匠雅音の家族についてのブックレビュー    少年への性的虐待−男性被害者の心的外傷と精神分析治療|リチヤード・B・ガートナー

少年への性的虐待
男性被害者の心的外傷と精神分析治療
お奨度:

著者:リチヤード・B・ガートナー    作品社、2005年  ¥3800−

 著者の略歴−家族療法家、対人関係論的精神分析家。ウィリアム・アランソン・ホワイト研究所(ニューヨーク市)を修了し、現在、同研究所の心理的トラウマ研究センター長であると共に、同センター性的虐待プログラムの創設者かつ主任でもある。性的児童虐待を受けた男性の治療に関して、多数の著述と講演を行っており、編著として『性的裏切りの記憶−真実・空想・抑圧・解離』などがある。また、ホワイト研究所の心理療法スーパーバイザーおよび教育スタッフ、精神分析マンハッタン研究所の虐待・近親姦センターの相談役およびスーパーバイザーも務めている。雑誌『現代精神分析』と『アメリカ精神分析雑誌』の編集委員、男性性被害全米組織(NOMSV)の理事を務め、マンハッタンとブルックリンで個人開業をしている。

 性的虐待といえば、被害者は少女や女性と相場が決まっていた。
しかし、そんなことはない。男女問わずに被害者になる。
ジュディス・ハーマンの「心的外傷と回復」やアリス・ミラーの「闇からの目覚め」が、
被害者としての女性から、異議申し立てとして出版されたので、
女性だけが被害者だと思いこんでしまった。
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 本書は、性暴力の被害者として男性をあつかった初の専門書と、腰巻きに謳っているが、
いかに流行によって社会の注目が左右される証である。
ジェンダーなる言葉を、あたかも女性に特有、女性が被害者であることを立証するために使う傾向がある。
しかし、ジェンダーバイアスが両性に等しくかかるのは当然であり、片方の性だけが特別ではない。

 前近代社会にあっては、現代社会とはまったく異なった性規範があり、
社会的な逸脱か否かは、現代とは違う基準で判断された。
本書は、文化の相対性にも目が向けられており、
その意味では「心的外傷と回復」や「闇からの目覚め」よりは、
中立的で科学的といっても良い。

 彼を含めて7歳から12歳の少年たちが家族から引き離され、男性ばかりが住むある場所に連れて行かれたことを、あなたは聞かされる。そこで彼らは強制労働させられ、休みにはそこで年長の男たちのペニスをしやぶらされた。少年たちは彼らから、他の男性の精液を吸い込むと男らしくなるのでとてもよいということや、よって多くのペニスをくわえればくわえるほど男らしくなれるということを教わる。P182

 上記は、サンビアンと名づけたニューギニアの一種族における、
思春期の少年に対する習慣である。
今日の近代社会から見れば、とんでもない行為で、明らかに性的虐待として見るだろう。
しかし、本書はサンビアンにとっては、男らしさの精髄である大切な精液が、
年長の男性から思春期の少年に寛大にも分け与えられる、公認された通過儀礼だと言う。

 男性の精液を口から入れるのと、肛門から入れるのに違いはない。
プラトンの「饗宴」を待つまでもなく、
ギリシャでは年長者から年少者への同性愛が、
ニューギニア人とまったく同じ意味を持ってなされていた。
問題は、こうした行為が、社会的に正しいこととして公表されているか否かである。
ニューギニアにしてもギリシャにしても、年少の男性を性的に愛撫することは、
公に認められており、少しも隠すことではなかった。
むしろ愛者をもつことは、褒められたことだった。

 ある性的行為がもたらすトラウマの度合いを判断するうえで特に関わってくるのは、家族や子どもがその性的体験を秘密にしておかなくてはならないと感じるかどうかである。一般的に、少年が秘密にしなくてはならない度合いが大きければ大きいほど、また文化的に逸脱したものであればあるほど、その性的体験はよりトラウマになりやすくなる。P182

 近代初期は大量生産に代表されるように、社会的な価値の選択肢が狭まった。
性は解放のエネルギーを秘めているので、
近代社会では性を秘めたものとして、私的世界へ閉じこめ社会的なタブーとした。
かつては女性も平気で猥談をしたが、性にかんすることを口にするのは下品なことだとされた。
誰でも性交しているくせに、あたかも性交をしていなように装い始めたのが、
近代の初期である。ジュディス・レヴァインが「青少年に有害」を書いて、
年少者の性を解放させようとするが、それはまだまだ少数派である。

 近代では下品なことを口にするのは、社会的な逸脱であり、
大人は性交をしているにもかかわらず、性を私的世界の秘め事として封じてしまった。
そのうえ、性交は大人の独占品であり、子供が性交することは許さなくなった。
もちろん、大人と子供が性交することも禁止された。
そのため、愛情に基づいた行為であっても、性的な行為が少しでも絡むと、
それを虐待と見なすようになった。
とりわけ男性の優位性が確立されるにしたがい、
年長男性から若い女性への性的愛撫は、性的な逸脱と見なされるようになった。

 個人は社会に生きるから、社会の価値観から超越しては生きることができない。
社会的な否定を内包したら、それを公言することは、自分を否定してくれといっているに等しい。
そのため、ますます公言できなくなる。
こうした構造は、個人を追いつめ、精神的に渇望感を与える。
この構造は男女を問わない。

 本書を読んでいると、近代社会の狭量さを感じさせると同時に、
自己責任の迫られ方の強さを知る。
前近代ではすべてが神に決められていたので、生きるための選択は神にまかせれば良かった。
人間は責任をとらずにすんだ。
ここでは逸脱が起きることはあり得なかった。
しかし、近代に入るとき、神を殺してしまったので、すべを人間が決めなければならなくなった。
そのため、決断の責任を人間がとる羽目に陥ったのである。

