匠雅音の家族についてのブックレビュー    明治日本の女たち|アリス・ベーコン

明治日本の女たち お奨度:☆☆

著者:アリス・ベーコン  みすず書房、2003年  ¥2400

 著者の略歴−1858〜1918年。アメリカ・コネティカット州に,会衆派の牧師の子として生まれる.14歳の時,ベーコン家が日本人女子留学生,山川捨末のホスト・ファミリーとなったことで,津田梅子や永井繁子とも知り合い,日本への強い関心をはぐくんだ.1888年に来日し,華族女学校や東京女子師範学校で1年間教鞭を執る.1899年に再び来日して,女子共学塾で2年間教えた.帰国後,日本滞在中に見聞きしたことをもとに,3冊の著作を出版.
 明治維新の残照があった当時、失われていく江戸の文化と、
新奇な西洋文明が入り交じり、社会は混沌としていたに違いない。
筆者は当時の日本の女性たちを、実に細かくしかも温かい目で見ている。
自分の信じるキリスト教を除いて、西洋文明を日本に強制することなく、
日本独自の文化があることを素直に認めている。
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 筆者は、大山捨松つまり伯爵夫人と親交があったのだから、当然に当時の上流階級に属した。
そこで見聞きする話は、上流階級に関するものが多い。
しかし、筆者の目は、庶民階層にまで届き、
上流階級と庶民階級で、男女関係がひどく違ったことも記している。
まず離婚に関して次のように述べている。

 今でも日本人は、結婚生活を必ずしも一生のものと考えていない。夫と妻の双方から結婚を解消することができる。庶民は離婚に対して強い抵抗感もないので、結婚と離婚を幾度も繰り返す男性は珍しくない。女性だって、一度や二度離縁されても、再婚や再々婚することはしょっちゅうある。上流階級では、男と女の問題はスキャンダルとして噂の種になるので、勝手気ままに離婚するというわけにはいかないが、それでも離婚は珍しくないので、離婚経験のある上品で立派な人に会うことがよくある。P64

 当時は、財産の相続権が男性にのみあった。
相続すべき財産を持った家庭では、とりわけ男性支配が強かった。
そのうえ、子供の養育権が男性に独占されていた。
だから、女性の自由が奪われていた、と筆者は記す。
財産の有無に注目しているのは、何という鋭い視線であろうか。

 当時アメリカはすでに、社会の基本は個人で、
家庭は個人が集まったものに過ぎない、と考えられていた。
そのため、家族の圧力が強いことを、理解しにくいと言っている。
100年以上たった今日でも、家族の圧力が個人の自立を妨げているのは、あまり変わらない感じがする。
 
 上流階級と庶民では、妻と夫との関係が明らかに異なっている。商人や貧しい農民の妻は、天皇陛下の妻よりも、はるかに夫の地位に近い。明らかに身分がひとつ上がるたび、 男性は同じ階級の女性よりも少しずつ偉くなるようだ。農夫とその妻はふたり肩を並べて畑仕事に励み、同じ荷物を運び、食事は同じ部屋で一緒にとる。家庭を支配するのは、性別の如何にかかわらず、気性の強い方である。夫婦のあいだに大きな溝はない。(中略)

 東京では朝になると、農夫とその家族が、薪や炭、田舎でとれた野菜などでいっぱいになった荷車を押しながら、ゆっくりと道をすすんでいくのをよく目にする。車輪をきいきい鳴らしながら、年配の男性とその息子、赤ちゃんを背負った息子の妻が、全員で必死になって重い車を押したり、引いたりしている。(中略)夕方になって帰るときは、売りさば
いた荷物の代わりに、妻と赤ちゃんが荷台に乗っている。そのまま近隣の村にある家まで男たちに引かれて帰っていくのだ。ここにも、アメリカと同じような女性観がみられる。つまり、女性は立場が弱いのではなく、力が弱いのである。(中略)

 田舎ではどこでも、女性は野良仕事をし、お茶を摘み、穫入れし、収穫を市場へ持っていくのに加え、蚕を育て、絹糸や綿糸を紡ぎ、機を織るなどして直接生産に関わり家族に収入をもたらしている。このように女性が大切な労働力となっているところでは、一般にみられる男女間の地位の差は著しく狭まる。しかし、都市部の女性や、間接的にしか、あるいはまったく生産に関わらない女性には、他人にかしずくような、アメリカでは卑しいとしかみなされない奉公以外に仕事はない。このような理由で、階級が高くなればなるほど、また同じ階級であれば都市に近くなればなるほど、男女間の地位の差は明確になるのだと思われる。P93


