、明治以降は西洋の実学が主流となった。 そこでは人間教育は忘却されて、西洋に追いつくための実利が優先した。 豊かな社会を作るため、知識の詰め込み教育だった。 我が国の学校制度は、飯の糧として始まったのだ。 しかし、だからというべきか。近代の学校制度に背を向けた人たちもいた。 牧野(富太郎)も鳥居(竜蔵)も学問が学校のなかだけにあるとは考えていなかった。この点で、かれらは(少なくとも意識の面で)古い世代に属していたとみるべきかも知れない。書物を読み、独学のかたわら同好の士と文通し、師を求めて学問の道を究めていく。好学の念を抱いた町人や農民にとっては長い間、それがごく普通の学問の形であった。学問は生計の手段とは無縁なものであった。牧野や鳥居は、そうした教育観、学問観をもち続けていたのである。(中略) 小学校卒業の学歴すらもたない者にとって、大学がいかにに拒否的な、生きにくい世界であるかを、やがてかれらはいやというほど知らされることになる。学者としての卓越した天分をもっていたがために、かれらは正規の学歴をもち「校縁」に結ばれた教授たちの憎しみを買わねばならなかった。牧野は51歳でようやく助手から講師に昇進したが、講義はもたせてもらえなかった。鳥居も同じ51歳のとき、博士号を取得し助教授に任命されたが、3年後には辞表をたたきつけてとび出している。P69 農民たちは教育のありがたさなど、まったく感じていなかった。 それはそうだろろう。 農業に従事する限り、教育を受けても収入の増加につながるわけでもない。 教育を受けると、よけいな口答えをするようになるし、農業に就かないかもしれない。 むしろ、教育期間中は働けないから、かえって無駄である。 武士たちは、藩校に通って教育を受けると、支配の官僚組織のなかで出世できた。 というより、戦乱の時代は実力勝負だったが、平和な時代には事務能力こそ、生活の糧だった。 文字が書け、計算ができ、前例を知っていることが、官僚としては不可欠だった。 武士しか官僚になれなかった江戸時代、武士たちは教育を受けなければ、生きていけなかったのだ。
武士のなれの果てだけが、教育を求めた。 しかも、藩校での教育は無料だったが、明治の教育は自腹であったから、彼らは大いに不満を持っていた。 しかし、農民たちが子供を学校へやろうとしないのは、当然であった。 武士だった士族の子供たちが、明治政府の要職を占めていく。 こうした状態は、明治30年頃まで続いたらしい。 なにしろ行政官=官僚の収入や権威は、飛び抜けて高かったのだ。 教員の初任給が10円くらいのとき、校長は60円くらいだったし、県知事の年収は、おおよそ1億くらいだった。 庶民に対する教育は不可避だったが、明治初期の庶民にとって、学校など迷惑千万なものだったろう。 ましてや高等教育など、想像だにするものではなかったに違いない。 士農工商の身分制度のもとでは、学問をしたからといって、それでパン、いやメシが保証されるということはなかった。百姓や町人は簡単な読み書きそろばんができれば十分だ、学問をして身を立てるなどというのは気違いざただと考えられていたのである。それを突然、「道路に迷ひ飢餓に陥り家を破り身を喪」うものは、つまるところ「不学よりしてかかる過ちを生ずる」のだなどといわれても、迷惑千万という他はなかったろう。 それだけではない。新しい学校は、寺子屋にくらべると高い授業料をとるし、授業時間も教育年数も長い。しかも寺子屋にやれば「手覚ノ帳ヲ記シ親類へ手紙ノ往復位ハナシ得」たのに、小学校では「日用ノ便利ハ却テ寺子屋ニ及バ」ない。これでは子どもを学校にやりたがらない親が多くなっても、不思議はないではないかと、文部省の役人自身が書いている。カネとヒマばかりかかって、役にも立たない学問をさせる学校に子どもをやるのは真平ご免というのが、大方の人たちの本音ではなかったろうか。P146 上記のような明治時代に、政府はいかに支配組織を作り上げていったか。 本書は、支配機構を支える人間育成の側面から、時代を腑分けしていく。 帝国大学がいかにエリートだったか、なぜ私学が低い地位におかれたか。 官僚の給料がいかに高かったか、などなど、若き日本の呻吟する声が聞こえてきそうである。 我が国の大学は官僚の育生機関だった。 だから、凡人の集合体であり、天才を受け入れることはできなかったのだ。 それはいまでも同じで、不思議なことに官僚の経歴は、そのまま研究者の経歴として通用している。 