著者の略歴−1952年、東京都生まれ。小・中・高校の教員生活をへて、大学に再入学。現在、東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学専攻博士後期課程に在学中。国立看護大学校非常勤講師、おもな論文「総力戦における女性兵士創出」(「相関社会科学」第10号、2001年)、「総力戦における動員の一形態としての女性表象」(「Sociology Today」第11号、2001年) 大学フェミニズムの、悪しき影響がきわまった本である。 あとがきに従えば、筆者は教員生活を経て大学入試センター試験を受け、大学に再入学したという。 しかも、本書は修士論文に手を加えて、上梓に至ったらしい。 つまりもとは、学術論文として書かれたものである。 せっかくの向学心が、イデオロギーで盲目にされてしまった。
学術論文であっても、筆者が自身の主張をしても良いと思う。 しかし本書は、大学フェミニズムの前提を何ら疑うことなく、ジェンダーという言葉だけで現実を切り刻もうとしている。 大学的なフェミニズムの先入見だけで、主張を展開している。 こうした姿勢では、現実の生きた人間は何も見えないだろう。 これでは大学フェミニズムが栄えて、人間が消失する。 戦争に女性が参加したというのは、ある程度常識化している。 筆者は総力戦となると、女性も男性と同様な役割として、兵士として登場した、という。 女性兵士が登場したにも関わらず、ジェンダー・バイアスによって無視されたという。 ソ連・アメリカ・日本三国の比較を論じるには、日本には女性兵士問題は存在しなかったとする「暗黙の了解」を突きくずさなければならない。(中略)女性兵士問題はアメリカでは議論のテーマになりえても、日本では議論が成立しないと素通りされてきたのである。確かに、ジェンダーの視点を取り入れた国民義勇戦闘隊の先行研究はないに等しい。だが、1945年6月、17歳から40歳までの女性を戦闘隊に参入させるという義勇兵役法がなしくずし的に帝国議会で成立する。(中略)女性兵士の射程をいま一歩広げることによって、性別役割分業に固執したとされる日本でも、女性兵士をめぐる問題が発見されうるのである。P9 筆者は、ナショナリズムを縦軸にし、ジェンダーを横軸にした、2つの分析のメスを用いる。 総力戦下では、ナショナリズムは平時にあった人間の様々な違いを、 国民という名で統合し、統一的に国家への奉仕を要求するという。 それに対して、ジェンダー・バリアーは「前線は男、銃後は女」という形で存在する。 戦局の動向が、ナショナリズムとジェンダーのせめぎあいを決する、という。 これは当然のことを言っているにすぎない。 本書の射程が無為なのは、女は弱者、女は生命の再生産者、 そして軍隊は暴力装置であって、存在が悪である、そう聞こえることである。 兵士は男性であり、女性が兵士になりにくい歴史的な現実から、まず論を立てるべきである。 男女を無前提的に別物と見るのではなく、なぜ男女が別物と扱われてきたのか、それを問うべきである。 定義の怪しいジェンダーを持ち出すまでもなく、 歴史上男女差別は絶対的に存在したのであり、男女差別の上に人間の歴史は成り立っていた。 なぜ男女差別があったのかを問えば、兵士の問題も解答がでる。 とある人間集団の存亡が問われるとき、集団内の区別や差別は雲散霧消してしまう。 むしろ被差別者のほうが、果敢に戦ったりする。 それは男女差別にかぎらない。 戦争は一律に悪だという、戦争の捉え方が平板にすぎる。 母性動員も娼婦性動員もともに女性軸に位置づけられるのにたいして、男性軸に接近する位置にあるのが労働力動員と兵力動員であり、兵力動員がもっとも男性軸に近い位置にある。母性動員も娼婦性動員もともに男性の代替とは無縁だが、労働力動員と兵力動員は男性の代替として動員される。さらに、男性軸にもっとも接近した位置にある女性兵士は、ナショナリズムの体現者でありながらも、「女性の男性化」「母性への挑戦」として批判の眼差しが向けられる。というのも、「生命の生産者」である母性にたいし、兵士は「生命の破壊者」であるという対立構図があるからである。P37
女性を戦争の犠牲者だとする意見は、すでに否定されている。 むしろ、女性も戦争に荷担したのであり、女性も戦争の分け前を享受した。 戦争とは国家が行うものであって、男性だけがするものではない。 なぜ、男女の間にあったはずの深い溝がこうもたやすく「決戦」を合言葉に架橋されたのだろうか。沖縄戦が証明しているように、総力戦が破局へと向かえば銃後と前線の境界は消滅し、民と軍、女と男の間にあったはずの厚い壁はもろくも崩壊する。男女の性別役割分業規範に固執し、女性の新規の労働力動員さえも消極策をとってきた日本で、従来路線の放棄ともいえるこの国民義勇戦闘隊への女性の参入は、日本版女性兵士創出にあたる。P122 男女のあいだにあった深い溝は、歴史的には簡単に架橋されていた。 それは天草の戦いといったわが国の歴史でも、 ギリシャやトルコといった西洋の歴史でも同じである。 三里塚を見ればわかるように、それは反体制運動でも同じである。 筆者がなぜ、こうした自明な問題を修士論文としようとしたか、それが疑問である。 筆者の現状認識が正確になればなるほど、筆者は現状把握から離れていく。 それは筆者が、男女差別は悪だ、戦争は悪だ、と前提しており、 その前提から論を立てているからであり、女性差別の原因を押さえていないからである。 そして、女性の台頭の理由を考えていないからである。 筆者は通俗的な常識から出発しており、その理由や背景には考察が及ばない。 筆者の論は、川とは水の流れであるといっているに過ぎず、ただ差別の現象を並べているだけである。 生命は不可避的に暴力をはらんでいる。 暴力は否定的な面だけではない。 生の肯定は暴力の肯定でもあった。 暴力の意味を問わない限り、軍隊の問題は解明できない。 筆者のように現象を並べるだけでは、ほかの視点を提示されれば、筆者の視点はくずれる。 それでも筆者が女性差別にこだわれば、 そこに残るのは、好きか嫌いか、信じるか信じないかといった、イデオロギーの争いである。 本書がジレンマという言葉で終わっているように、 ナショナリズムとジェンダーという設定は無力である。 本書の立論自体が、二律背反という結論にたどり着かざるを得ない。 現在のわが国のフェミニズムは、完全にイデオロギー化しており、このままでは死に絶えようとしている。 もはや大学にしかフェミニズムは残っていないのだが、イデオロギー化をすすめる大学フェミニズムは犯罪的である。
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