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 何という鋭くも暖かい視線であろうか。
厳しい労働に従事する人間が、性別によって取り扱いを異にするなどあり得ない。
とりわけ農耕社会では、家庭が生産組織だったから、
男女が協力せざるを得なかった。
ここでは男女差別は薄かった。
労働を等しく担う人間を、差別的に扱ったら、社会が機能しなくなる。
今日でも我が国のフェミニズムは、100年以上も前の筆者の視線にまで到達していない。

 筆者は、女性の社会的な地位の低さにも、もちろん目配りをしているが、
庶民の生活にはひときわ暖かい視線を投げかけている。
老婆や女性、そして子供たちといった、
社会の主流から外れたと見られがちな人間に、これだけの視線を配れるのは、本当に感激する。

 本書を読んでいて、筆者が投げかける視線の優しさと、
滅び行く文化を描写する様子は、筆舌に表しがたいほど素晴らしい。
江戸という熟成し完結した文化がもつ美しさを、筆者はやや躊躇いながらも充分に評価している。
今日、途上国に行った我々は、筆者のような視線を持てるであろうか。
少なくとも、ボクは自信がない。
 
 日本の女性のなかで一番自由で自立しているのは間違いなく平民の女性である。日本中どこでも、ほとんど働さづめで、贅沢とは縁のない生活をしているが、その仕事ぶりからは、自立心や知性が感じられる。アメリカ人女性と同じように、家庭ではとても尊敬され、大切にされている。上流階級の女性と比べて、生活は充実していて、幸せそうである。家計に大きく貢献しているから、家族も彼女たちの言うことに耳を傾けるし、一目おいてくれる。

 一方、日本の上流婦人は、結婚と同時に自由を放棄し、夫と義理の両親に服従し、かれらの召使いとなる。年がたつにつれ、その表情には、あきらめと、自己犠牲ばかりが続く人生の苦労の痕跡がみられるようになる。一方、農民の女性は、結婚した後も夫と一緒に仕事をすることで、単調な家事以外の興味深いことも経験するようになる。裕福であまり働かない上流階級の女性と比べて、農家の女性の表情からは苦悩や失望は感じられなくなり、歳をとるにつれかえって個性豊かになり、人生をより楽しんでいるように見えてくるのだ。P208


 この文章が、今から100年以上も前に書かれたものだとは、とても信じられない。
上流階級の婦人を、
専業主婦に置きかえれば、この文章は今でも充分に通用する。
共に働く男女は、仕事が与えてくれる実感を共有できる。
我が国のフェミニストたちに、本書を是非読んで欲しいと思う。

 農業従事者にとって、自然は男女の別なく襲ってくる。
そこでは男女が協力しないと生きていけない。
等しく労働を担う者の間では、差別はおきようがない。
そして、長く厳しい労働の後に訪れる平穏もまた、労働を共有してきた人間には、自明のことだ。

 枯れ果てた顔、曲がった腰、小さな身体、しわくちゃの黄ばんだ手。日本人の老女の姿をどうして忘れることができようか。美しいと思える老人はほとんどいない。日本人の身体は年とともに萎んでしまうため、顔はまるで萎びた赤りんごのように皺だらけになる。若いうちは紅い頬と、美しい黒髪の輝さのおかげで、肌もつやつやと輝いているが、年とともに頬と髪の色は褪せ、肌は妙に黄色くなり、しまいには羊皮紙のように硬くなってしまう。にもかかわらず、皺くちゃの醜い日本人の老女の顔には、独特の魅力がある。P106

 日本人とは美意識のまったく違う筆者が、
苦労を重ねた醜悪だろう老婆の姿に、独特の魅力があると断言する。
この部分を読んだとき、思わず涙が出そうになった。
もちろん筆者は日本の良いところだけを見ている、という批判がでるだろう。
しかし、上流階級の女性と庶民の女性を、比較して論じているのだから、
筆者の視線は公平に思う。
筆者の人間を見る基盤には、本質を見通す力を感じる。

 農耕社会には、工業社会や情報社会とは違った生き方しかできない。
個人の自立を志向しない農耕社会での生き方は、農耕社会でのみ成立するものだ。
そこに生きる人間は、他の社会と同じように喜怒哀楽をもち、
その社会に適合して人格を形成していく。
外部の人間が、農耕社会の人間を粗野だとか、遅れているというのは容易い。
しかし、彼らの人生は、大地に足を下ろした確固たるものだ。