 個人責任を追及する時代がこのまま進めば、
虐待が増えることはあっても、決して減ることはないと断言できる。
近代社会はタブーを次々に作っている。
タブーを犯すことは虐待となる。
つまり、自分が性的な行為の対象になったという事実ではなく、対象になったということの社会的な意味が問題なのである。
不平等でしかない人間たちを、平等にしようとするから、どうしても歪みが出る。

 平等化が進む社会では、立場の違う者のあいだの性関係は、ますますタブーとなっていくだろう。
生理・精通前の人間に対する性行為は言うに及ばず、
すでに大学においての師弟間の性行為も許されない。
若い男女間の性交であれば問題なくとも、その男女が師弟関係にあるというだけで否定される。
職場の上司と部下の関係もセクハラとなりうるし、既婚者と未婚者の性交も批判的に見られる。

 近代の性関係は、核家族が保証している。
核家族を営む男女以外の性関係は、本来は許されない。
そのため、核家族が残れば、上記のような性関係は、すべて性的虐待と見なされるようになるだろう。
核家族は年齢の近い男女を単位とするから、それ以外の関係を許容できない。
近代の価値観を守れば、核家族的な関係にあてはまらない性関係は、全て否定されていくだろう。
また、相手が変わりやすい性関係も、逸脱と見なされやすい。

 情報社会化が不可避だとしたら、個人の平等化は必然だから、
個人が個人として生活できるようにしないと、逸脱者を生み出すばかりである。
立場の違う人間間の性関係も、認める方向に行かなければ、被害者の発生は防げないだろう。
生理・精通以前の人間に対しては、性的な行為を行うべきではないが、
それ以外の人間の性関係は否定すべきではない。

 被害者は被害者だと思わされることによって、被害者にされてしまうのだから、
核家族的な均質な人間関係を壊すことこそ、解放への道だろう。
現在、性的な虐待にあっている被害者には気の毒だが、
精神分析はむしろ被害者を、ますます被害者へと追い込んでいくように思う。
同じ問題を扱っていながら、「心的外傷と回復」や 「闇からの目覚め」が
近代の暗部を解明したとすれば、本書は近代の限界値を示している。
 (2005.08.31)
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参考:
下田治美「ぼくんち熱血母主家庭 痛快子育て記」講談社文庫、1993
ジョン・デューイ「学校と社会・子どもとカリキュラム」講談社学術文庫、1998
大河原宏二「家族のように暮らしたい」太田出版、2002
G・エスピン=アンデルセン「福祉国家の可能性」桜井書店、2001
G・エスピン=アンデルセン「ポスト工業経済の社会的基礎」桜井書店、2000
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S・クーンツ「家族に何が起きているか」筑摩書房、2003
奥地圭子「学校は必要か:子供の育つ場を求めて」日本放送協会、1992
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高倉正樹「赤ちゃんの値段」講談社、2006
デスモンド・モリス「赤ん坊はなぜかわいい?」河出書房新社、1995
ジュディス・リッチ・ハリス「子育ての大誤解」早川書房、2000
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伊藤雅子「子どもからの自立 おとなの女が学ぶということ」未来社、1975
エリオット・レイトン「親を殺した子供たち」草思社、1997
ウルズラ・ヌーバー「<傷つきやすい子ども>という神話」岩波書店、1997
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塩倉裕「引きこもる若者たち」朝日文庫、2002
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ニール・ポストマン「子どもはもういない」新樹社、2001、
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赤川学「子どもが減って何が悪い」ちくま新書、2004
浜田寿美男「子どものリアリティ 学校のバーチャリティ」岩波書店、2005
本田和子「子どもが忌避される時代」新曜社、2008
鮎川潤「少年犯罪」平凡社新書、2001
小田晋「少年と犯罪」青土社、2002
リチヤード・B・ガートナー「少年への性的虐待」作品社、2005
広岡知彦と「憩いの家」「静かなたたかい」朝日新聞社、1997
高山文彦「地獄の季節」新潮文庫、2001 
マイケル・ルイス「ネクスト」潟Aスペクト、2002
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塩倉 裕「引きこもる若者たち」朝日文庫、2002
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ロイス・R・メリーナ「子どもを迎える人の本」どうぶつ社、2005
瀬川清子「若者と娘をめぐる民俗」未来社、1972年

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芹沢俊介「母という暴力」春秋社、2001
編・吉廣紀代子「女が子どもを産みたがらない理由」晩成書房、1991

鈴木邦男「公安警察の手口」ちくま新書、2005
高沢皓司「宿命」新潮文庫、2000
見沢知廉「囚人狂時代」新潮文庫、2000
ジョン・ハワード「18世紀ヨーロッパ監獄事情」岩波文庫、1994
山本譲司「累犯障害者」新潮社、2006
足立正生「塀の中の千夜一夜」愛育社、2005
三浦和義「弁護士いらず」太田出版、2003
浅野健一「犯罪報道の犯罪」新風舎文庫、2005
山崎哲「<物語>日本近代殺人史」春秋社、2000
菊田幸一「日本の刑務所」岩波新書、2002
有村朋美「プリズン・ガール」新潮文庫、2005
佐藤清彦「にっぽん心中考」文春文庫、2001
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浜田 寿美男「自白の研究」三一書房、1992
小田晋「少年と犯罪」青土社、2002
鮎川潤「少年犯罪」平凡社新書、2001
流山咲子「女子刑務所にようこそ」洋泉社、2004
藤木美奈子「女子刑務所」講談社文庫、2001
ヨシダトシミ「裁判裏日記」成美堂出版 2008
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河合幹雄「安全神話崩壊のパラドックス」岩波書店、2004

河合幹雄「日本の殺人」ちくま新書、2009

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