著者の略歴−1939年生まれ。99年まで東京・国立市公民館に勤務した。著書=「女のせりふ120」未来社、1995 「女性問題学習の視点:国立市公民館の実践から」未来社、1993 「育児力:子どもの成長・おとなの成長」筑摩書房、1990 他 1975年という早い時代に書かれた本だが、今読み返しても決して古びてはいない。 むしろ、その後の出版されたフェミニズム関係の図書は、本書が語る範囲から出ていないのではないかとすら思う。 女性を個人として捉える筆者の視点が実にシャープである。 女性が母親として子供にしてやれることは、生むことだけだと言い切るあたりは感動した。 本書が私に与えた影響は非常に大きく、私の著作活動の根拠とさえなっている。
筆者は国立市の公民館活動に携わってきた人物らしく、公民館における託児制度の問題から本書は始まっている。 1965年の5月から国立市(当時は町)は、託児制度をともなった「若いミセスのための教室」を始めている。結婚して出産、たちまちにして子供という足枷ができる。 もちろん子供は可愛いが、子供を生んでも女性は人間である。 人間としての自分の活動がしたいのは当然である。 しかし、自分の活動に子供はどうしても障害になる。そこで託児施設があれば、ということから始まったのだろう。 託児対象の子供はゼロ才から3才まで、保育者はボランティアだったそうである。 保育者という言葉にも筆者のこだわりが見え、とても好感が持ている。 ふつうは保母さんというし、現場では保母さんといっているらしいが、筆者は保母とは母親の代わりという意味だという。 保育園も保育室も家庭の代用ではないのと同様に、託児は母親の代わりではなく、託児担当者を保母と呼ぶのはおかしいという。 女性運動がウーマン・リブと呼ばれていた当時、筆者がなぜ本書のような視点を獲得したのか。 非常に興味がある。 わが国のフェミニズムが筆者のような論調を見せていたら、フェミニズムがこれほどの退潮にはならなかったと思う。 筆者は次のように言う。 子どもにとってこそ腹は借りものなのに、母親の方が、貸したことをタテにしすぎて不幸をおこしています。これは、女がタテにせざるを得なかった、という方が正確なのでしょうが、それにしても、他者である個としての子ども自身にとって、という視点が欠落している事実は否めません。その点では母親由身も支配者と同罪であった、と私はいいたくなります。(中略) 女が生む性であることで差別されないためには、外界に向かうことと同時に、女由身が、生むことの上にアグラをかかないこと。差別されるから生まない、生むことを拒否するという構えだけではなく、国家にせよ、家にせよ、ヒトのためには生まないが自分自身が生みたいから生むのだ、育てなければならないから育てるのではなく、育てたいから育てるのだ、というような発想を一度女自身の中に築くこと。そこを原点にするのでなければ、いつまでも男を相手に、現象的な、その場しのぎのこぜり合いをくり返すばかりですし、社会的な変革の内実を保障することはできないだろうと思います。P128 筆者が言うとおりだと思う。 ここには女性は弱者であるという発想はなく、男性とともに社会を背負う意気込みがある。 そして、男女が同質の人間であるという認識がある。 女性の自立が子供の自立を促すことは、1990年代以降のアメリカ映画で描かれている。 女性が個であると主張することは、男性はもちろん子供も個であるのだ。 核家族のなかで女性が孤立させられたという反省が、子供との関係を見直す契機になっているとはとても思えない。 農耕社会から工業社会への転換で人間は孤立化を促され、情報社会でより一層の孤立を強請される。 女性たちは結婚・出産を選んだことを自覚しないから、子供の自立が見えないのだ。 私は「性差を越えて」で、女性の解放は女性にとって甘露なものではなく、厳しいものになると書き、今後の課題は子供だろうと書いたが、それは本書からの示唆も大きかった。
参考: 下田治美「ぼくんち熱血母主家庭 痛快子育て記」講談社文庫、1993 ジョン・デューイ「学校と社会・子どもとカリキュラム」講談社学術文庫、1998 大河原宏二「家族のように暮らしたい」太田出版、2002 G・エスピン=アンデルセン「福祉国家の可能性」桜井書店、2001 G・エスピン=アンデルセン「ポスト工業経済の社会的基礎」桜井書店、2000 J・F・グブリアム、J・A・ホルスタイン「家族とは何か」新曜社、1997 磯野誠一、磯野富士子「家族制度:淳風美俗を中心として」岩波新書、1958 エドワード・ショーター「近代家族の形成」昭和堂、1987 黒沢隆「個室群住居」住まいの図書館出版局、1997 S・クーンツ「家族に何が起きているか」筑摩書房、2003 奥地圭子「学校は必要か:子供の育つ場を求めて」日本放送協会、1992 信田さよ子「脱常識の家族づくり」中公新書、2001 高倉正樹「赤ちゃんの値段」講談社、2006 デスモンド・モリス「赤ん坊はなぜかわいい?」河出書房新社、1995 ジュディス・リッチ・ハリス「子育ての大誤解」早川書房、2000 フィリップ・アリエス「子供の誕生」みすず書房、1980 伊藤雅子「子どもからの自立 おとなの女が学ぶということ」未来社、1975 エリオット・レイトン「親を殺した子供たち」草思社、1997 ウルズラ・ヌーバー「<傷つきやすい子ども>という神話」岩波書店、1997 編・吉廣紀代子「女が子どもを産みたがらない理由」晩成書房、1991 塩倉裕「引きこもる若者たち」朝日文庫、2002 ピーター・リーライト「子どもを喰う世界」晶文社、1995 ニール・ポストマン「子どもはもういない」新樹社、2001、 杉山幸丸「子殺しの行動学:霊長類社会の維持機構をさぐる」北斗出版、1980 矢野智司「子どもという思想」玉川大学出版部、1995 瀬川清子「若者と娘をめぐる民俗」未来社、1972年 赤川学「子どもが減って何が悪い」ちくま新書、2004 浜田寿美男「子どものリアリティ 学校のバーチャリティ」岩波書店、2005 本田和子「子どもが忌避される時代」新曜社、2008 鮎川潤「少年犯罪」平凡社新書、2001 小田晋「少年と犯罪」青土社、2002 リチヤード・B・ガートナー「少年への性的虐待」作品社、2005 広岡知彦と「憩いの家」「静かなたたかい」朝日新聞社、1997 高山文彦「地獄の季節」新潮文庫、2001 マイケル・ルイス「ネクスト」潟Aスペクト、2002 服部雄一「ひきこもりと家族トラウマ」NHK出版、2005 塩倉 裕「引きこもる若者たち」朝日文庫、2002 瀬川清子「若者と娘をめぐる民俗」未来社、1972 ロイス・R・メリーナ「子どもを迎える人の本」どうぶつ社、2005 瀬川清子「若者と娘をめぐる民俗」未来社、1972年
|