 人口の90パーセントが農民だった時代、男女の関係がどうだったか。
本書からは厳しい時代に生きた、人間たちの姿が浮かび上がってくる。
先人たちの足跡には、頭が下がる。
アメリカ人女性の日本女性観察記だが、久しぶりに慧眼に出会った気がした。
(2004.10.22)
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参考:
J・S・ミル「女性の解放」岩波文庫、1957
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山崎朋子「サンダカン八番娼館」筑摩書房、1972
ニール・ポストマン「子どもはもういない」新樹社、2001
大河原宏二「家族のように暮らしたい」太田出版、2002年
G・エスピン=アンデルセン「福祉国家の可能性」桜井書店、2001
G・エスピン=アンデルセン「ポスト工業経済の社会的基礎」桜井書店、2000
J・F・グブリアム、J・A・ホルスタイン「家族とは何か」新曜社、1997
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ピーター・リーライト「子どもを喰う世界」晶文社、1995
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奥地圭子「学校は必要か:子供の育つ場を求めて」日本放送協会、1992
信田さよ子「脱常識の家族づくり」中公新書、2001
ジュディス・リッチ・ハリス「子育ての大誤解」早川書房、2000
フィリップ・アリエス「子供の誕生」みすず書房、1980
増田小夜「芸者」平凡社 1957
岩下尚史「芸者論」文春文庫、2006
スアド「生きながら火に焼かれて」(株)ソニー・マガジンズ、2004
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末包房子「専業主婦が消える」同友館、1994
梅棹忠夫「女と文明」中央公論社、1988
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まついなつき「愛はめんどくさい」メディアワークス、2001
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ベティ・フリーダン「新しい女性の創造」大和書房、1965
クロンハウゼン夫妻「完全なる女性」河出書房、1966
松下竜一「風成(かざなし)の女たち」現代思想社、1984
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熊沢誠「女性労働と企業社会」岩波新書、2000
ジェーン・バートレット「「産まない」時代の女たち」とびら社、2004
楠木ぽとす「産んではいけない!」新潮文庫、2005
山下悦子「女を幸せにしない「男女共同参画社会」 洋泉社、2006
小関智弘「おんなたちの町工場」ちくま文庫、2001
エイレン・モーガン「女の由来」どうぶつ社、1997
シンシア・S・スミス「女は結婚すべきではない」中公文庫、2000
シェア・ハイト「女はなぜ出世できないか」東洋経済新報社、2001
中村うさぎ「女という病」新潮社、2005
内田 樹「女は何を欲望するか?」角川ONEテーマ21新書 2008
三砂ちづる「オニババ化する女たち」光文社、2004
大塚英志「「彼女たち」の連合赤軍」角川文庫、2001
鹿野政直「現代日本女性史」有斐閣、2004
片野真佐子「皇后の近代」講談社、2003
ジャネット・エンジェル「コールガール」筑摩書房、2006
ダナ・ハラウエイ「サイボーグ・フェミニズム」水声社 2001
山崎朋子「サンダカン八番娼館」筑摩書房、1972
水田珠枝「女性解放思想史」筑摩書房、1979
フラン・P・ホスケン「女子割礼」明石書店、1993
細井和喜蔵「女工哀史」岩波文庫、1980
サラ・ブラッファー・フルディ「女性は進化しなかったか」思索社、1982
赤松良子「新版 女性の権利」岩波書店、2005
マリリン・ウォーリング「新フェミニスト経済学」東洋経済新報社、1994
ジョーン・W・スコット「ジェンダーと歴史学」平凡社、1992
清水ちなみ&OL委員会編「史上最低 元カレ コンテスト」幻冬舎文庫、2002
モリー・マーティン「素敵なヘルメット」現代書館、1992
R・J・スミス、E・R・ウイスウェル「須恵村の女たち」お茶の水書房、1987
末包房子「専業主婦が消える」同友館、1994
鹿嶋敬「男女摩擦」岩波書店、2000
荻野美穂「中絶論争とアメリカ社会」岩波書店、2001
山口みずか「独身女性の性交哲学」二見書房、2007
田嶋雅巳「炭坑美人」築地書館、2000
ヘンリク・イプセン「人形の家」角川文庫、1952
スーザン・ファルーディー「バックラッシュ」新潮社、1994
井上章一「美人論」朝日文芸文庫、1995
ウルフ・ナオミ「美の陰謀」TBSブリタニカ、1994
杉本鉞子「武士の娘」ちくま文庫、1994
ジョンソン桜井もよ「ミリタリー・ワイフの生活」中公新書ラクレ、2009
佐藤昭子「私の田中角栄日記」新潮社、1994
斉藤美奈子「モダンガール論」文春文庫、2003
光畑由佳「働くママが日本を救う!」マイコミ新書、2009


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