東大がノーベル賞とは無縁な所以である。 我が国では、大学の卒業証書は社会へ出たときの、パスポートだった。 そして、小学校から高校までは、大学へはいるための予備校だった。 そこでは、学ぶ喜びとか、知る楽しみは、かたわらに押しやられて、知識の詰め込みに終始した。 貧しい時代には、学校を卒業することが、何よりも大切だった。 だから、学ぶ楽しさなど、無視されたのだ。 明治の貧しさは、生きることができるか否かというものだった。 豊かな社会への希求はきわめて強いと言うより、生きるために必死だったと言ったほうが良い。 貧しい者は、必死で上級学校を目指したのだ。 豊かな商人の子供は、勉強に身が入らなかった。 苦学こそ、勉学の道だと見なされていた。 だから、豊かな社会が実現されてしまうと、学校の存在意味はなくなる。 現代では、毎日、喰うに困らない。 少なくとも、生活はできる。 病気になっても、生活保障がある。 とすれば、豊かな社会では、上昇志向に支えられた学校は、無意味なのだ。 学ぶことの楽しさ、知ることの楽しさを教えてこなかったツケが、いまや不登校という形で表れたに過ぎない。 なぜ、不登校が増えるのか、我が国の学校制度の歴史を見れば、まったく肯けることである。 わが国には、ギリシャ・ラテンの古典学中心の、ヨーロッパ的なオーソドックスな教養教育はいうまでもなく、アメリカ的なリベラル・アーツ型の新しい教養教育も成立しなかった。アメリカ的なリベラル・アーツの教育をわが国に根づかせようと試みた、キリスト教系私学の試みは、同志社や立教大学校のそれをふくめて、いずれも失敗に終っている。それでは、伝統的な教養としての漢学を、新しい教育のなかに生かそうという試みがあったかといえば、それもなかった。P107 学としての学校教育、知る楽しみ、考える楽しみを教えなければ、今後の教育は先がないだろう。 しかし、考えることに楽しみを感じる者は、いつの時代にも少数である。 とすれば、近代の一斉授業の学校は、すでに命脈がつきたと言うべきだろう。 「情報社会への移行と生涯学習」でも述べたように、学校は生涯学習の若年部門として、再編成されるべきだ。 我が国の大学の先生たちは、知識人という顔をしていない。 それも歴史を考えれば、当然である。 喰うための学問では、職人たちと変わらない。 大工という技術が、法律や経済に変わっただけである。 自分自身の世界で、オリジナルなことを考えることが、知識人であり高等遊民であるのだ。 歴史を振り返ることは、現在を考えることであり、将来を考えることである。 本書はよき参考書であろう。 教えられるところの多い本だった。 (2007.06.08)(2009.8.20−加筆)
参考: 下田治美「ぼくんち熱血母主家庭 痛快子育て記」講談社文庫、1993 奥地圭子「学校と社会・子どもとカリキュラム」講談社学術文庫、1998 広岡知彦「静かなたたかい:広岡知彦と憩いの家の30年」朝日新聞社、1997 クレイグ・B・スタンフォード「狩りをするサル」青土社、2001 天野郁夫「学歴の社会史」平凡社、2005 浜田寿美男「子どものリアリティ 学校のバーチャリティ」岩波書店、2005 佐藤秀夫「ノートや鉛筆が学校を変えた」平凡社、1988 ボール・ウイリス「ハマータウンの野郎ども」ちくま学芸文庫、1996 寺脇研「21世紀の学校はこうなる」新潮文庫、2001 桜井哲夫「近代の意味:制度としての学校・工場」日本放送協会、1984 ユルク・イエッゲ「学校は工場ではない」みすず書房、1991 H・G・ポンティング「英国人写真家の見た明治日本」講談社、2005(1988) A・B・ミットフォード「英国外交官の見た幕末維新」講談社学術文庫、1998(1985) 杉本鉞子「武士の娘」ちくま文庫、1994 松原岩五郎「最暗黒の東京」現代思潮新社、1980 イザベラ・バ−ド「日本奥地紀行」平凡社、2000 リチャード・ゴードン・スミス「ニッポン仰天日記」小学館、1993 ジョルジュ・F・ビゴー「ビゴー日本素描集」岩波文庫、1986 アリス・ベーコン「明治日本の女たち」みすず書房、2003 渡辺京二「逝きし世の面影」平凡社、2005 湯沢雍彦「明治の結婚 明治の離婚」角川選書、2005
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